暴かれた本性 ぶたれた右頬が熱い。 呆然と青木さんを見上げる私の傍で、何かがヒュッ、と空を切った。彼の脚だ。 ゴスッと鈍い衝撃音が下腹部に走り、目を見開く。 「か、は……ッ!」 思いきり蹴られて、お腹を抱えて蹲る。痛みよりも先に吐き気が襲ってきて、たまらず手で口を覆った。 込み上げる胃液を無理やり抑えて飲み込めば、喉にじわりと痛みが広がる。生理的な涙が目尻に浮かんだ。 「……ごめんね遥。遥が言うこと聞いてくれないから、殴っちゃった」 殴っちゃったじゃねえよこのやろう。私は昭和のアナログテレビか。 心の中で悪態つく。 恐怖は不思議と感じていない。 その代わり、相手に対する怒りの方が強かった。 殴り返して罵倒してやりたいのに、胃酸でやられた気管がヒリヒリして声が出せない。頬も頭も右足も、どこもかしこも鈍痛が響く。痛みで思うように動かせない体がもどかしい。 立ち上がることもできず横たわる私の視界に、青木さんが怠そうに脚を動かす姿が映った。 また蹴られる、思わず身を固くしてしまった私に、痛みを伴う衝撃はいつまで経っても訪れない。 けれど状況はもっと悪くなった。青木さんが私に、馬乗りになったからだ。 首元に彼の両手が巻きつく。緩く力を込められて、死に直面している現実に恐怖が生まれた。 あ、やばい。殺される。 命の危険を察知して、必死に体を捩ってみても、所詮女の力が男に敵うわけがなかった。足をバタつかせても青木さんの胸を押し退けようとしても、彼に首を絞められている状態は変わらない。まともな抵抗もできないまま、やがて来るかもしれない死の瞬間に怯えることしかできなかった。 でも、青木さんの手の力は酷く弱いもの。 本気で私を殺そうとしてる意思は、その手加減からは感じられない。 それでも喉仏に圧力が加われば、吐き気を催す程の気持ち悪さが襲ってくる。苦痛に歪む私の顔を、青木さんは悠然とした態度で見下ろしていた。 その表情は穏やかなままで、瞳に怒りの感情は宿っていない。 彼の心理状態が全くわからなくて困惑する。 「ねえ遥。俺、嬉しかったよ? ここに来れば、いつも遥が笑顔で出迎えてくれるから。俺がどれだけ、その笑顔に癒されてきたかわかる? 奥さんの気持ちも考えろ、って遥は毎回言うけどさ、結婚生活なんて、遥が思ってるような綺麗なものじゃないんだよ。家に帰ってもあの女は常に何かにイライラしてて、俺に八つ当たりするし暴言は吐くし、子供にもヒステリックに叫んで、端から見ても見苦しいったらないよ。そのくせ家の外では、さも良き妻っぽく周りに愛想を振り撒いて媚売って、どこまでも汚くて不快な女だ。おかえりも、いってらっしゃいの一言もないし、労いの言葉すら掛けてくれない。でもここに来れば、いつでも俺の帰りを喜んでくれる恋人がいる」 ふふ、と青木さんの口元が緩む。 本当に嬉しそうに笑うから、一瞬だけ、怒りを忘れてしまった。 「夜遅くに来ても、遥はいつも綺麗におめかしして俺を招き入れてくれる。部屋の中も掃除してくれて、お風呂も用意してくれて、お酒も用意してくれて。夜食まで作ってくれる。労いの言葉もたくさん言ってくれるし、会いに来てくれてありがとうって、感謝の言葉もくれる。キスもたくさんしてくれる。全部、俺の為に。でしょ?」 くすくすと、楽しそうに零れ落ちる笑い声。 「それに、セックスも。遥は何度抱いても綺麗なままで可愛い。本気で感じてくれて、可愛い声で啼いてくれるからたまんない。――ああ、安心してね、妻とはもう長年セックスレスだから。あんな豚ババア、もう抱きたいとすら思わないよね、ただただ気持ち悪い(笑)」 「やめっ、手、離し……ッ」 「ほら遥、ちゃんと俺に謝って? 