変わるもの


「……瀬、おい七瀬」

 軽く肩を揺すられて、夢の世界から引き戻される。
 霞がかかった視界の端には、私を覗き込むように見下ろす早坂の姿が見えた。

「……早坂」
「悪い、寝てたのに起こしちまって」
「ん、へーき……おはよう」
「……おはよう」

 寝惚け眼をこすりながら上半身を起こした時、肋骨にふと違和感を覚えた。
 手で触れれば、熱をもったそこは少しだけ腫れ上がっている。肌も変色しているかもしれない。
 とはいえ、思っていたほどの痛みはなくて安堵する。

 顔を上げれば、室内はまだ薄暗い。
 閉めきったままのカーテンが陽の光を遮断して、まだ夜明け前のような情景を錯覚させる。掛け時計に目を向ければ、既に朝の7時半を表示していた。
 眠れる気がしないとか言っておきながら、余裕で6時間は熟睡していた。我ながら神経が図太すぎて笑ってしまう。
 倦怠感に苛まれていた体も、一晩寝たら疲れも取れたようだ。脳の疲労も感じない。

「……大丈夫か?」

 脇腹を手で押さえている私の様子に、不安げな声が耳に届く。大丈夫だと頷けば、早坂も安心したように表情を緩めた。
 既に朝支度を済ませているようで、出勤用のダウンジャケットを羽織っている。ほのかにコーヒーの香りが漂っていて、朝食も先に済ませたらしい事が窺えた。
 もう少し早く起きていれば、早坂と一緒に朝ご飯食べれたのにな。なんて、呑気に考えてしまった私に追い討ちをかけるように、きゅうっとお腹の虫が鳴る。

「めっちゃお腹すいた」

 強烈な空腹感にボヤけば、早坂の指がテーブルの上を差した。そこにはラップに覆い包まれた状態の器が、いくつか並べられていている。
 それが朝食のお裾分けだと気付き、私は瞳を輝かせた。

「簡単なものだけど、メシ作っておいたから。起きても大丈夫そうなら、それ食べていい。味は保証する」
「え、すごい自信ありげ」
「伊達に何年も1人暮らししてねーよ。そこそこ作れる」

 つまりこの人は、私がぐーすか爆睡してる中ひとりで起きて、自分のみならず私の分の朝食まで作ってくれていたらしい。親切すぎて感動。

「うわ、何から何までありがとう……ちなみに朝ご飯なに?」
「オムレツ」
「なんだと……朝から豪華や……」
「普通だろ」
「私、朝はいつもパン1個だけだもん。朝からオムレツ食べれるとかヤバイ。泣きそう」
「泣くなよ」

 苦笑混じりにツッコミを入れる早坂は、いつもと何ら変わらない態度を貫いている。昨日のキスにはわざと触れないように、私と接している気配を纏っていた。
 その事実が、私の心に影を落とす。
 全部忘れてしまったかのように振る舞われている事に、安堵と同時に虚しい気持ちが込み上げてくる。
 目的は人助けとはいえ、キスまでした仲なのに。そんなものは無かったかのように扱われるのは、正直寂しい。気にしているのは私だけなんだと思い知らされる。
 そんな私の心情なんて知る由もない早坂は、普段通りの態度を保ったまま腕時計に視線を落とした。

「七瀬、検査の予約って何時だっけ?」
「んーと、11時から」
「じゃあ、まだ時間あるなら寝てろよ。無理して動かない方がいい」
「や、目も覚めちゃったし起きるよ。それに、私も出ていく準備しなきゃ」

 朝になったら此処を出る、早坂にそう伝えたからには悠長に滞在していられない。ただの他人でしかない私が部屋に居着いたら、多方面で迷惑を被るのは早坂だ。
 それに、気になる女の人がいながら私に優しさを見せるのは、早坂にとっては良くない事だ。困ってる人を放っておけないのが彼の性分なのは知っているけれど、親切心は時として残酷だから。……事実、今の私にはそれが辛い。

 早坂の気になる相手が誰なのかはわからないけど、誰であっても多分、今の私は早坂の恋を応援できない。
 異性として意識してしまった以上、背中を押してやれるほど私は優しくもないし、そこまで人間ができていない。

