忍び寄る影


 夜も更けた21時。
 私が住むマンション前に、早坂が所持している通勤用の中古車が停車している。
 その助手席と後部座席からは、悩ましげなため息がふたつ、こぼれ落ちている。

「あーやだー帰りたくないー、会いたくないー、めっちゃ胃が痛いしんどい吐きそう、てか吐く」
「七瀬さんに彼氏がいたなんて知らなかった……全然早坂さんとくっつく気配が無いから、なんで? って思ってたら、そういうことですか……」

 お通夜状態の車内には、ついに限界がきてボロが出始めた私の愚痴と、かなえちゃんの気落ちした声が虚しく交差している。
 数時間前まで「よゆーよゆー、ぶいっ☆」とか強がっていた自分どこいった。さっきから「会いたくない帰りたくない」の駄々っ子オンパレードと化していた。

 事務所で私達の話を聞いてしまったかなえちゃんは、その内容にかなりショックを受けていた様子だった。
 自分の上司が男と不倫するような、だらしのない人間だったのかと落胆してる……と思いきや、そうではないらしい。彼女の中では、私と早坂がくっつく未来予想図が出来上がっていたみたいで、なのに私には既に、別の恋人がいた。その事に、素直に落ち込んでいるようだった。
 穢れを知らない乙女の夢を壊してしまって、申し訳ない気持ちになる。くっつかないよ。

「鈴原は、七瀬に男はいないって思ってたのか?」
「だって七瀬さん、彼氏いないって言ってたもん……」
「嘘ついてごめんね。出世に響くかもしれないから周りに言いふらさないでね、って元彼に言われてたから隠してたの」
「元彼さんのその言い方がめっちゃ鼻につくんですけど!」
「いや、実際はもっと柔らかい言い方だったけど」

 元彼の存在どころか、不倫の内情まで知られてしまったからには、聡い彼女に隠し通すなんて無理だろう。それに、「鈴原にも知ってもらった方が都合がよくなる」と早坂が言い切ったので、その言葉を信用することにした。
 かなえちゃんには仕事終わりまで残ってもらって、3人で外食がてら、きちんと事情を説明した。
 仕方ないとはいえ、まだ19歳の若い女の子に、こんな泥沼化一歩手前の大人の恋愛事情を話すのは、さすがに罪悪感が湧く。嫌われたりしないかと不安になったけれど、それは杞憂に終わった。話を聞き終えたかなえちゃんの顔は、明らかに青木さんへの不快感を露にしていたから。

「ほんっとに、その相手の人が信じられない。七瀬さんの健気な思いを踏みにじるような真似しておいて、平然と関係を迫るとかドン引きですよ。しかも何? 七瀬さんが、奥さんと子供の事を思って身を引こうとしてることにも気づかないとか、正真正銘の馬鹿なんですか!? 何がエリート出世だよっ、お前なんかカスタマーズセンターに左遷されてしまえ!」
「まさかのカスタマーズセンター(笑)」
「コールセンターで働いている人達に失礼だぞ」

 早坂が静かに諭すも、顔はちょっと笑ってる。

「まあ、カスタマーズセンターへの異動降格は、栄転ではないけどな」
「あそこの左遷は辛い」
「わかる」
「まあ、全く気付かなかった私も私だし、仕方ないけどね」
「七瀬さんはもっと怒っていいと思う!」
「それは俺も思うわ」
「かなえちゃんが私の代わりに怒ってくれたからスッキリしたよーありがと」

 それは本当だ。彼に妻子がいると告げられてから胸の奥に渦巻いていた黒い感情は、今はすっかり大人しい。
 吐き出したくても言えなくて、心の中にずっと溜めこんでいた言葉を、かなえちゃんが全部、代弁してくれたお陰だ。

「七瀬さん、彼氏がいること隠してたのに、どうして早坂さんは知ってるんですか?」
「飲み屋でベロンベロンに酔った七瀬が勝手に暴露し始めた」
「その節はマジですみません」
「なんか想像できる〜。 いいなあ、私も2人と飲みに行ってみたいです」
「かなえちゃんが成人迎えたら、お祝いがてら一緒に飲みに行こ! お勧めの店に連れてってあげる!」
「ほんとですか!? 絶対ですよ! 3人で行きましょうね!!」
「それ俺も行くのか……」
「かなえちゃんとの約束を勇気と希望に変えて、今日を頑張って乗り切るわ……」

