絶望の夜の果て‐早坂side 部屋の前に辿り着いて息を吐く。開け放たれたままの扉に手を掛けた時、階段を駆け上がってくる小さな足音に気付いた。 鈴原が後を追ってきたようで、俺の背後から玄関先を覗いている。その不安げな表情を見て、室内へ踏み込もうとしていた足を止めた。 ―――この先に、この子は連れていけない。 鈴原は、七瀬が「倒れていた」と言っていた。「血がたくさん出ていた、変な男もいた」と。 その男が青木なのかはわからないが、俺に助けを求めてきた際に発した断片的な言葉から、七瀬がその男から暴行された、それ以上に最悪な事態に巻き込まれたのだろうことは推測できた。 ……一度現場を見てしまったとはいえ、この先にある光景を、鈴原に2度も見せたくはない。 憧れていたはずの先輩が、男に暴力を振るわれていたであろう生々しい惨状も。その姿も。 「……鈴原、車に戻ってろ」 「い、いやです、私も行きます」 「危ないから戻れ」 「早坂さんも危ないでしょ!?」 「言うこと聞け」 「っ……、ごめんなさい聞けません。七瀬さん助けたい」 「………」 鈴原は頑なに引かなかった。 本当は怖くて、逃げたくて仕方ない筈だ。ただ七瀬を救いたい、その一心だけで体が動いているんだろう。 部屋にはまだ男がいるだろうし、鈴原の身まで危険が及びかねない場所に居てほしくはない。もし何かあったとしても、俺の身ひとつでは、自分と七瀬を守るだけで精一杯だ。情けない話だが、他を守る余裕がない。 けれど鈴原は言い出したら聞かないタイプだし、ここで押し問答を繰り返している場合じゃないこともわかってる。 「……俺から離れるなよ」 それだけ伝えて部屋の中に入る。室内は静まり返っているが、確かに人の気配を感じる。 歩調を速めれば、誰かがリビングで倒れている姿が目に映った。心臓がドクンと大きく跳ねる。 「……七瀬」 折り畳み式のローテーブルの下。 うつ伏せの状態で、彼女はそこに横たわっていた。 俺達に背を向ける形で倒れていて、ここからでは彼女の表情が窺い知れない。呼び掛けても微動だにしない七瀬の気配に、焦燥感が募る。 視線を床に落とせば、血痕がラグに付着していた。小さな染みが点々と続いているが、鈴原が言っていた程の量ではない。 けれど出血を伴うほどの怪我をしているのであれば、油断はできない。 すぐにでも彼女の傍に駆け寄りたかったが、視界の端に映った男の姿で動きを止めた。 ソイツは壁を背にして、力なく座り込んでいる。俯きながらぶつぶつと何かを呟いているが、その内容まで聞き取ることはできなかった。 フローリングに注がれる瞳は虚ろで、心ここにあらずといった様子は不気味な気配を漂わせている。俺達の気配にも気付いていなさそうだ。 端から見ても、普通の状態じゃない。 鈴原も奴の様子に異変を感じ取ったのか、ぴったりと俺の背中に引っ付いて離れようとはしない。今、アレに話しかけるのは危険だと、本能的に悟っているのかもしれない。 この男が青木なのかはわからないが、間違いなくコイツが、七瀬に何かをした犯人だろう。 男を警戒しつつ、ゆっくりと彼女に近づいた。 「七瀬」 しゃがみこんで、横たわる彼女の肩を軽くゆする。けれど応える声はなく、綺麗な髪が静かに揺れ動くだけだった。 意識を失っているなんて、尋常じゃない。とにかく彼女の状態を見なければならないと、華奢な体を傾けて―――俺も鈴原も、言葉を失った。 七瀬は、酷い様に成り果てていた。 両頬が赤く染まり、口の端からは血が滲み出ている。額から伝う血の筋が、七瀬の顔を赤く汚していた。 上着は羽織ったままだから、衣服の中の状態まではわからない。けれど肌が露出している部分に、痛々しい程の痣が浮かび上がっている。首にも素足にも、内出血している箇所が点在していた。 一目見てわかる、明らかに殴られた跡。 それを認めた瞬間、体中の血が沸騰するような憤りを感じた。 数十分前まで、俺達に綺麗な笑顔を披露してくれた彼女は今、まるで使い捨てられたボロ雑巾のような扱いをされてその身を晒している。