つくしんぼと恋心 - 水森視点


 ──やっぱり、お腹に何か入れておくべきでした。

 後悔先に立たず。
 その言葉の真意を実感したのは、夕闇迫る時間帯に差し掛かった頃。
 買い物帰りの主婦の姿も見当たらない、住宅街の一角。私は空腹のあまり、ぺたんと地面に座り込んでしまった。
 一応成人迎えた大人がこの様だ。
 本当、情けない。

 普段から馬鹿みたいに食べまくる癖に、どうして今日だけご飯を抜いてしまったのか。
 朝食・昼食抜きのまま1日通しで仕事なんて滅多に無いけれど、仕事の都合上、そうなってしまう事だってある。
 でもそんな時でも、いやそんな時でこそ、ポケットなり鞄の中なり常備品を忍ばせておくのが、鉄壁のマイルールだった。
 仕事中にお腹の音が鳴る、なんて事は避けたいからだ。

 それが。
 どうして今日に限って。
 何も無いんでしょうか。

 昨日、空腹に負けて全部食べてしまったからですね、ハイ。

 空腹くらいで、と思われるかもしれないけれど、私にとって空腹という症状は、もはや余命宣告を受けているのも同じ。
 餓死寸前の体は全く力が入らず、蹲る様にその場にしゃがみこんでしまった。

 やっぱり、無理やり時間を作ってご飯を食べておくべきでした。
 もしくはコンビニに寄って何か買ってこればよかった。
 しかしこの周辺にコンビニらしき建物は見当たらない。絶望でしかない。

 もはやお腹が空きすぎて気持ち悪い。
 貧血にも似た不快感が身を襲う。
 脳に酸素がうまく回っていないのかもしれない。
 翳む視界の中、視界の端に捉えたもの。
 春の息吹とともに凛と聳え立つ、それはそれは立派なつくしんぼ。

 ……つくしんぼって生で食べても美味しいのかな……。

 思考回路が危機レベル5あたりまで到達しかかったその時、後ろに人の気配を感じた。
 そして、トントン、と肩を叩かれる。
 声を掛けられた気がするけれど、つくしんぼに意識が向いていた私にその声は届かない。

 もう私はダメです……。
 お腹が……すきました……。



・・・



 心の中の嘆きは、どうやら口に出てしまっていたらしい。
 私の訴えを聞いた誰かにガッと腕を引っ張られ、近くの公園まで強制連行されてしまった。

 あれ。
 今、私の身に何が起こってるの。
 事態を把握できないままベンチに座らせられて、目の前に何かを差し出された。
 大きな手のひらの上に転がるそれは、コンビニでよく見かけるあの小さいおにぎり。
 ちょっと小腹が空いた時に、つまみぐい程度(?)で確かな満足、それでいてワンコインで購入できるアレです。
 ペットボトルのお茶も一緒に「どうぞ」と差し出されて、その意味を理解した途端、私は悟った。

 このひとは……神様か……。







 神様ではなかった。

 キリタニと名乗ったその人は、黒いコートに身を包んだサラリーマン風のお兄さん。整った顔立ちの、なかなか素敵なイケメンさんだった。
 見た目はとても若く見える。
 私と同じくらいの歳だろうか。
 そう分析しつつ、助けてくれたお礼がしたいと申し出る。
 けれど彼は、頑なに拒否の態度を取った。
 あまり私に関わりたくない、という意思表示かもしれない。
 確かに、空腹で道端に倒れているような奴を助けたからって彼に何かメリットがある訳でもないし、そんな変な奴と関わりたくないと思われても仕方ないかもしれない。
 残念だけど、私は大人しく引き下がった。
 彼が少し気まずそうな態度を見せたので、明るい(でもきっと無表情)態度で接すれば、安心したように表情を和らげてくれた。

