曖昧な関係に終止符を


 その後は早坂と別れ、今度はタクシーでマンションへ向かう。
 かなえちゃんも一緒に乗ってきて、部屋まで来てくれたり荷物を持ったりと、本来の性格である世話焼き根性を大発揮。
 真っ昼間な時間帯でもある為、青木さんの姿もなかった。

 部屋の中は微妙な荒れ具合で、テーブルやソファーは本来の位置からずれてしまっている。雑誌や郵便物は床に散乱し、テレビのリモコンは見事に破損していた。
 派手に割れているものが無かっただけでも安心したけれど、胸に広がる恐怖が拭いきれない。あれから精神的に落ち着いたとはいえ、まだ昨日の今日だ。あの悪夢を過去話にできる日は相当遠いだろう。

 最低限必要な物と服、下着などをボストンバッグに詰め込んだ後、私達は部屋を出た。その後は大家さんと話をつけて、再びタクシーへと戻る。向かう先は、早坂の住むマンションだ。
 かなえちゃんには、友人の住むマンションと伝えている。早坂の部屋に寝泊まりしてるなんて部下に言えるはずがない。

「あー……一気に疲れた」

 後部座席で項垂れていると、隣から小さな笑い声が聞こえた。

「振り回されっぱなしですね、七瀬さん」
「ほんとそれ。男女の縺れって本当めんどくさいの。かなえちゃんはちゃんと相手を見極めて、いい恋するんだよ」
「いい恋かー……。七瀬さんは、新しい恋人作らないんですか?」
「んー……」

 一瞬だけ、早坂の顔が思い浮かんだけれど。

「作るよ。作る作る。彼氏欲しいもん」
「今度はどんな人と付き合いたいですか?」
「浮気しない人」
「それ全員が同じこと言うと思いますよ(笑)」
「うん、まあとりあえず年も年だから。高望みはしないかな。一緒にいて落ち着ける人がいいね」

 私も今年で26歳。決して若いとは言えない年齢、四捨五入すればもう30代だ。
 今回の事が要因で「もう恋愛はコリゴリです」なんて思えるほど、私はデリケートで繊細な心の持ち主じゃない。普通に恋愛したいし彼氏も欲しいし、今度こそ結婚を視野に入れて付き合える人と付き合いたい。ここで消極的になってしまったら、あっという間にアラサーになってしまう。本当に後がなくなってしまう。
 理想の条件に合う人を探すには、多少苦労はするかもしれない。そもそも出会い自体、早々あるわけでもない。家庭を持つ友人達が増えた今、出会いの場でもある合コンの誘いもなくなった。
 となればもう、婚活サイトに頼るしか道がなくなる。

「あー、結婚したいなー」

 独り言とも思える嘆ぎを口にすると、かなえちゃんがふと、ポケットからスマホを取り出して弄り始めた。そして私に目を向ける。

「あの、七瀬さん」
「ん?」
「七瀬さんに、聴いてもらいたいものがあるんです」
「……私に?」

 意味深な言葉に首を傾げる。かなえちゃんは画面を何度かフリックした後、目的のアプリをタップした。それが何のアプリなのかは、隣から見てもよくわからない。

 昨今のSNSの影響をモロに受けたかなえちゃんは、様々なアプリやツールに手を出している。twitterもそのうちのひとつで、タイムラインに流れてくる面白動画をスタッフ全員に見せて、和気あいあいと盛り上がったりしている。
 けれど彼女は今、「聴いてもらいたいもの」と私に言った。
 今回はどうやら、面白動画を見せたい訳ではないようだ。

「何を聴いてほしいの?」
「んーと、盗聴内容です」
「……え?」

 物騒な言葉に一瞬固まる。犯罪的な単語が、彼女の口から飛び出すとは思わなかったから困惑した。
 一体何の話なのかと身構える私の隣で、相変わらずスマホを弄り続けているかなえちゃんは、小さな声で私に尋ねてきた。

