失望 「締め忘れたっけ……?」 今朝のことを思い出す。早坂に起こされて、寝惚け眼をこすりながらアイツの背中を見送った。その後はきちんと鍵を締めたところは覚えてる。 その後は朝風呂に浸かって、テレビをつけて、朝食を作って、食べて、軽くメイクをして……部屋を出るまでの一連の行動を、ひとつひとつ思い起こす。 そして部屋を出る時に、鍵を締めた。確認もした。やっぱり、締め忘れてなんかいない。 なのに扉は開いている。 「………」 不気味な予感に動きが止まる。 部屋の明かりは点いていないのに、部屋の鍵が開いているという状況に緊張が増す。心臓が馬鹿みたいに暴れだして、変な汗まで出てきた。 最初に頭に浮かんだのは、空き巣の可能性。 私の知らない誰かが、私がいない間に部屋に侵入したかもしれない可能性に背筋が凍る。 マンションの空き巣被害は結構耳にする話だけど、どこか他人事のように考えていた。だから防犯対策なんて何もしていない。せいぜいドアと窓の鍵を締める程度だけだった。 空き巣以外に考えられるのは、合鍵を渡している親の存在。でも私の両親であれば、部屋に来る事前に連絡をくれる筈だ。もちろん、そんな連絡は受けていない。 ……他に可能性を挙げるとすれば、以前、合鍵を渡していた人の存在が浮かび上がる。青木さんだ。 彼に渡していた合鍵は返却してもらった筈だけど、彼が私に内緒で予備を作っていた、という可能性も捨てきれない。そんなことをするような人には見えないけれど、絶対にないとは言い切れない。 でも、本当に私が締め忘れていただけ、かもしれない。むしろそっちであってほしい。 ゆっくりとドアノブを捻る。 恐る恐る扉を開いても、室内はシンと静まり返っている。それが余計に恐怖を募らせた。 無機質な開閉の音でさえ、今は恐怖の対象でしかない。 「……だ、だ、誰かいます?」 我ながらアホな問い掛けだとは思う。 でも声に出さないと、恐怖に押し潰されそうで心臓が痛い。肝試しで馬鹿みたいに笑って、歌いながら怖さを振り切ろうとする人の、あの心理状態と同じだ。 部屋の中が荒らされていたらどうしよう、もし部屋の中に誰かが潜んでいたらどうしよう。最悪の事態に、尋常じゃない程の不安と恐怖が全身に纏わりつく。 弱々しい私の呼び掛けに、応じる声は勿論ない。 でも、感じた。微かに動く、人の気配。 間違いなく、この部屋の中に誰かがいる。 この場から逃げて、大家さんに連絡を取ろうか―――そう考えた時、駐車場の街灯の光が玄関を照らした。 煌々と射す光の先に、自分のものじゃない男性用の靴がある。それが見覚えのある人の靴だと気づいた瞬間、体中の力が抜けた。 ここで安堵を覚えたのは間違いかもしれないけれど、部屋に潜んでいる人物が、私の知らない誰かよりは全然マシだ。 ……にしても、電気くらいつけりゃいいのに。 「どうして部屋に居るんですか、青木さん」 誰かさえわかれば怖いものはない。ズカズカと部屋に入り、すぐに照明をつける。 私のベッドに腰掛けながらスマホをいじっていた人物は、その綺麗な顔を私に向けた。 数ヵ月前までは、彼の姿を見ただけで気持ちが舞い上がっていたのに、今は何も浮上しない。 「おかえり、遥。お仕事お疲れさま」 「電気くらいつけてくださいよ」 「怖かった?」 「当たり前です」 「ごめんね。俺がいるってバレたら部屋に来てくれないと思ってわざと消してたんだ」 「ていうか、なんで部屋に入れたんですか? 合鍵は返してもらいましたよね。まさか予備を作ってたんですか?」 私の問いかけに、青木さんはゆったりと微笑むだけで返事をしない。その沈黙が肯定の証のように感じて、彼の態度に嫌気がさす。 この人はいつもそうだ。