悪いことしたらごめんなさい、でしょ? 謝ってくれたら、またたっぷり愛してあげるから。変な意地張ってないで、俺のところに戻っておいで?」 いや悪いことしてんのはお前の方だろ。 お前が私に謝れよ。 そんな私の正論は、やっぱり音として口から出ることはなく。 それよりも本気で呼吸が苦しくて仕方ない。 どうにかして逃れたいのに、彼が私から退けてくれる気配はない。 せめて、この両手さえ離してくれたら。 たとえば、近くに何か殴るものでもあれば――そう思って片手を動かした時、指先に固い感触がぶつかった。 視線を向ければ、それは私のスマホだ。 頬をぶたれて吹き飛ばされた際に、ポケットから滑り落ちていたらしい。 瞬時に頭に浮かんだのは、「何かあったら連絡しろ」と言ってくれた、アイツの顔。 ――……早坂、 早坂、ごめん。 助けて。 視界が霞む中、LINEのアイコンをタップする。一覧から早坂への通話ボタンをタップして、すぐに手を離した。 早坂にLINE電話した事を、この人に悟られちゃいけない。会話なんてできなくてもいい、この状況を電話越しに聞いてくれたら、早坂ならすぐに状況を察知して助けに来てくれる。アイツはそういう奴だから。 だからお願い。 気付かれる前に、電話に出て。 祈るように願いながら、彼に繋がる瞬間を待つ。 「――今、何したの?」 ……だけど、やっぱり青木さんは見逃してくれない。 スマホを奪われて、絶望的な心境に陥る。 青木さんの親指が、画面を軽くタッチした。 ああ、今ので電話切られたな、ってわかった。繋がる前に、助けを求められなかった。 そればかりか、最悪な展開になった。 「遥、早坂って誰? 女の友達かな? それとも男?」 「……女……友達」 「嘘つくな。男だろこれ」 「ちがうっ、」 「何俺と話してる時に男に助け求めようとしてんだよ!!!!!」 逆上した青木さんが、再び片手を振り上げる。 何されるのかなんてすぐにわかってしまって、反射的に瞳を閉じた。 胸ぐらを掴まれて、パンッと右頬に音が弾く。 ぷつ、と肉が切れて、口の中に血の味が広がった。 「遥、自分が何したかわかってる?」 「……っ、痛、い」 「そうだね、痛いね。でも、俺はもっと痛いよ。こんなに綺麗な遥を殴らなきゃいけないなんて辛いよ。ねえ。全部遥が悪いんだよ? 浮気なんかするから、俺から離れようとするから」 いや、おかしい。 浮気してるのはそっちじゃん? 言ってる事がもうチグハグだよ、案外面白いなこの人。 「浮気されたのは悲しいけど、でも俺は寛大な男だから。謝ってくれれば、1度目の浮気は許してあげる。勿論、2度目はないけどね。ほら、遥。いい子だから、ちゃんと俺に謝って?」 「………ッ」 ……今、ここで素直に謝れば。 きっと、この人は大人しくなるんだろう。 歯向かえばまた、殴られる。 そんなことは容易く予想できた。 「……誰が謝るか、ばーか」 たとえ殴られようが蹴られようが、こんなクズに屈服するなんて絶対嫌だ。私にだって、プライドくらいあるんだから。 直後、彼の目の色が変わる。 再び殴られて、蹴られて、意識が徐々に遠退いていく。青木さんの怒声も全く耳に入ってこない。 こんな状態なのに心はなぜか落ち着いていて、頭は酷く冷静に、明日の出勤の事を考えていた。 ほっぺ腫れたら出勤難しいかな、とか。 男に殴られて顔ヤバイので休みます、なんて会社に通用するのかな、とか。 菅原エリアに言ったら「じゃあマスク着用して出勤してね!」なんて軽く言われそう。あの人なら絶対言う。鬼かよ。 ……あと、警告してまで心配してくれた早坂とかなえちゃんに、死ぬほど謝らなきゃな、なんて考えが浮かんで。 そこで、ぷつりと意識が途切れた。 トップページ |