遠い存在 ランプが点滅している内線番号を押す。乱れる鼓動を一呼吸することで落ち着かせてから、受話器を手に取って耳に当てた。 「……お電話代わりました、北川です」 『鈴原と仲いいんだな』 「……は、」 『随分と楽しそうに話してたじゃん。プライベートでも仲いいの?』 「……」 一方的に進められる詰問に思考が止まる。嫉妬とも思えるその口調は明らかに不機嫌そうで、つい眉をひそめてしまった。会社の電話機を使って何を言い出すのかと内心呆れ返る私に焦れたのか、竹井が小さく舌打ちをする。なんて感じの悪い態度だ。 不穏な気配を纏う声音に戸惑いながらも、私は周囲に目を配る。定時前で騒がしいオフィス内では、会話の内容を知られる心配もなさそうだ。とはいえ、今はまだ就業時間であることに変わりはない。周りの目に注意しながら、受話器に手を添えて会話を続行することにした。 「……お疲れ様です。帰っていらしたんですね」 『さっきな。帰って早々嫌なモン見たから気分悪ぃわ』 「ご用件は何でしょうか」 『……なんだよ、その他人行儀な言い方』 他人でしょうが。そう突っ込みたくなる気持ちを無理やり抑え込む。あくまでも冷静、平然に、私の動揺を周囲に、そして竹井に悟られないように声のトーンを下げておく。 「……ご用件は」 『この後用事あんの?』 「いえ、特には」 『じゃあ仕事終わったら4階のA会議室に来て』 「……」 一瞬の躊躇の後。 「……かしこまりました。後ほどお伺いします」 結局断れなかった。断ったところで、なんやかんやと言いくるめられて結局行く羽目になるだろうと容易く想像できたから。何より竹井の機嫌をこれ以上悪化させるのは気が引ける。 思えば、私と鈴ちゃんがいとこ同士だって事は、竹井はまだ知らない。だからあんなに嫉妬していたのかと思うと複雑な気分になる。確かにつぅちゃんの言う通り、アイツにもわかりやすい部分があるかもしれない。 どっちにしても面倒くさい事になりそうだな……、と落ち込みながらも通話を切る。受話器を元の位置に置いて顔を上げた時、電話を取り次いでくれた後輩と目が合った。不安げな表情を浮かべながら、「大丈夫ですか?」と視線で訴えてくる。軽く手を振ることで大丈夫だと応えた。 実際のところは全然大丈夫じゃない。久々に聞いた竹井の声は怒気を含んでいたし、どうして会議室に呼ばれたのかが気になった。まさか実務研修に行く事になったんじゃないかと、その報告だったらどうしようと不安が募る。いまだに自分の中で、竹井の告白に対する明確な答えを導き出せないまま離れ離れになるなんて考えたくない。 「……行かなきゃダメかな」 ぽつり、ひとりごちる。竹井に会いたい気持ちと行きたくない気持ちがせめぎあう。会えない日々が続いていたお陰で、先日放置された怒り自体はかなり収まっているけれど、あの不機嫌な様子から察するに、多分、相当意地悪な事を言ってくるに違いない。仲がいいというのも考えものだ、気分屋の竹井に関しては、特に。 そうこう考えているうちに、オフィス内の空気がガラリと変わっていることに気付く。定時の17時を迎え、周囲は帰宅に続く飲み会への準備で忙しそうだ。ライフワークバランスの向上を最優先に掲げている我が社で、自ら積極的に残業しようとする者なんて殆どいない。業務からの解放感で満ち溢れている社員達の姿を尻目に、私は重い腰を上げた。 「あ、来た」 指定された会議室の扉を開けば、缶コーヒー片手にくつろいでいる男の姿がある。いくつにも並べられた会議テーブルに緩く腰掛けて、竹井は私に顔を向けた。その気怠そうな態度に眉を吊り上げる。 「……何の用? ていうか、仕事以外の用件で内線使わないでよ」 至極もっともな意見を主張したつもりだけど、竹井は私の発言を軽くスルーした。説教なんか受けるつもりもないのだろう。シラッとした顔でコーヒーを飲み干して、空になった缶をコツ、とテーブルの上に置く。その傍らにはもう1本同じ缶コーヒーが置いてあって、おもむろに手に取ったソレを私に差し出してきた。 