26歳という立場‐早坂side


 七瀬がこの場を去った後。
 後部座席から向けられる、刺すような視線に溜息をつく。

「……おい鈴原。俺を睨んで何になる」
「だって……」

 煮え切らない後輩の様子に苦笑い。何を言いたいのかなんて嫌でもわかるが、こればかりは俺でもどうしようもない。

「仕方ないだろ。七瀬が自分達で話し合うって決めたんだから」

 仮にもし、七瀬が「助けてほしい」と俺に縋りついてくれたなら。
 多少強引でも、話し合いに割り込んで青木の勢いを阻止するのに。七瀬はそうしなかった。
 他人を巻き込みたくないと言う彼女の意思は固い。責任感が強いのは昔から知ってるし、尊敬してる部分でもあるけれど、今回ばかりはいささか、七瀬が無理し過ぎている気がしなくもない。やっぱり青木と2人にさせない方がいいのでは、そんな考えが何度も頭に浮かんだが、結局のところ、強く引き止めたりはしなかった。
 これは当事者達の問題で、その本人達が2人で話し合うと決めている以上、所詮部外者に過ぎない俺が口出ししたところで、七瀬が自身の発言を覆したりはしないだろう。注意を促すことはできても、止めることはできない。
 自分なりに冷静な判断をしたつもりだが、そんな俺の対応に、鈴原はいい顔をしなかった。

「なんか、もっとこう……格好いいこと言って引き止めてくださいよぉ……これが漫画なら、『そんな男やめろよ。俺がなんとかしてやる』って決めるところですよ!?」
「妄想と現実をごちゃ混ぜにするな」
「元カレですよ? 七瀬さんが1度でも気持ちを傾けていた相手ですよ? またあっち側に気持ちが傾いちゃったらどうするんですか……」
「どうするって……どうしようもないだろ」
「あう……なんというヘタレ……」
「うるせ」

 実のところ、俺が七瀬に好意を抱いていることは周知の事実だったりする。
 自らそうだと公言したことはないし、人前であからさまに、七瀬にアピールした事もない。けれど女子と言うのはどういうわけか、妙に勘が鋭いところがある。
 それは鈴原も同じだ。七瀬本人がいないところで、俺はこの子から度々、せっつかれる事がある。今もそうだ。

 七瀬は青木の存在を隠したがっていたから、俺自身も「七瀬には別の男がいる」と明かすことはしなかった。つまり女子特有の勘の良さよりも、恋人の存在を周りに悟られずに振る舞っていた七瀬の方が、1枚上手だったということになる。だから七瀬に彼氏がいたことは、何も知らされずにいた鈴原にとって衝撃的なニュースだったようだ。
 ただ青木が思いのほかクズっぽいから、じゃあ今度は奪ってしまえと、鈴原がそう俺に訴えたいのはわかる。臆することなくそう告げられるってすげえな、改めてそう思った。

 自分も鈴原と同じくらいの歳だったら、多分、自分の本能のままに行動していたんだろう。七瀬を奪いたいと思うあまりに、青木と引き合わせないようにあの手この手で画策して、七瀬の隣のポジションを確保しつつ彼女を励まして、弱味につけこんで。そんな風に、やり方が汚くても手に入れようと努力していたかもしれない。
 けれど社会経験を経て26歳を迎えた今、物事から一歩引いて、客観的な目線で現実を見るようになってしまった。後先のことを考えて行動するようになってしまった。感情よりも、理性を優先してしまう。
 それらは決して悪いことではないが、臆病になったと言われれば否定はできない。
 なんにせよ、俺が介入すれば必ず泥沼になる予感、そうなれば七瀬の身がもっと危うくなる危険性を考えれば、もう少し様子を見た方がいいと判断してしまうのも致し方なかった。

「……七瀬さん、これから元カレと会うんですよね」
「多分な。うまく話し合いが済めばいいけど」
「早坂さん、七瀬さんがうまく元カレと別れられたらどうするんですか?」
「……どうするって?」
「告白! しますよね?」
「……まあ、するよ」

 そう返事をした直後、鈴原が黄色い声を張り上げた。
 ぱあっと表情が晴れやかなものに変わり、素直に喜ぶ様は純粋に可愛い。七瀬や他のスタッフが、この子を可愛がっている理由がよくわかる。
 鈴原は鈴原で、本当に七瀬のことを慕っている。彼女が自分の目指すべき目標だと、事あるごとにそう口にしている事も知っている。