「あ、早坂。部屋の鍵どうする? 郵便受けに置いていった方がいい? それとも店に直接返しに行く?」

 胸に秘めた想いを隠したまま、軽い口調で尋ねる。
 早坂は無言のまま私を見つめていて、その様子に首を傾げた。

「早坂? 話聞いてる?」
「……なあ」
「うん?」
「本当に出ていくのか」

 昨日の話を蒸し返されて、言葉が詰まる。
 一瞬の沈黙のあと、私は静かに頷いた。

「昨日……じゃなくて、今日だけど。言ったでしょ。気になる人がいるのに、他の女を部屋に泊めるのはダメだって。その人に誤解されちゃうよ」

 そうだ。今、早坂が此処にいてほしいと望む相手は、私じゃない。納得したつもりでも、そう簡単に割り切れるものでもなかった。
 頑なに主張を曲げない私に、早坂も諦めたかのように息を吐く。

「……わかった。でもその前にひとつ、言いたい事があるんだけど」
「なに?」
「出ていってほしくない」

 心臓がどくん、と大きく波打った。
 他の女に思わせ振りな態度を取ったらダメだと忠告した直後に、まさか思わせ振りな言葉を放たれるとは思ってもいなかった。
 どうして急に、そんな事を私に言い出すのか。
 早坂の意図が読めなくて、私は困惑するしかない。

「……な、なんで?」
「話したいことがある」
「……話したいこと?」

 それなら昨日、既に聞いたはずだけど。
 そう言いかけた私に待ったをかけて、早坂は静かに首を振った。

「昨日の話とは、また別の話」
「え、まだ話すことあったっけ?」
「……俺にはある」
「……?」

 真摯な眼差しを向けてくる早坂は、心なしか表情が強張っているように見えて狼狽えた。
 いつも冷静沈着な彼には似つかわしくない顔。
 不穏な空気を感じ取って、胸に不安が広がっていく。

「……その話を聞いてから、ここを出るか留まるか、判断してほしい」

 緊張でこくん、と喉が鳴る。それが何の話なのかはわからないけど、このまま部屋を出る、という選択肢は用意されていないみたいだ。
 こんなに思い詰めた表情を浮かべている早坂を見るのは初めての事で、正直戸惑いを隠せない。拒否する事すら許されないような雰囲気に、私は頷くしかなかった。

「……わかった。じゃあ、帰り待ってるね」

 そう答えることで、早坂の提案を受け入れた。



・・・



「ふえぇん、七瀬さーんっ」

 病院から出た直後、涙混じりに聞こえてきた声に苦笑する。辺りを見回せば、駐車場に見覚えのある車が停まっていた。
 それが早坂の車だと気づくのに時間は掛からなくて、運転席からは本人の姿も見える。数分前まで助手席に乗っていたであろう人物は、今にも泣きそうなほど表情を歪ませながら、小走りで私の元へ駆け寄ってきた。どうやら出待ちをしていたみたいだ。

「かなえちゃん」
「怪我で1週間くらい休むって早坂さんから聞いて、もう私、居ても立ってもいられなくて。早坂さんに頼み込んで、病院まで来ちゃいましたっ」

 両手で握り拳を作りながら息巻く姿に、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 今はまだお昼前。当然店は営業中だけど、シフトでは確か、かなえちゃんは休暇だったはずだ。
 折角の休日なのに、こんな所まで出迎えに来てくれるなんて健気すぎる。お姉さん泣きそう。
 早坂は多分、休憩中に抜け出してきたんだろうな。

「怪我っていっても軽いものだから全然大丈夫だよ。心配かけちゃってごめんね」
「うう、でも七瀬さんの大事な肋骨が1本逝ってしまわれたと聞きました……」
「誰に聞いたの。逝ってないから大丈夫。じきにくっつくし、来週には仕事復帰するからね」

 念の為、と称して検査を受けた頭は、結果的に何の問題もなかった。
 骨が折れた割に痛みは酷くないし、いざという時は痛み止めの薬もある。こめかみに出来た傷や脚に浮き出ている痣はしばらく残るだろうけど、それもじきに消えるだろう。
 散々な目に合ったけど、むしろこの程度で済んだのは幸運だったのかもしれない。
 それもこれも全部、かなえちゃんと早坂がすぐ助けに来てくれたお陰だ。

「それより早坂から聞いたよ。かなえちゃん、私を助けたいって言って部屋に乗り込んでくれたんでしょ? 凄いね、本当にありがとう。怖いもの見せちゃってごめんね」
「わわ、早坂さん喋っちゃったんですか……うわー恥ずかしい」

 両手で顔を隠しながら照れまくるかなえちゃんだけど、褒められてとても嬉しそう。
 こんな愛くるしい姿を見ていると本当に、私は同期にも後輩にも恵まれているのだと実感する。

「早坂もね、すごく頼もしかったって褒めてたよ。っていうか、かなえちゃんが早坂に助けを求めた時、アイツ車の中で寝てたらしいね」
「めっちゃ寝てました! 私、ドアばんっばん叩きましたもん!」