 誰にも明かせない不倫事情を偶然聞かれてしまったとはいえ、かなえちゃんに知って貰えたことは私の心を軽くさせた。私達の拗れた事情を知っても、励ましてくれる人がいる。苦しさを吐き出せる場所があるという安心感が、暗い心に光を射す。
 今日の話し合いがどうなるかはわからないけれど、私と彼の事情に第3者が関わっている、その事実が、この関係を断ち切ってくれる道標のように思えてくる。
 そして早坂の言う「鈴原にも知ってもらった方が都合がよくなる」という意味を、ここで知ることになった。

「相手の男、この後来るんだろ?」
「うん、そう。多分23時頃じゃないかな」
「鈴原を家に送ったら俺も帰るけど、何かあったらすぐ連絡しろよ」
「うん」
「あと相手の男が来たら、一旦外に出ろ。喫茶店とか、ファミレスでも何処でもいいから入れ。絶対に2人きりで話し合おうとするなよ。それすら相手が拒否したら、もう話し合うなんて無理だから、さっさと逃げて鈴原のところに泊めてもらえ」
「何時でもお待ちしておりますっ」
「う、うーん……ありがと」

 さすがにそこまで警戒することないんじゃ……とも思うけど、早坂の言うことは大体正解だし、素直に従うことにする。待ち合わせをするなら、部屋の中よりも店内の方がよっぽど安全だろうけど、相手がいつ現れるか、正直わからない状況だ。
 青木さんが私の部屋に訪れる時間帯は、すごくバラつきがあった。約束通りの時間に来る時もあれば、余裕で日を跨ぐ時もあった。早朝の時もあれば、急に来れなくなることも多い。
 そんな不安定な約束事で、店で1人、本当に来るかもわからない彼の到着を待つのは躊躇いがある。

 仕事が終わったら連絡して、青木さんにはメールでそう伝えておいた。
 彼から連絡が来たら、どこかで落ち合うか部屋で待つか、その時の判断と彼の出方に任せようと思ってる。
 早坂は『2人きりにはなるな』と言ってたけれど、不倫の話なんて、他人がいる場所でするべきものじゃない。
 飲み屋の個室を利用する事も考えたけど、彼からの連絡を待ってからの予約は正直難しいだろうし、遅い時間帯は店側にとっても迷惑だ。
 とはいえ私も、彼と2人きりにはなりたくない。
 今後は連絡を一切絶ってお互い関わらない、私の主張に彼が頷いてくれないのであれば、かなえちゃんのところに逃げる選択も、視野に入れておいた方がいいのかもしれない。

「七瀬さん、本当に大丈夫ですか? 私も一緒に部屋で待ちましょうか?」
「ううん、大丈夫だよ。ごめんね心配かけて。いい大人がこんなんじゃダメだよね」
「うう〜……なんか心配ですよぉ……」

 後部座席で眉を寄せながら、ションボリしているかなえちゃんに笑いかける。早坂も神妙な顔つきだったけど、それ以上は何も言わなかった。
 いつまでも、此処でもやついているわけにもいかない。覚悟を決めて、助手席から降りる。
 ドアを閉めて、車内の2人に向き直った。

「じゃあ、七瀬帰りまーす! お疲れっした!」
「マジでやばくなったら連絡しろよ!」
「はーい!」

 お行儀よく返事して、彼らに背を向けて歩き出す。冷えた空気に身を震わせながら、エレベーターのボタンを押した。
 扉が開くまで、点滅する表示盤を眺め続ける。
 ふと、早坂の言葉が脳裏をよぎった。



『切羽詰まった人間ほど、何をするかわからない』


「……まさかねー」

 男女間の交際トラブルは危険も多いと聞く。
 でも、まさかあの青木さんが、って思う気持ちもあるし、私に限ってそんな事は起こらないだろうって、この状況を軽く見ている自分がいた。
 この甘い過信が、後に命取りになることにも気づけなかった自分は、危機管理能力が低いとしか言いようがない。



 この日。

 1人でのこのこ部屋に帰ってきてしまったことを―――私は一生、後悔することになる。










「あれ?」

 バッグから部屋の鍵を取りだし、鍵穴に差し込む。
 異変に気づいたのは、その時だった。

「……なんで?」

 部屋の鍵が開いていた。

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