「鈴原は本当に七瀬が好きだな」
「だって憧れの人ですもん。それに早坂さんも」
「……俺?」

 それは初耳なんだが。

「私、兄がひとりいるんです」
「お兄さんか」
「はい。その兄がよく言うんですよ。恋愛でも仕事でも、互いに切磋琢磨できる最高のパートナーが出来たら幸福モンだって。そんな相手はそうそう見つかるものじゃないって」
「………」
「だから七瀬さんは私の憧れで、七瀬さんと早坂さんの2人は、私の理想」
「……それは有り難いな」
「後輩にここまで言わせたんですから、私の理想、ちゃんと叶えてくださいね?」
「……努力はする」

 ただ、その理想の形とやらになれるかどうかの約束はできないが。そう告げてしまったら、再び目を釣り上げた鈴原にぎゃんぎゃん責められるのが容易く予想できたから黙っておく。
 すっかりニヤケ顔に戻っている鈴原をミラー越しに見届けて、エンジンをかけた。

「……そろそろ帰るか。鈴原、家どこだっけ?」
「……え!?」
「え、じゃない。いつまでも此処にいるわけにもいかないだろ」
「いや、そうじゃなくて!」

 鈴原の声は、いつになく焦りが混じっている。
 もう一度ミラーに視線を向ければ、車のドアにべったり貼り付いている鈴原の姿が映し出されていた。

「早坂さん、七瀬さんのお部屋って2階の階段上がってすぐですよね?」
「そうだけど」
「今、窓に人影映ったんですけど。2人」
「は?」

 鈴原の発言に、背筋が一瞬冷えた。

「……おいホラーかよ。やめろ。俺、そっち系は苦手なんだよ」
「違いますってば! あっ、ほらまた! 七瀬さんのお部屋に、もうひとりいますよ。元カレじゃないですか?」
「……え」

 その一言に、ハンドルを握る指先に力が籠る。鈴原の視線を追うように、俺の視線もマンションへと向いていた。
 部屋の電気は点いているが、カーテン越しに人影はもう映っていない。鈴原が嘘をついているとは思えないし、だとしたら青木が先に、七瀬の帰りを部屋の前で待っていた、という考えに至るのが自然だろう。
 七瀬の部屋に入ることを許された男が俺以外にもいる、その事実を目の当たりにして複雑な気持ちになる。部屋にいるらしいもうひとりの誰かが、必ず青木だとは限らないが。

「あれ? 元カレって確か、この後来るって話でしたよね?」
「仕事が早く終わったから、先に待ってたんじゃないのか? まあ元彼だって証拠もないけど」
「ええ……気になる……」
「誰でもいいだろ。ほら帰るぞ」
「え、気にならないんですか!?」

 ……そんなの、めちゃくちゃ気になるに決まってる。でも、だからってどうしろというのか。部屋に乗り込むわけにもいかないし、そもそも青木だって確信もない。
 スマホに視線を移しても、七瀬からは通知も着信も来ていない。何かあったら連絡しろ、2回も念を押してそう伝えたんだ。何かしら発展があれば報告くらいはしてくれるだろう。

 が、ここで予想外の事態が起きた。

「私、ちょっと様子を見てきます」
「……え」
「すぐ戻ってきますから!」
「はあ!? ちょ、こら戻ってこい鈴原!」


 焦って呼び止めたが、鈴原は止まらなかった。勢いよくドアを開けて、颯爽と飛び出していく。俺の制止の声を振り切りマンションへと駆け出していく小さな背中を見て、また重い溜め息が漏れた。
 勢いだけで行動できるって凄い。
 さすが19歳。
 あんな勢いはもう俺には残されていない。

 鈴原の後を追いかける気力もなく、背もたれに体重をかけて息を吐く。最近、溜め息を吐く回数が増えた気がする。苦痛になるほど疲れているわけじゃないが、無意識に溜め息をつくあたり、精神的にもう若くないんだな、そう直に感じるようになった。
 26歳という、年を取ったと言うには早いけれど決して若いとも言えない年齢になって、物事の捉え方や見方が少しずつ、変化している気がする。服の好みが変わった、お金の使い方が変わった、衝動買いをやめた、物の考え方が広がった。それこそ挙げればキリがない。何かしら行動を起こす前に、一度足を止めることができている。
 あと、もうひとつ。
 結婚願望が出てきた。
 それこそ10代、20代前半の頃には無かった願望だ。