 かなえちゃんと盛り上がりながら車に近づけば、運転席に居た当の本人は、アリナミンの栄養ドリンクを飲んで一息ついていた。お疲れ様です。

「早坂、疲れてる? 大丈夫?」
「それこっちの台詞。検査、大丈夫だったか?」
「平気平気。1ヶ月後にまた診察あるけど、とりあえず問題なし」

 ひらひらと手を振って応えれば、かなえちゃんが早坂の手元を覗き込んだ。

「ていうか、早坂さんに栄養ドリンクって似合わないですね。一気におっさん化しました」
「もう若くないからな。あんまり寝てないし」
「えっ」

 最後の一言に、つい声を上げたのはかなえちゃんではなく私。昨晩ベッドを共にした身としては、その言葉は聞き捨てならないところ。
 でも、この場には何も事情を知らないかなえちゃんがいる。聡い彼女に疑われる訳にもいかなくて、私は素知らぬ振りを通した。でも内心は、めっちゃモヤついてる。

 眠れなかったって何ですか早坂クン。ワタシめっちゃ隣で爆睡してたのに、アナタ眠れなかったの繊細なの。寝不足の原因って絶対私だよね?
 やっぱりベッド狭かった?
 寝苦しかった?
 それとも、考え事してたから眠れなかった?
 気になる人がいながら、他の女と一緒に寝てしまったこと(健全な意味)に罪悪感を感じて眠れなかったりとか?
 考えれば考えるだけ、渦巻く思考は負の方向へ転がっていく。
 それを表に出すわけにはいかない事が歯痒い。

「七瀬、この後どうするんだ?」
「昨日から部屋を空けてる状態だし、一度マンションに戻るよ。しばらくは戻らない予定だから、必要なものだけ取りに行ってから大家さんに会ってくる予定」

 いつ、あの部屋に帰ることが出来るのか。それがわからない以上、長期不在の旨を大家さんに報告しなきゃいけない。
 私が居ない間に空き巣なんかに荒らされたらたまったものじゃないし、火災などで不測の事態が起きた場合の為に、私の連絡先を伝えておいた方がいいだろうから。

「まあ、今は戻らない方が安全かもな」
「かもねー」
「七瀬さん、昨日はどこに泊まったんですか?」

 不意に核心をついてきたかなえちゃんに、早坂が勢いよく栄養ドリンクを噴出した。黄色いエキスがハンドルに飛び散り、吐き出した本人は盛大に咳こんでいる。ある意味ベタなリアクションだけど、その様は誰が見ても不審すぎる。現にかなえちゃんも眉をひそめながら、早坂を見返していた。不審者を見るような鋭い目付きだ。
 それはそうだろう、かなえちゃんは私に訊いてきたのに、直後に早坂が大袈裟な反応をしたら怪しまれるのは当然だ。

 ……仕方ないなあ、もう。

「なに動揺してんの早坂」
「いや、ちょっとむせただけ、」
「昨日は友達んとこに泊まったよー。でも何日も居候する訳にもいかないし、この先どうしようかなって困ってるところなんだよねー」
「えっ、じゃあ私のとこ来ますか!?」

 この手の対応は、早坂より私の方が得意。かなえちゃんが興味を持ちそうな話題を振れば、案の上彼女は食いついた。
 そしてその提案に乗っかりたいところだけど、かなえちゃんは実家暮らしだからさすがに難しい。
 自分の娘の上司にあたる人が、人には言えない事情を抱えて何泊も居候するなんて、彼女の親御さんから信用を失いかねない。
 これは自分で蒔いた種だ、私自身でどうにかしなきゃいけない問題だ。

「ありがと〜。もう、本当にどうにもならなくなった時はかなえちゃんに頼ろうかな?」
「いいですよ! いつでも待ってますねっ」

 にこにこと、純粋向無垢な笑顔を向けてくるかなえちゃんに良心が痛む。この子に頼るつもりは最初から無かったし、本音を言えば早坂にも、誰にも迷惑をかけたくないから頼るつもりはなかった。
 青木さんさえ協力的になってくれれば、私1人でも解決できる問題だと思っていたし、そうしなきゃいけないとも思っていた。私達自身で話し合いをして解決させなきゃいけないことで、周りを巻き込んではいけない、と。

 そう勝手に正論付けて、一方的な正義感に浸って、誰にも頼らず1人で突っ走っている私は、本当に愚かだったと言わざるを得ない。
 1人でできることなんて限界があるのに、その限界を見極めることもせず、結局私はこの時も彼らの気遣いを無下にしてしまったんだ。

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