俺にとって七瀬は好きな女というだけじゃない、人としても尊敬できる部分が多い、大事な同期だ。七瀬が憧れで目標だと鈴原が言っていたが、それは俺も同じ。いつも七瀬の背中を見てきた。 そんな人を、最悪な形で傷つけられた。 こんなに近くにいたのに、SOSに気づけなかった。守ってやれなかった。 気が狂いそうになる程の強い殺意が湧く。 男を殴り飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、寸でのところで思い止まった。 ここには俺だけじゃない、鈴原もいる。 俺まで感情的になってアイツに詰め寄れば、また男が逆上しかねない。七瀬だけじゃない、鈴原にも早く、この場から遠ざけてやりたい。 怒りを無理やり抑え込んで、優先すべきことを考える。まずは鈴原と七瀬の安全を確保することと、七瀬の治療。この際、男は放っておく。 「……鈴原、動けるか?」 「…………えっ、あ、はい」 「七瀬は無事だから安心しろ。ちゃんと息してるしちゃんと寝てる。ここ最近激務だったからな、やっと寝れるわって、本人もこの状況をラッキーだと思ってるかもしれない。七瀬はそういう奴だ」 「え、ええ……」 「ここの近くに、夜間急病センターがある。そこに電話してくれ。焦る必要ないからな。患者の状況を聞かれたら俺に取り次いでくれ。俺から話すから」 「っ、はい!」 俺の頼み事に、鈴原はすぐに対応してくれる。取り乱した様子は既になく、凛とした表情に変わっていた。 自分達が優先すべきことを、この子もちゃんと理解して動いてくれている。今の俺にとって、確実に頼もしい存在だ。 逆に男の様子は変わらずで、壁に項垂れながらひたすら呟き続けている。注意を向けつつも、七瀬の状態を先に確認することにした。 殴られたのだから当然顔色は悪いが、呼吸は安定している。ゆっくりと胸が上下している様を見て、一先ず安心した。 次に額の傷。床にぽつぽつと残されている血痕は、頭の血だ。こめかみに出来た傷口から滴り落ちたものらしい。 血は既に止まっているし、傷自体も酷くはない。 ただ、本人に意識がないのが気になる。 殴られた際に気を失ったのか、それとも、倒れた際に頭をぶつけて気を失ったのか。どちらにしても、脳震盪を起こしている可能性もある。あまり頭は動かさない方が賢明だ。 上着を脱がせて袖を捲れば、腕に痣は見当たらない。さすがに胸部や腹部を見るのは抵抗があるが、暴行を受けたらしい箇所は大体把握できた。 あとは医師の判断と治療に任せた方がいい。 ―――と、その時。 ずり、と床を這いずる音が聞こえた。 「っあ、ぁあ、」 言葉にならない呻き声を上げて、男が急に立ち上がる。俺の姿を視界に捉えた途端、奴は怯えたような表情に変わった。 心臓が一瞬ヒヤリと冷えたが、男は慌てた様子で床を蹴って逃げていく。急病センターと連絡を取り合っていた鈴原が、立ち去っていく男の姿に驚き、声を荒げた。 「……あっ! ちょっと待ちなさいよ!」 「鈴原、いい! ほっとけ!」 「でも!」 「……七瀬の手当てが先だ」 俺の一言に、鈴原が言葉を飲み込んだ。悔しげに唇を噛み締めて、逃げ出していく男の背中を睨み付けている。 鈴原の気持ちは、痛いほどにわかる。アイツを逃がして悔しいのは、俺も同じだ。 けれど今、男を追って捕まえることよりも、怪我を負っている七瀬を優先しなければならない。それが理解できないほど、鈴原も馬鹿じゃない。 険しい表情を保ったまま鈴原が頷いた時、足元で小さな呻き声が聞こえた。 「……っ、う」 「……七瀬!」 「……うっさい……でかい声で叫ばないで……鼓膜に響くにゃん……」 「……おい言い方」 こんな時でも、七瀬は七瀬らしかった。 痛みで顔をしかめながらも、ゆっくりと彼女の瞳が開いていく。目が合った瞬間、疲労が一気に押し寄せてきた。 あの男が部屋から消えたことも相まって、強張った体から力が抜ける。油断ならない状況なのは変わらずだが、極限まで追い詰められていた重圧から解放された胸は、ただただ安堵感で満たされていた。 