関係を壊したい‐早坂side



『早坂、私に何かする気なの?』

 ……そう問われた時、僅か数秒の間で様々な葛藤が目まぐるしく回った。
 さすがに「うん」と頷く訳にもいかず、それでも、「するかもしれない」とか「するって言ったらどうする?」とか、この居心地のいい関係を壊しかねない一言を放ってやりたい衝動に駆られた。
 寸での所で思い止まったけれど、「でしょ?」と無邪気に返された同意の言葉に、密かにショックを受けていたことを、あの鈍感はきっと気づいていない。




「……寝れねぇ」

 照明を落とした部屋の一角、ソファーの上に横たわりながらぽつりと愚痴る。眠れない原因は寝心地の悪さでもなければ、冬の寒気に襲われているせいでもない。ベッドで眠っている七瀬の存在に、神経をすり減らしているせいだ。
 それはそうだろう。数歩離れた先に、好きな女が酒に酔った状態で、しかも薄着のまま無防備に寝ているんだ。落ち着かないだろう、男なら。
 しかも長年付き合っていた男といつの間にか別れていて、今はフリーだなんて俺は一言も聞いていない。寝耳に水の話だった。
 不謹慎だとわかっていても気持ちが舞い上がってしまうのは、致し方ないというものだ。





 ――4年前。
 サブマネージャーへと昇格した際に、俺は他店舗への異動が決まった。
 その異動先が今の店舗で、七瀬との出会いになる。
 もともと店長が長期不在で、七瀬がサブマネという傍ら、店長代理も務めていた店でもあった。

 自身を含めてスタッフ全員が女性という環境に、七瀬本人も思うところがあったのだろう。『上に立つ男性スタッフが1人欲しい』と、七瀬が本部に申し出たところ、サブマネへと昇格した俺に白羽の矢が立ったという訳だ。

「サブマネ兼店長代理の七瀬遥です! よろしくお願いします! むしろ来てくれてありがとうございます!」

 異動初日に交わした挨拶は、七瀬の勢いが凄くてたじろいだ。念願だった男性スタッフの起用に、心の底から喜んでいる様子が見て取れる。
 俺はといえばサブマネに昇格したばかりで、しかも異動先のスタッフは全員女性という話を、本部から直前に聞いたばかりで困惑していた。
 右も左もわからない上に、異性だらけの職場でこの先やっていけるのか。正直、不安の方が強かった。

 そんな俺の迷いは、七瀬の言葉で一掃する。

「女性が集まる職場というのは華やかさがあり、同性同士という点から協調性も取りやすく、女性の働き方に、互いに理解を得られやすい環境にあります。ですが女子が多いとマウンティングも始まりやすく、仕事とプライベートを混同する子達も多いです。怠慢になりやすい職場環境を改善できなかったのは、現場を任されている私の力不足に過ぎません」
「……七瀬さんは店長代理として本当に頑張っていると、菅原エリアから伺っています」
「頑張っていても、改善できていない事実は変わりません。……私も、スタッフの皆とは仲が良いので、どうしても厳しい口調での指示ができなくて。スタッフ間との連携に、正直やりづらい部分もあります。甘えた考えですけどね」
「………」

 確かに七瀬の言う通り、仮にも人の上に立つ人間が下の者を叱咤できないというのは問題がある。
 けれど、七瀬の言う「甘え」の部分も理解はできるから、深く追求はしなかった。

「本部社員の殆どは男性ですが、店舗に来ることはあっても事務所に入り浸りな事が多く、売り場に顔を出してくれません。スタッフ達と本部の人達の間で、ほぼ会話がないんです。現場で直接、スタッフに指示をくれる男性上司がいるというだけで、職場の雰囲気はガラリと変わります」
「それは……確かに、そうですね」
「女性スタッフと女上司が連携を取りやすい環境があるのは、決して悪いことではありません。ですが、仕事に対する緊張感がなければ怠慢化するだけです。……本当は、男性店長が駐在してくれるのが普通なんですが」

 苦笑いで彼女が言う。店長が長期不在の理由を、七瀬は深く語らなかった。
 けれど店長不在の間、本部は七瀬を"サブマネ兼店長代理"として全ての業務を押し付けたんだ。臨時でヘルプ要員を派遣することもなく。
 男性スタッフが欲しいと申請した際も、人員不足と人件費の問題を真っ先に挙げられて、なかなか許可が下りなかったらしい。

 初対面での挨拶の際、凄いテンションで喜びを露にしていた七瀬の気持ちが、この時になってようやくわかった。大袈裟でもなんでもなく、本当に、念願叶っての俺の起用だったんだ、と。

 この話を聞いた時、胸の中に渦巻いていた不安は全部消えた。

 七瀬は口にこそ出さなかったが、スタッフと本部との板挟みの中で相当悩んでいたのだろう。現状はスタッフ同士の仲も良く、互いに連携は取れているように見えるが、果たしてこの生温い状態が、自身やスタッフの成長に繋がるのか。七瀬の中で答えは否、だったんだ。だから男性スタッフが欲しいと本部に伝えていたのだから。

 同性ばかりの今の職場は、緊張感や向上心が薄れかけている。だから本来あるべき職場環境に戻したい――

 その為の俺の起用なんだとしたら、俺はその希望に応えなければならないと思ったし、応えたいとも思った。
 責任感が強く、けれど強すぎるあまりに弱音も吐けない立場にいる彼女を、隣で支えてあげられる誰かがいるとすれば、それは同じサブマネでもある俺の役目だと思ったから。