「……七瀬さん。早坂さんのこと、どう思ってます?」
「……へ、早坂?」
「はい」

 あまりにも急な話に眉をひそめる。どうして急に早坂の話に変わったのか、かなえちゃんが何を伝えようとしているのかもわからない。
 探るような視線を投げ掛ければ、スマホ画面をスライドしていた彼女の指が、ぴたりと止まった。
 私に向ける眼差しは真剣そのもの。
 逃げることを許さないとでも言いたげな意思を纏っている。

「男女の友情は成り立つって、七瀬さんは昨日、そう言ってましたよね」
「……言った、けど。それがどうしたの?」
「そう思ってるのは、きっと七瀬さんだけですよ」
「……それどういう意味、」





『……仕方ないだろ。七瀬が自分達で話し合うって決めたんだから』



「……ん?」

 不意に聞こえてきたのは早坂の声だった。
 けれどこの場に、アイツの姿は当然ない。声の発信元は間違いなく、彼女が持つスマホからだ。
 でも、それだけじゃない。その後はかなえちゃんの声が続き、2人が仲良く会話している様子が静かに聞こえてくる。スマホを凝視している私を、かなえちゃんは無言のまま見守っていた。
 まるで私の反応を探っているかのように。

「……なにそれ」
「これ、昨日の車内での会話です。七瀬さんがマンションに帰った後、早坂さんと交わした会話をこっそり録ってたんです」
「………」

 ―――なんで?
 という素朴な疑問が最初に浮かんだ。

 録ったんです、なんて軽く言うけれど、そんなものを録ってどうするつもりなのか。早坂の弱味でも握るつもりなら理解はできるけど、かなえちゃんがそんな卑劣な事をするとは思えない。
 けど、こっそり録っていたということは、早坂自身も盗聴されていた事を知らないのだろう。

 どうして、こんなことをしたのか。
 その理由を問いただそうとした時、流れてきた会話の内容に、私は言葉を失った。

『早坂さん、七瀬さんがうまく元カレと別れられたらどうするんですか?』
『……どうするって?』
『告白! しますよね?』
『……まあ、するよ』



「………えっ……?」

 驚きで発した声が裏返る。
 耳を疑うような内容に、私は目を白黒させる他ない。それほど衝撃的な告白が、早坂の口から溢れたのだから。

「……なに……」

 絞り出すように発した声は弱々しい。
 心臓がドクドクと、嫌な音を奏で始める。
 スマホという媒体を通じて流れてくる会話は、聞き間違いなんじゃないかと疑う余地もないくらい、はっきりと、鮮明に耳へと届けてくれた。
 意気揚々と早坂に詰め寄るかなえちゃんと、それを真摯に受け止めている早坂の会話は、誰がどう聴いても、恋愛相談をしている男女のそれだ。
 そしてその相手が誰かなんて、この会話を聞けば一聴瞭然だった。


『出ていってほしくない』

『話したいことがある』


 今朝言われたあの言葉と、スマホから流れてきた早坂の告白がリンクした。



「……かなえちゃん、なんで」
「『なんでこんな事したの』、ですか?」

 悟ったような口調に押し黙る。相手はまだ19歳で、私より7つも下の後輩なのに、今この場において主導権を握っているのは、明らかに年下の彼女だ。

 かなえちゃんはいつも、私やスタッフ達のイジられキャラとして愛されていた。でも、今になって気付く。かなえちゃんはあえて、『皆からイジられる後輩』というイメージを壊さないように徹していたのだと。
 そして今、この場に『イジられる後輩』としての姿はない。いつもとは逆の立場に追いやられ、嫌な汗が背中を伝う。
 胸の内を全部見透かされているような気がして、息が詰まりそうになる。