「お疲れ。ハイ」 「……ありがと」 向けられた表情は意外にも普通で。なんだか拍子抜けしてしまう。電話越しの不機嫌っぷりは何だったのかと疑ってしまうほどに、武井の様子は普段と変わらず飄々としていた。戦々恐々としていた数分前までの自分がちょっと恥ずかしいくらいだ。 素直に受け取った缶コーヒーは、既にプルタブが開けられている。随分とご親切な配慮だなと思いつつも口には出さなかった。竹井の隣に並び、大人しく缶コーヒーに口をつける。ほろ苦く冷たい味わいが、喉の奥へと通り抜けていった。 「今日帰ってきたんだね」 「昼頃な」 「そう。お疲れ様」 「また近いうちに行く事になったわ」 「……実務?」 「いや違う。普通に出張」 その返答にほっとしたのも束の間、竹井がふと、窓の外に視線を逸らした。そのぎこちない動きに、嫌な予感が心をざわつかせる。「でも、」と竹井が話を切り出したお陰で、その予感が的中したことを悟った。 「実務の話も本部長から聞かされた。今すぐは無理らしいけど、多分、1年後くらい先になるだろうって」 「……1年」 それが本当だとしたら、あと1年しか竹井と一緒にいられない事になる。 何も今生の別れという話じゃないし、ここまで悲観することでもないとわかっているけれど、2〜3年も好きな人に会えないという現実は、私にとっては何事にも耐え難い辛さがあった。 今後交際する人がいれば、年齢的な面でも「結婚」を視野に入れなきゃいけなくなる。竹井とヨリを戻せば、当然結婚は遠ざかる。未来が見えない人と将来を誓い合えるような度胸なんて私にはない。『結婚をしているという体面よりも、相手を好きな気持ちの方が大事』だと、そう胸を張って言えるような芯の強さも持ち合わせていない。 私は弱い。自分ひとじゃ何も決められないし何もできない。多少強引でも引っ張ってくれる人がいないと、前に進むことも出来ない。そんな私が今ここに立っていられるのは、竹井の存在が大きかった。 この男はあまり人に馴染まないし、性格自体も癖が強くて難があるけれど、私が困っていたら必ず助けてくれるし元気付けてくれる。そんな竹井がいつも隣にいてくれたことに、私は安心しきっていたんだ。私が困っていたら竹井が助けてくれると知っていたから、今まで自ら動くこともしなかったし考えることもしなかった。 竹井が居なくなるとわかった今、自分がこの先どうするべきか、どうしたいのか。私自身で考えて判断しなきゃいけない。今まで竹井にばかり頼っていたツケが今頃になって、こんな形で返ってくるなんて思いもしなかった。本当に、どこまでも甘ったれで馬鹿な女だ、私は。 『今度はちゃんと考えなよ』 脳裏に蘇る、つぅちゃんの言葉。 でも、考えてる。考えているつもり、なんだよ。 ……考えている"つもり"でも、それが相手に伝わらなければ何の意味も無い。"何も考えていない"ことと同じだって事を、今頃になって自覚した。 ……どうしたいんだろう。私は。 「……暑い」 そんな呟きが隣から聞こえてきて顔を上げる。テーブルに体重を預けたまま、竹井は腕を組みながら床に視線を落としていた。 サイドの髪から覗く瞼は、今は閉じられている。目を伏せたまま漏らした一言に、私は首を傾げた。 「……そう? そんなに暑く感じないけど。室内温度下げようか?」 そう提案してみるけれど、竹井は何も答えない。俯き加減のまま沈黙を貫いていて、私は困ったように眉尻を下げた。 返事を貰えなきゃどうすることもできない。どうしようかと迷う最中に気付いた、竹井の様子が少しおかしいことに。 「……竹井? 顔赤くない?」 「……」 「ねえ大丈夫? 熱あるんじゃないの?」 問いかけても、何も言葉を発しない竹井に焦りが生まれる。帰国したばかりで疲労だって溜まっているのに、竹井の不調に気付けなかった。不安に駆られて彼に近づこうとした時、今度は自分の異変に気付いた。 「……っ!」 突然。 くらり、と目眩が襲った。 トップページ |