 見ず知らずの人間を見捨てたりせず、ちゃんと助けてあげられる人。
 この人から受けたご恩と優しさだけは一生忘れないようにしよう。
 そう胸に刻み込んだ。



・・・



 そんなキリタニさんと私は、何かの縁で繋がっていたのかもしれない。
 まさか同じ会社の人だったなんて思いもしなかった。
 それは相手も同じ思いだったようで、2度目の再会にすごく驚いている。
 ただ、昨日と違う点がひとつあった。
 私に対する態度だ。

 物腰も柔らかで、口調も堅苦しくない。
 昨日の、どこか拒絶に近かったよそよそしいあの空気は、今日は微塵も感じなかった。
 そんな彼の態度に、ちょっと嬉しくなる。
 あまつさえ、夕飯にまで誘ってくれた。
 お礼じゃなくて一緒にご飯、という理由付けをしてくれたのも、何だか嬉しくてくすぐったい。
 特別に、行きつけのお店でもご紹介しようかな。
 そんな浮かれ気分で歩いていた私に、マーケの先輩達が群がってくる。


「ミズキチちゃんおはよー」

「おはようございます」

「ね、今桐谷さんと一緒にいた?」

「はい」


 1年前、私が入社した会社。
 アジュールは、絵画商材を中心に事業を展開させている企業だ。
 大まかに言うと営業、マーケティング、人事部門があって、私はそのマーケ部門。
 今でこそマーケティング、という名称に変わったけれど、数年前までは総合事務という名で、社員も女性が大半を占めていた。
 逆に営業は男性社員ばかり、という訳ではなく、女性も年々増えている。
 そしてキリタニさんは、営業二課の担当。
 さっきエレベーターで聞いたのです。


「何の話してたの?」

「えっと。キリタニさんに昨日、ちょっとお世話になりまして。そのお礼を言ってました」

「お世話?」

「空腹で倒れていたら、ご飯を恵んでくれました」

「またご飯!?」


 そこで一斉に笑いの渦が起こる。


「さすがのミズキチちゃんだわ」

「でもすごいね? あの桐谷さんが助けてくれんて」

「凄いんですか?」

「だって、営業二課の次期エースって言われてるような人だよ。ホープだよ。あれ? ミズキチちゃん、桐谷さん知らないの?」

「キリタニさん……桐谷郁也さん?」

「そうだよその人! え、本当に気付いてなかったの?」

「はあ……気付きませんでした」


 桐谷郁也さん。
 私と同じ時期に入社した人。
 営業成績はトップではないものの、常に優秀。
 期待のホープって言われてる。

 名前だけは知ってた。
 今まで喋ったり、関わった事は無かったけれど。
 あの人がそうだったんだ。


「彼、どんな感じだった?」

「どんな感じ……とは?」

「桐谷さんって、ほら。女嫌いでちょと有名だから」

「オンナギライ……?」


 聞き慣れない単語に首を傾げる。


「女子には態度悪いって話だよ。愛想が無いっていうか」

「そう……なんですか」


 噂は所詮、噂でしかない。
 でも、納得できる部分はあった。
 確かに昨日話した時は素っ気無く感じたし、お世辞にも愛想がいい、とは言えなかった。それに関しては、私も人のことは言えないけれど。
 だけど私は、助けてもらった身だ。感謝こそはしているものの、彼に対して悪い印象は抱いていない。それに、今朝は好意的に接してくれた。 
 話しやすかったし、女嫌いって印象は全く感じなかった。
 もしかして、日によって態度が変わる人なのかもしれない、と頭の片隅で考えてみる。
 それでも、やっぱり彼に『女嫌い』というワードは、私の中では全く結び付かなかった。