「だって、焦れったいんですもん。早坂さんは常に一歩引いてるし、七瀬さんは七瀬さんで、早坂さんに見向きもしないし」
「………」
「早坂さんがずっと消極的だった理由が、七瀬さんに実は彼氏がいたからだって、今回のことで知って納得しました。でも、別れ話してるんですよね? 元彼に気持ちも無いんですよね? なら早坂さんのこと、ここから考えてほしいんです。考えて、それでもやっぱり同僚以上に見られないなら、私もこれ以上は何も言いませんから」
「……かなえちゃん」
「私、もう嫌ですよ。早坂さんの辛そうな顔見るの。報われない恋を何年も抱いてるなんて、そんな悲しい話ありますか」

 凛とした声が心に響く。
 悲痛な訴えに何も言えなかった。

 かなえちゃんがどれ程、早坂と親密なのかはわからない。
 けれど、その言葉の節々に伝わるのは、ただひたすらに早坂を応援したいという、後輩としての純粋な気持ち。同僚以上に見れないなら解放してあげて、という彼女の願いも含まれているのかもしれない。
 私と早坂との仲を茶化す訳でもなく、だからって交際を強要させる訳でもない。早坂と築いてきた親友同然の関係を、このまま保つのか変えるのか。どんな形であれ、早坂の気持ちが報われるのであれば今日から考えてほしい、そう告げるかなえちゃんの想いに胸を打たれた。

「……私で、いいのかな」

 かなえちゃんの気持ちと、早坂の気持ち。
 2つの想いを知ってしまった私の口から落ちたのは、消極的な本音。

 早坂の事は、嫌いじゃない。本当にいい人だし、恋人として考えても申し分ないほどに理想の男だ。誰か紹介して、なんて友人に頼まれた日には、私なら真っ先に早坂を紹介する。
 けれど自分の彼氏にしたいかどうかと訊かれたら、多分私は素直に首を振る。私が早坂となんて恐れ多いとすら感じてしまう。早坂には私なんかより、もっと相応しい人がいるはずだ。

 私達は仕事面で切磋琢磨し合える同期だったから、今の関係を築けた。
 でも早坂の気持ちを知ってしまった以上、今まで通りの関係じゃいられない。
 それに青木さんとの事が解決していない以上、早坂の気持ちに応える資格もないし、そんな余裕もない。
 頭の中は混乱してるし、本当に早坂の気になってる人が私なんだろうか、そんな疑念も晴れていない。だってそんな素振り、早坂は今まで一度も見せたことがないのだから。

「七瀬さんじゃなきゃダメだと思いますよ、あの人は」
「……かなえちゃん、どうしてそこまで一生懸命なの」

 私が今抱えているのは不倫問題だ。
 そんな裏事情を他人が知ってしまったら、普通であれば一歩引く。首を突っ込めば面倒なことに巻き込まれる、賢い彼女ならそんな事くらい予想できるはずなのに。
 現にトラウマになりかねないほど怖い思いもしたのに、それでもかなえちゃんは必死に、私達に関わろうとする。

「だって、七瀬さんも早坂さんも私の憧れだし、人として好きですから」
「………」
「好きな人達の恋を応援したいのは普通です」

 頬を染めながら笑うかなえちゃんの、そのあどけない表情が眩しくて目を背ける。社会の仕組みも汚さも、大人の狡い考え方すら知らない幼さは、時として残酷な現実を私達に突き付ける。
 どれだけ大人びていても、彼女はまだ、たった19歳の女の子だ。

 だから思う。経験値を圧倒的に積んでいる筈の私達は、かなえちゃんの言う"普通"の感覚を見失いかけている。余計な知恵をつけたばかりにずる賢くなり、逃げ方を覚え、年を重ねる度に臆病になる。子供達から学ぶ事が多いと大人はよく口にするけれど、きっとこういう事なのだろう。

 ……だからこそ、かなえちゃんには知られたくなかった。
 ずる賢くなった大人達の、こんなにも拗れた不倫事情なんて知る必要なかった。

 ……憧れ、なんて言ってもらえるような綺麗な大人じゃないんだよ、私は。

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