七瀬が意識を取り戻したことに、鈴原も安心したようだ。嬉しそうに瞳を潤ませている。 「早坂さん、救急車の手配はどうします?」 「いや、いい。ここから近いし、救急車を待つより俺の車で行った方が早い。それに、あまり騒ぎを大事にしたくない」 あの男が何者なのか。その答えによっては、マンションの住人に危険が及ばない為にも、今回のことを大家に知らせなければならない。あの男が青木であれば、狙うのは七瀬1人だけだろうし、事態を知らせない方がいい場合もある。 ここは小さなマンションだ。七瀬が元彼に暴行された、なんて住人に知れたら、瞬く間に話が広まってしまう。面白おかしく話題のネタにして騒ぎ出す奴がいてもおかしくはない。 「七瀬、話できるか? この近くに急病センターがあるだろ。今からそこに行くから。いいよな?」 「んー……」 「不満があったら言ってくれ」 「……あの人は?」 七瀬の視線が、誰かを探るように彷徨う。 「部屋にいた男なら、さっき慌てて逃げていったぞ」 「そっか。よかった」 「……アイツ、青木か?」 「うん」 「殴られた?」 「めっちゃ頬ビンタされた。アイツ絶対許さん今度会ったら10発殴り返す」 「元気じゃん」 「元気だよ」 心はね。そう付け加えながら弱々しく笑う七瀬は、発言そのものは逞しい。 でも、俺は知ってる。七瀬がへらへら笑いながら強気な発言をするときは、心がしんどくて悲鳴を上げている時だ。 人前で弱音を吐くことを嫌う七瀬は、強がり方もひねくれていて解りづらい。誰に対しても、それこそ俺に対しても、「自分は平気」だと七瀬は笑って誤魔化すから。誰も、彼女の本当の声には気づかない。 「ねー、LINEしたの気づいた?」 「気づいた。すぐに電話出れなくてごめん」 「なに言ってんのー。助けに来てくれたじゃん」 「俺より鈴原に礼を言ってくれ」 鈴原がもし車から飛び出して行かなければ、もっと最悪な状況になっていたかもしれない。 とはいえ七瀬自身も、こんな光景を鈴原には見せたくはなかっただろう。たった19歳の女の子にこの現実は酷すぎる。 「あ」 起き上がろうとした七瀬が、小さな声を発した。服の裾に、ぽたりと赤い血が落ちる。 「ぎゃ! 七瀬さん鼻血鼻血! ティッシュどこ!?」 鈴原が慌てた様子で周囲を見渡す。ポツポツと滴り落ちるそれを、七瀬は黙って見入っていた。 「ねえ、私の鼻血いつ見ても美しいんだけど。芸術品かな」 「んなこと言ってる場合ですかぁ……」 半泣き状態でティッシュを差し出す鈴原と、そんな後輩を七瀬が面白おかしくからかう、いつもの構図が出来上がっている。鈴原が不安がらないように、気丈を振る舞う七瀬の姿は彼女らしく、そして痛々しく見えた。 苦い思いが胸を締め付ける。 七瀬がここまで酷い仕打ちを受ける必要なんてあったのか、と。 俺は部外者だから、なんて言ってる場合じゃなかったのに。無理やりでも話し合いに介入すれば、青木が暴れることもなかったんじゃないか。何かあったとしても、七瀬を守ってあげられたんじゃないか。そんな後悔を抱く。 勿論俺だけじゃなく、七瀬自身にも問題はある。それを本人が自覚していれば、こんな事態になることは想定できたし避けられた被害の筈だ。 ……七瀬は、人から頼られることに慣れ過ぎている。 故に、人に頼ることをしない。 弱音を吐くことで苦痛を和らげる手段を選ばない。極度の甘え下手だ。 ……青木には、甘えていたのかもしれないが。 そう考えると心底面白くはないが、青木と別れてから半年が経ち、いまだに彼女を甘やかしてくれる男の存在は現れていない。俺にすら見せてはくれない弱さや葛藤を、半年以上もひとりで抱え込んでいるような状態だ。 ……もう、躊躇している場合じゃない。 七瀬に想いを伝えよう。 今日は無理だろうけど、明日。この状況が落ち着いたら、すぐにでも。 きっと困らせるだろうけど、七瀬をずっと想っている奴がいること、頼ってもいい存在が側にいることに気付いてほしい。 下手くそな笑みを浮かべる七瀬を見て、そう思わずにはいられなかった。 トップページ |