・・・



 気分屋さんなのかな? と思ったキリタニさんは、全然気分屋さんなんかじゃなかった。
 やっぱり噂は、噂程度でしかなかったみたい。

 今日は彼と3回目のご飯会。
 箸をつつきながら話す内容は、ほとんどが仕事の話題だ。

 キリタニさんはすごく真面目な人で、仕事に対しては特に厳しい目を持っていた。
 自分なりの営業スタイルをきちんと確立していて、滅多に聞けない営業の極意を彼から教わるのは、なかなか新鮮で面白かった。
 彼もマーケの内情を知りたかったようで、互いに色々と情報を共有した。
 とはいえ、全てをおおっぴらに公言するわけにもいかない。
 そうなると、会話の限界は近づいてくる。
 次第に、休日の過ごし方や趣味などに話題は移っていた。


「実は株をやってて」


 と、うっかり口を滑らせてしまった。

 この手の話は、あまり人には喋らない。
 お金が絡む話は、人によっては嫌悪感を抱かせてしまうから。それは株投資も同じ。
 全く興味の無い人から見たら、株をやっている人間はギャンブルという世界で生きている人と同じ印象なんだろうと、勝手に思っていたから。
 この温度差が嫌で、株投資をしている事は誰にも話せなかった。
 なのに、どうしてこの時に限って、キリタニさんにポロッと喋ってしまったのか。
 彼の話術が巧みだった所為だったかもしれない。
 さすがは営業部のホープさんです。
 私は打ち明けてしまった。


「え?」


 案の定、彼は驚いて私を見返してきた。

 あああやっぱりそういう反応になりますよね。
 どうしよう、金にがめつい奴だと思われたかな。
 そもそも20の女子が株投資って、痛い子に見られるんじゃないかな。
 せっかく仲良くなれたと思ったのに。
 やっぱり言うんじゃなかった……、


「俺も株やってる」


 ……え。
 今度は私が驚く番。
 過去に今まで、『自分も株やってます』なんて返しを受けた経験はない。
 どうやらそれは、キリタニさんも同じだったようで、私以上にすごく驚いていた。


「え、まじで? まじで株やってる?」

「やって、ます」

「まじか。証券会社どこ?」

「株価部ドットコムです」

「お。同じ」

「ほんとですか」

「うん。口座は他にも開いてるけど」

「私もです。松打とイーパンクとハマックス」

「イーパいいよな。手数料安いから」

「でも、ドットコムに慣れちゃってるから全然ログインしてなくて」

「ああ、わかる。俺も」


 まさかの展開だった。
 こんな趣味が同じだなんて、純粋に嬉しくて。
 それからは一気に、株の話題に花が咲く。

 話せば話すほど、キリタニさんと共通点がたくさん被っていることに気付く。
 株投資のバーチャルトレードから始めた事や、今年から実際に手を出した事、意外と似ていた投資スタイルなんかも。


「キリタニさんも株やってるなんて、意外でした」

「俺もびっくりした。周りで株投資やってる奴、いないから」

「私の周りにもいないです」

「じゃあ、これからは株の話も出来るな」


 整った顔がくしゃりと崩れて、とても嬉しそうに笑う。
 思わず見惚れてしまって恥ずかしくなる。

 私ほどではないけれど、キリタニさんもあまり表情に変化がない。
 クールと言えば聞こえはいいけれど、無愛想、とも見れ取れる。感情を表に出さない人だ。

 そんな人が、今。
 私の隣で、楽しそうに笑ってる。
 笑った顔は少しだけ幼くて、胸の奥が甘く疼いた。
 ……こんな風に、笑う人なんだ。

 私はきっと無表情のままだろうけど、本当はとても楽しくて仕方ない。
 キリタニさんの話に食いついて、頷いて、また話を振って。どれだけ話しても、会話が途切れることが無い。
 彼の言葉や表情ひとつに、一喜一憂してる自分がいる。

 心がふわふわと舞っているような夢心地。
 興奮でざわついていた鼓動にひとつ、甘やかな鼓動が混じる。
 芽生えたばかりの感情が胸を満たしていく瞬間を、私は確かに感じていた。



(了)

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