 結婚をして、ひとつの家庭を持つ事。
 それが酷く面倒に思えて、考えるだけで億劫になる。そんなものに縛られたくない、まだ若いのだから遊びたい、当時はそう思っていた。その主張が通じる年代でもあった。
 けれど最近は違う。遊びたいという意思はあまり無い。好きな人と結婚して、落ち着くべきところに落ち着きたい、そんな思いが生まれ始めている。家庭を持つ友人が増えて、そんな周りの変化に影響されたのかもしれない。
 高望みなんてしない。ただ、自分を支えてくれる奥さんがいて、共に育てて成長を見守っていく子供がいて。一緒に飯食って、休日はどこかに出掛けて。何の変哲もない平凡な暮らしでもいい、そんな家族団らんな光景に、理想を抱くようになった。そういう幸せのカタチもありなのかと。
 ……その相手が、七瀬だったらよかったのに。

 3年目で諦めようと決めて、結局想いが冷めることがなく4年が過ぎた。
 長年の片想いというのは、かなりの疲弊を伴う。26にはキツすぎる現実だ。

 やっぱ歳かな、なんて考えていた最中。
 スマホの着信が鳴った。

「……え、七瀬?」

 連絡しろとは言ったが、意外と早く来た。
 手を伸ばし、車載ホルダーからスマホを外して通話ボタンを押す。耳に押し当てても、通話の切れた虚しい機械音だけが響いていた。

「……あれ、切れた」

 かけ直そうとして、ふと思い止まる。鈴原が部屋に来たことに気づいて、一度通話を切ったのかもしれない。
 だとしたら、また七瀬から着信が来るかもしれないし、何かあれば鈴原からも連絡が入るだろう。
 もう少し待つか、そう判断してスマホを助手席へと手放す。そして、ゆっくりと瞳を閉じた。
















「……坂さん! 早坂さんってば!! 起きて!!」

 突然降ってきた怒声と、車のドアを叩きつけるような音に目が覚めた。眠気が一気に吹き飛んで、ドアのガラスをバンバン叩いている鈴原の姿が目に映る。車用時計を見れば5分が経過していて、うたた寝していたことに今気付いた。
 窓を開けて、声を荒げている本人を見上げる。

「悪い。ちょっと寝てた、」
「いいから早く来て!!」

 俺の弁解を遮ってまで息巻く鈴原の表情は、数分前に車から飛び出していった表情とはまるで違う。
 その切羽詰まった様子に、何なんだと眉を寄せる。

「おい、どうした」
「お願い部屋に来て! 助けて!!」

 ……その一言で、緊急事態が起こったことを察した。

「鈴原、落ち着け。何があった」

 この子がこんなに取り乱している姿は初めて見る。顔色も真っ青で、今にも泣き出してしまいそうな程、目が赤く染まっていた。明らかに、何かに怯えているような表情。既に涙声だ。
 マンションから一目散に逃げてきたのか、肩で息をしていて呼吸も荒い。尋常ではないその様に、嫌な胸騒ぎがした。

「……ッはぁ、へ、部屋、が」
「七瀬の部屋か?」
「はっ、い……鍵、開いてて」
「部屋の中に入ったんだな?」

 こく、と鈴原が頷く。
 言葉を紡ぐのもままならない程に乱れた呼吸を静めながら、鈴原が更に口を開いた。

「入ったら七瀬さん、た、倒れてて……ッ、ち、血がいっぱいっ……、へ、変な男もいた……っ!」





 ―――バンッ!!


 乱暴にドアを開け、そのままマンションへと走り出す。考えるより先に体が動いていた。
 ドアを閉め忘れたとか、車の中に財布を置きっぱなしだとか、そんな事を思い起こす余裕もない。冷静でなんかいられなかった。
 エレベータ―を待つのも煩わしくて、階段を勢いよく駆け上がる。頭の中はただ、七瀬の無事を願う思いと後悔の念で埋め尽くされていた。


 ―――何かあったら連絡しろ。


 そう伝えたのは、俺なのに。
 だから七瀬は、電話をくれたのに。
 最後の最後で、俺は判断を誤ってしまった。

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