 ……いや、この感情はサブマネだからとか以前に、個人的な意見も含まれている。
 今思えばあの日から既に、俺は七瀬に惹かれていたんだ。








 七瀬の第一印象は、とにかく明るくて朗らか。
 誰の前でも笑顔を絶やさず、統率力に長けている。
 もともと姉御肌なのか、スタッフ全員から頼りにされている存在で、顧客からも親しまれていた。

 彼女の仕事に対する意欲や出来具合、そして人望の厚さは、数日共に働いてすぐに理解した。
 入社僅か2年目で、本部が七瀬をサブマネに昇格した理由、そして店長代理を任せた理由がよくわかる。それほど彼女は優秀だった。

 ……ちなみに見た目も悪くない。

 前髪を長めに揃えたボブを、内巻きにふんわりスタイリングした今時風の美人。目にかかる前髪は女性の色気を演出し、七瀬の綺麗な顔立ちをより際立たせていた。
 メイク自体は薄めだが、本人曰く、眉メイクにはかなりの拘りがあるらしい。ボブとのバランスが悪くならないように気を使っているようで、「眉はその人のメイクセンスが出るんだよ!」と豪語していたことを思い出す。
 女子力も十分備わっている七瀬だが、酒豪だという意外な一面もあった。

 とにかく酒を飲む。
 けれど決して強いという訳でもない。
 それでも飲む。どうしようもない。
 酒に酔ってヘロヘロになった七瀬を介抱する事も、これまでに何度かあった。

 人柄を知れば知るほど、俺の中で七瀬の存在は大きくなっていく。特別な人だと自覚するまでに、そう時間は掛からなかった。



 サブマネ歴や実地経験は、俺よりも七瀬の方が1年長い。仕事内容を直接教えてくれたのも七瀬本人で、サブマネ同士、一緒にいる時間も多い。俺の隣にはいつも七瀬がいた。
 仕事終わりに2人で飲む事も増えて(というか、無理やり飲み屋に連行される)、プライベートの話題も増えた。自然と名前も呼び捨てに変わり、砕けた口調で話せるようになった。そうした目に見える些細な変化が、俺は純粋に嬉しかった。
 七瀬に惚れた要因なんて、挙げればキリがない程に浮かんでくる。多すぎて、 こうなることは必然だったようにも思えてくるから不思議だ。

 大体、

「早坂がうちに来てくれて本当に助かってるよ。いつも支えてくれてありがとね!」

 なんて裏表のない台詞を、直球で、ニコニコとした笑顔で何度も言われてみろ。惚れない方がおかしい。



 誰よりも近い存在にはなれたけど、良いことばかりではなかった。プライベートでの彼女を知る過程で、男の存在を知ってしまったから。

 皮肉にも、七瀬が青木という男と知り合ったのは、俺がこの店舗に異動してきた時期と被っている。
 つまり俺は、職場では七瀬を支えられる存在にはなり得ても、プライベートではてんで用無し。既に別の男が支えていたという事実に落胆した。

 七瀬は青木との交際内容を、軽々しく口に出すことはしない。ただ、酒に酔った勢いで口走る事は何度かあった。その度に幸せそうな表情を浮かべる彼女に、「がんばれ」とか「よかったな」とか、表向きは応援している風な言葉を投げ掛けた。
 でも内心はすげえ悔しかったし、心のどこかで、青木と仲がこじれて別れてくれないかな、なんて卑しい感情が渦巻いていたのは否定できない。
 略奪するつもりなんて無かったけど、それでも膨れ上がった想いを抑えるのに必死で、一握りの希望に縋っていないと正直しんどかったんだ。

 けれどいつまで経っても、そんな気配は訪れない。
 3年が過ぎてやっと、自分の気持ちに踏ん切りがつき始めた。

 これだけ長く交際が続けば、七瀬と相手の男が結婚という決断をする日も近いだろう。もう、俺が諦めるしかないのだと、嫌でも悟ってしまった。

 ……だから本当に、七瀬が青木と別れていたことは俺にとって衝撃的だった。



 思いがけず巡ってきたチャンスではあるけれど、不安要素が大きすぎる。別れた原因がまさかの不倫騒動、しかも相手の男の方が、未練がましく七瀬に詰め寄っている状態が半年間続いているという。
 ただの仲違いで別れたのであれば、今すぐにでも秘めた想いを伝えられたのに。そんな状態では迂闊に告白なんてできない。七瀬を混乱させるだけだし、こっちも慎重にならざるを得ない。
 それでも、「青木への未練はない」とハッキリ告げた七瀬の目に嘘はなく、一握りだった希望が大きな希望に変わったことは、紛れもない事実だった。



「……ていうか、」

 今って、寝顔見れるチャンスじゃね?

 ふと湧いた邪な感情に、突き動かされるように身を起こす。音を立てないようにソファーから降りて、ゆっくりベッドに近付いた。
 静かに寝息を立てている七瀬のあどけない表情に、つい頬が緩んでしまう。可愛い。何時間でも見ていられる。余計寝れない。
 俺がこんなに近づいても七瀬が目覚める気配はなくて、よくもまあ呑気に寝ていられるものだと、呆れを通り越して感心する。こっちの気も知らないで。

「……これくらいは許せよ」

 そっと前髪を避けて、露になった額に唇で触れる。甘いシャンプーの香りが、ふわりと鼻腔を掠めた。






 いまだに男として見られていない現状。
 4年という歳月をかけて築き上げた関係を越えるのは、きっと容易な事じゃない。
 けど、引くつもりもない。
 やっと巡ってきたこの機会を、絶対に無駄にはしない。
 今の関係を壊すことになっても、想いは必ず告げる。そう決めた。

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