昔と違うこと 「……色々言いたいことはあるけど、先に誤解から解いておく」 「……誤解って」 「俺は大学卒業してから女と遊んでない。彼女ももう何年もいない」 はた、と瞬きを落とす。重々しい雰囲気を醸し出しながら何を言うのかと思えば、身の潔白の証言だとは思わなかった。 けれど、にわかには信じられない。だって社内では、常に竹井の話が飛び交っているくらいコイツの噂が尽きないんだから。それらを全部覆せるだけの、信憑性の高い話の材料でも用意してるんだろうか。 「……今でも女を取っ替え引っ替えしてるって聞いたよ」 「してねーよ。噂が一人歩きしてんだろ」 「満足させられなかったら捨てられるって聞いたよ」 「俺最低すぎるだろ……。大方、昔別れた女が腹いせに変な噂でも流してるんじゃね。ありがちだろ」 「……」 「……そんなに信用できないのかよ」 「……そりