キッカケ




 翌日の社内は、どこも活気で賑わっていた。
 おそらく華金が原因だろう。
 今日を耐え抜けば、明日から世間は3連休だ。定時上がりに飲みに行く連中もいるだろうし、連休という解放感が、社員達の原動力になっている。かくいう俺も、同僚から飲みに誘われている身だ。

 ……水森も、誰かと飲みに行くのかな。






「あの」

「はい?」

「水森さんから借りていた資料の件で話があるんですが。本人、いるかな」

「………え?」


 3階のオフィスを見渡しても水森らしき姿はなく、近くにいたマーケ社員に声を掛けた。
 けれど彼女達は何故か、疑わしげな視線を俺に……、
 いや、俺の背後へと向けていた。


「水森さんなら、すぐそこに、」

「え?」

「──ここにいます」

「うわっ」


 背後から聞こえてきた声に驚いて振り向けば、すぐ真後ろに水森が立っていた。
 気配に全く気付いていなかった俺の慌てように、周りからは小さな笑い声が漏れている。
 一方の水森は、やっぱり今日も無表情で。


「……びっくりした」

「ごめんなさい。私、存在感が薄くて」

「………」


 そんな返しを受けたのは初めてだ。


「あのさ、今忙しい? 昨日の件で話があったんだけど」

「……大丈夫ですよ」


 トーンを落とした水森の声は弱々しい。
 緊張で強張っているのか、表情も固い。
 そんな彼女に内心戸惑いつつ、2人でその場を後にした。

 休憩スペースに足を運び、自動販売機で缶コーヒーを2本購入する。
 彼女に差し出せば、目を丸くして俺を見返してきた。


「いいんですか?」

「どうぞ。1本じゃ、足りないかもしれないけど」

「……足ります。足らせてみせます。大丈夫です」

「……」


 ……こんなに信用ならない決意表明を聞かされたのも初めてだ。

 壁を背に寄りかかり、プルタブを開ける。
 プシ、と耳に心地いい音が響いた。
 隣に並んだ水森が、いただきます、と謝礼を述べてから口につける。
 その様を見届けてから、俺もコーヒーを飲み込んだ。

 周囲に人気はほとんど無い。
 たまに社員が通り過ぎるだけで、人の賑わいは遥か遠く。
 どことなく、ぎこちない空気が流れている。


「ファイルのことなんだけど」


 沈黙に耐えられず、口を開く。
 ぴく、と水森の肩が震えた。


「ごめん、実は家に置き忘れてきたんだ。本当は今日、返すつもりだったんだけど」

「え、そうだったんですか」

「来週でも大丈夫? すぐ必要なら、家に行って取ってくるけど」

「あ、いえ。大丈夫です」


 慌てて彼女は首を振る。
 でもその表情は、まだ強張っていて。


「……あのファイルさ」

「……はい」

「すごかった。俺は、ていうか誰も、あんなこと調べてもいないし、考えてすらいないと思うから。水森の着眼点にびっくりした。読んでて興味深かったよ」

「………」

「でも、今は俺以外の社員には見せない方がいいかもしれない」


 それは忠告というより、彼女の身を案じて出た言葉だ。

 この会社は基本的に、大卒者のみを採用している。高卒者を採用したのは昨年、つまり俺達が初めてらしい。確か5人いたはずだ。
 ちなみに今年の採用者はいない。
 つまり俺達に、まだ後輩はいない。
 周りは大卒の先輩だけだ。

 一番立場が弱い下の人間が、上の人間に意見を主張するのは、いささかリスクを伴う。
 水森もそれをわかっていたから、上司でも先輩でもなく、同期の俺にファイルを見せてくれたのかもしれない。


「……気、悪くしましたか?」

「いや? 俺は全然」

「……よかった」


 水森は安心したように胸を撫で下ろした。

 もし、数年後にあのファイルを見ていたら、何か思うことはあったかもしれない。
 でも今の俺はまだ、自分のことで精一杯な状況だ。営業とマーケの関係性なんて、考える余裕も無い。
 何も染まっていない時期にあの問題を提示されても、僅かな違和感を覚えるだけで、不快感を抱いたりはしない。

 それよりも。


「水森、悩んでる?」

「え?」

「あのファイルの中身を見たら、何か抱えてんのかなって思ったんだけど」


 水森がどうして、営業とマーケの問題を調べているのか。
 俺にファイルを見せて、どうしたいのか。
 それが一番気がかりだった。
 たった一人であの情報をかき集めていたのは、何か理由があるはずだ。
 問い掛ければ、彼女は躊躇いがちに口を開いた。


「……たまに、ですが」

「うん」

「営業のやり方に、不信感を抱く時があります」

「……え」


 その発言に、多少なりとも驚く。
 俺自身はマーケに不信を抱くようなことは一度も無かったし、気にすることもなかった。
 けれど彼女は、営業側に不信を買っている、と言う。
 その発言の意味するところは。


「問題視する程のものではないんです。ただ、気になる事があって」

「うん」

「引き継いだ筈の情報のいくつかが『要らないもの』として認識されていたり、引き継いだ後の顧客状況が、マーケに伝わってこない時があって」

「……え、そんな事ってあるのか?」


 にわかには信じ難い内容だった。

 マーケの役割は『売れる仕組み』を考える事だ。商品開発に先立ち、情報収集に市場調査、顧客データの分析や解析など、社内ブレーンとして多様な役割を果たす機会が多い。
 だからマーケは、営業に情報を引き継いだ後であっても、顧客の状況を把握しておかなければならない。その為には常日頃から、営業社員との情報交換が必要になる。
 ネット媒体やSNSが普及し、時代がデジタルマーケティング化している昨今、営業よりマーケターを重要視する企業も増えている。故に、マーケティング情報は膨大な量になった。
 それらの情報量を各部門で共有・管理できなければ、高い成果なんて見込めない。


「営業は短期間での成果が求められるので、質のいい情報以外は削りたい、という気持ちはわからなくはないです」

「……」

「でも私達は、情報を武器にマーケティング戦略をしています。それを無いものにされるのは……やっぱり、少し複雑です」

「……だよな」


 営業とマーケは、業務内容も求められるものも全然違う。
 けれど、目指すべき目的は同じはずだ。


 "顧客に自社商品やサービスを伝え、成約に繋げること"


 その為に、営業とマーケは存在している。
 どちらも必須で、どちらかが欠けることはあってはならない。
 でも実際は、互いの業務を理解し合おうとしなかったから確執が生まれた。


「情報共有と、相互理解か」

「そういう環境づくりが必要だって、個人的には思っているんですが……その、」


 彼女らしくない、歯切れの悪い言い方だった。
 待てども、水森はその先を伝えようとはしない。喉まで込み上げた言葉を、無理やり抑えてるようにも見える。

 そこで、やっと気付いた。
 水森が今、何を言いたかったのか。
 あのファイルを俺に見せて、何を伝えたかったのか。
 今までの話の流れから推測しても、その答えはひとつしかなかった。


「……環境づくりか。難しいよな」

「……はい」

「社員の意識を変えるなんて、|ひ《・》|と《・》|り《・》|で《・》出来るものじゃないし」

「……」

「かと言って後輩の俺らが、変に出しゃばる事もできないしな」

「……でも、何かキッカケがあれば」


 キッカケ。
 社員の意識を変えざるを得ない、何か。


「だったら、








俺と組もう、水森」


 はっきりと告げれば、彼女の纏う空気が変わる。俺を見上げた水森の目が、驚きで見開いた。
 けれど瞳の奥にある光は、確かに期待感で満ち溢れていた。

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