自分にとって都合の悪いことは、沈黙でやり過ごそうとしたり誤魔化そうとする。ちゃんと向かい合ってくれないから、いつまで経っても別れ話に決着がつかないままだ。 「……いつから此処にいたんですか?」 仕事が終わったら連絡してほしい、そう伝えていたのに。私の伝言が無駄になってしまった。 この人が私に内緒で、たとえ数分でも、私の部屋で1人くつろいでいたという事実に寒気がする。気味が悪い。 「ついさっきだよ。遥に会えると思ったら嬉しくて、急いで帰ってきたんだ」 「……急いで帰ってくる場所が違うでしょ。奥さんとお子さん、青木さんの帰りを待ってるんじゃないですか? 早く帰ってあげたらどうです?」 「……もう名前ですら呼んでくれないんだね」 「貴方も名前で呼ばないでください。私達はもう、ただの他人同士なんですから」 「遥、俺は」 「七瀬です」 「………」 取りつく島もない私の主張に、青木さんは小さくため息をつく。 「……俺、疲れたよ」 「私だって疲れてますよ」 「抱かせてよ」 「……は?」 「だから、俺疲れてるの。遥で癒されたいんだ。恋人なんだからいいでしょ?」 「ちょっと本気で何言ってるかわかんない」 「変なことは言ってないと思うけど」 「人の話、ちゃんと聞いてますか? 何度も別れてほしいって、私は言いましたよね。その時点で、もう恋人同士なんて言えないですよ。奥さんとお子さん、どうなさるつもりなんですか?」 「妻とはいずれ離婚する。俺は遥と一緒になりたいんだ」 「………」 たまに、この人は心臓に毛が生えてるんじゃないかと疑う時がある。自分のしたことを棚に上げて『一緒になりたい』なんて、よくもまあ平然と言えたものだと憤慨する。 この人はさっき、「部屋にいるとバレたら、私が来てくれないと思った」、自分でそう言っていた。 私が別れたがっていることを、青木さんはちゃんと頭で理解してる。わかっていながら、こんな台詞を吐く意図が読めない。甘い言葉で誘えば私が戻ってきてくれると勘違いしているのか。それはそれで腹が立つ。 たとえ彼が奥さんと別れたとしても、それで私がヨリを戻したいなんて思うはずがない。そんなに軽い女じゃない。私が一番腹を立てているのは、4年間、ずっと裏切られ続けていたことなんだから。 不倫は悪いことだってわかっていながら、私にも奥さんにも平気で嘘をついて罪悪感すら抱いていない、そんな男と一生、一緒にいたいだなんて思えない。 この人とは金輪際会いたくない。 その思いは絶対に揺るがない。 「青木さん、本当にこれが最後です。私と別れてください。あなたには、一生添い遂げると誓った相手がいるんです。それは私ではありません。奥さんとお子さんのこと、ちゃんと考えてあげてください。こんなところで他の女にうつつを抜かしてる場合じゃないでしょ?」 きっぱりと、最後の別れを告げたつもりだった。 なのに彼の表情は変わらない。穏やかな顔で私を見つめていて、傍目から見れば、とても別れ話をしている男女の雰囲気には見えないだろう。 彼の瞳に浮かぶ感情が何なのか、私には読み取ることもできなかった。 「……そんなに俺と離れたいの」 「なんなら今後一切会いたくないです」 「……そう」 静かに瞳を閉じて、青木さんは小さく息を吐いた。 やっと諦めてくれた、そう安堵した私の身体は、次の瞬間、彼の腕に強く引き寄せられて抱きすくめられた。 驚きで声が出ない。 瞬きをすることも忘れて、私を腕の中に閉じ込めている彼を呆然と見上げた。 「……ちょ、何っ、離して!」 「ああ、遥の匂いだ」 陶酔したような声が落ちる。 私の髪を指に絡ませて、頭に顔を埋めてくる彼にぞっとした。 身の毛がよだつほどの嫌悪感に襲われて、必死で腕を突っ張って離れようとする。 