滲み出る狂気


 青木さんに、早坂の存在を知られた。
 それがどういう意味なのか、私にもわかる。
 あの人は私の勤務先を知ってるし、メッセージの内容を見る限り、あの日以降も私の部屋を訪れているみたいだ。だとしたら、勤務先に足を運んでいる可能性もある。
 そしてあの人は、早坂が私の浮気相手だと疑っている。マンションに帰ってこない私がどこにいるのか、そう考えたら導かれる答えはひとつしかない。私が浮気相手の早坂と一緒にいる、あの人はそう考えるはずだ。

 あの日、早坂が私を助けに来てくれた際に、青木さんは早坂の姿を見ている。もし店の前で私を待ち伏せしていれば、早坂が同じ職場で働く人間だということもすぐにバレる。
 バラバラだったパズルのピースが徐々にはまっていく感覚に、頭から冷水を浴びせられたような気分に苛まれた。

 忘れかけていた恐怖が再び蘇る。
 あの人がすぐ近くにいるかもしれない、今度は早坂に何かするかもしれない。私のせいで、早坂を危険な目に合わせてしまうかもしれない。考えすぎだと思いたくても、彼から届いたメッセージの異常さが、何をしでかすかわからない恐怖を感じさせた。


『切羽詰まった人間ほど、何をするかわからない』


 いつの日か言われたあの言葉が、今度は私以外の人に向けられるなんて考えたくもない。



「――七瀬?」

 不意に室内に響いた声。
 びくっと肩が跳ねた。

「……早、坂」
「……どうした?」

 いつの間にか背後にいた早坂が、私の顔を見て怪訝そうな表情に変わる。キッチンに行ったきり戻ってこない私を気にして様子を見に来てくれたのだろう。一気に呼吸が楽になった気がした。

「……あ、」

 開きかけた口を咄嗟に閉じる。一瞬の躊躇の後、急いでスマホをポケットの中に突っ込んだ。
 青木さんから連絡が来たことは、今はまだ喋っちゃいけない。かなえちゃんがいる前でこの話はしたくない。これ以上私の事情に、あの子を巻き込むわけにはいかないから。

「ごめん、なんでもないよ」
「……そうか」

 でも、この人に嘘や誤魔化しは通じない。私が口を噤んだ理由なんて、早坂は多分、全部見抜いたはず。けど私の心情を察してくれたのか、あえて何も言わずに流してくれた。
 リビングに戻った後も、早坂の態度は変わらない。かなえちゃんと接している早坂に不自然さはなく、普段と変わらない態度を貫いてくれていることにほっとした。
 だから私も平常心を装う。空になったグラスコップにウーロン茶を注ぎ込んだ。
 ポケットの中で何度も震える存在には、怖くて一切触れられなかった。



・・・



「青木から連絡きたんだろ」

 焼き肉が終わって、早坂がかなえちゃんを自宅まで送り届けた後。帰ってきた本人に開口一番、そう告げられた。
 断言するあたり、やっぱり気づいていたらしい。

「……うん。これ」

 素直にスマホを差し出す。早坂の存在を青木さんに知られてしまった以上、私だけの問題にしてはおけない。
 私からスマホを受け取った早坂は、画面に目を凝らしながら顔をしかめた。

「……なんだこれ」

 早坂が不快に思うのも無理はない。青木さんから届いたショートメールの数は、73通を通り越して97通にまで膨れ上がっていた。
 内容はほぼ同じ文面を繰り返しているだけで、一心不乱に送り続けているような印象を受ける。

「……ごめん、私のせいなの。あの日、私が早坂に電話した時、青木さんにスマホ見られちゃって。それで青木さん、逆上しちゃって。浮気だって責められて」
「………」
「ほんとにごめん。私が迂闊だった。電話さえしなければ、青木さんに早坂のこと、知られることもなかったのに」

 紡ぐ声が沈んでしまう。私のせいで早坂に迷惑をかけてしまうことに罪悪感が胸を占める。
 なにかあったら連絡しろ、早坂は私の身を案じてそう言ってくれたけど、本来何の関係もない早坂を巻き込みたくないのであれば連絡するべきじゃなかった。自分で解決させると言っておきながら、いざ困ったら助けを求めてしまう浅はかさに嫌気がさす。
 早坂だって、こんな面倒事に巻き込まれるなんて本意ではないだろう。自らの危険を犯してまで私を助けたいと思うほど、早坂もお人好しじゃないはずだ。さすがに飽きられたかもしれない、嫌われてもおかしくない。やっぱりこの部屋から出ていった方がいいのかな……と、自責の念に囚われていた時。
 「ふ、」と吐息交じりの微笑が聞こえてきて、顔を上げる。

「早坂……?」

 スマホに視線を注ぐ早坂の瞳は、深い色を湛えている。怒濤に送られてくるメッセージを前に、怯えも動揺もしていない。むしろ涼しげな表情すら浮かべていて、私はぱちぱちと瞬きを繰り返す。

「お偉い会社の営業社員って聞いてたから、頭いい奴なのかと思ってたけど……俺の見当違いだったみたいだ。馬鹿だな、こいつ」
「……え?」
「見ろよ、これ」

 指し示したメッセージには、『また殴られたいのか』、そう表示されている。

「これで脅してるつもりなんだろうけど、ただの自白だろ、これ。本当に賢い奴は、スマホの媒体に証拠なんて残さない。警察に訴えられる可能性なんてちっとも考えていないんだろうな」
「あ……」
「七瀬、これスクショして俺に送って。保存して証拠に残しとく」

 淡々と話を進められて呆然としてしまう。警察に被害届は出さないと伝えたはずなのに、早坂が何を考えているのかよくわからない。

「あと七瀬の部屋にあったもの、いくつか壊されてたよな。だとしたら器物損害で罪名がつく。病院に行けば診断書も貰えるな。あと、」
「待って早坂!」
「何」
「警察には行かないって言ったよね!?」
「わかってる。万が一だ」
「万が一……?」
「脅しには使えるだろ」

 早坂の一言に、目を見開く。

「まさか会うつもり……!?」
「相手の出方によっては、会うかもな」
「危ないよ! なんで早坂がそこまでするの!?」
「守りたいから」

 真っ直ぐに向けられた言葉に思考が止まる。何も言えなくなって、立ち尽くす私に早坂が腕を伸ばしてきた。
 後頭部に触れ、頭を掻き抱くように引き寄せられる。額が早坂の胸にくっついて、微かに聞こえてくる心音。早くしっかりとした鼓動が、私に安心感を与えてくれる。

「もう部外者面したくないって言っただろ」
「……ん」
「1人で抱え込もうとしなくていい。出来ないことは頼ってくれていいんだ」
「………」
「大丈夫だ。何とかなるから」

 頼もしい一言に素直に頷く。
 それでも、胸の中に渦巻く不安要素は消えなかった。

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