それでも距離が開くことはない。 「っ、いい加減にして!」 それでも必死に抵抗を試みれば、僅かに彼の体が離れた。 「もう帰って! 2度とここに来ないで! あなたには奥さんと子供がいるでしょ!?」 「……遥はいつもそれだ。奥さんがどうとか子供が、とか。妻と子がいるから何? いたところで今までと何も変わらないよ? 俺は遥を恋人扱いするし、遥も今まで通り俺と会えて、ここでセックスできて嬉しいでしょ?」 ――……なに、それ。 彼が放った言葉の意味を悟った瞬間、思考が絶望に染まる。私の価値を軽度しているその発言に、腸が煮え繰り返る程の憤りを感じた。 この人が抱いている恋人の認識と、私が抱いている恋人の認識が、全く違う。 向かい合って話し合おうなんて最初から無理だったんだ。見ている方向が全然違うんだから。 「……はっ、」 乾いた笑いが声に出た。 思い違いも甚だしい自分の馬鹿さ加減に吐き気がする。 「待って、マジうける、あはは」 「……遥?」 「恋人扱いって、そんな事してくれるんですか私なんかの為に。ははっ……、ふ……ッ」 嗚咽まで漏れる。 悔しくて悔しくて、涙が滲んだ。 ねえ、早坂。聞いた? この人、奥さんがいても私を恋人扱いしてくれるらしいよ。 笑っちゃうよね。 恋人『扱い』って。 私は、恋人ですらなかったよ。 私達の過ごした4年間は、この人にとって、一体なんだったんだろう。 青木さんから連絡が来る度に嬉しくなって、舞い上がっていた私って何だったんだろう。 敬語が少しずつタメ語に変わって、名前で呼ばれるようになって、少しずつ距離が近づいていくのが嬉しかった。部屋に寄るね、ってメッセージが届く度にソワソワして、仕事で疲れているだろう彼の為に、夜食を作ってみたりした。 急に会えなくなる日もあったけど、そんな時はいつも、次の日の早朝に顔を見せに来てくれた。 そんな彼の気遣いが嬉しくて幸せを感じていたのに、あれはただ、私のご機嫌取りをしていただけに過ぎなかったんだ。 この人にとって私は、性欲や家庭のストレスを和らげる為だけの存在価値しかなくて、しかも私自身がそう扱われる事に喜んでいると思ってる。 もしかしたら家庭のことも、彼が自身の評価を上げる為だけに作っただけのものかもしれない。そこに愛情の有無なんて関係ない。 仕事熱心で、家族を愛する夫という印象は、誰から見ても好印象だ。 その裏で、不誠実な関係を続けていた私の存在感なんて、ゴミ屑程度のものでしかない。 彼を恋人だと思っていたのは、私だけ。 ちょっと恋人扱いすれば、しっぽを振って喜んでくれる、まるで彼のペット扱いだった私。 最悪だ。惨めすぎる、こんなの。 少しでも彼との将来を夢描いていた過去の自分を呪った。 同時にこの人に対する憎しみも湧く。 「――2度と来んなクズ」 怒りに任せて、そう口走ってしまった。 その直後、 ―――パンッ! 顔に響いた破裂音とともに、体が真横に吹っ飛んだ。足がもつれ、テーブルの脚につまづいてしまった拍子に、派手な音を立ててその場に崩れ落ちてしまう。 ガツッ、とこめかみに嫌な衝撃が伝わって、テーブルの角に頭をぶつけたと悟った瞬間、身に起こった事態を把握した。 ぶたれた。 わたし、今、頬をぶたれた。 青木さんに殴られた。 そう認識してから、時間差で痛みが襲ってきた。 平手打ちされた左頬と、テーブルにぶつけた右足とこめかみに激痛が走り、顔をしかめる。 「……あーあ、」 頭上から、落胆したような声が降り注ぐ。 ゆっくり顔を上げた私の瞳に映ったのは、こんな時でも穏やかに微笑んで私を見下ろす、青木さんの姿。 「せっかく大事にしてたんだけどなあ」 けれどその声は、背筋が冷える程に温度がなかった。 トップページ |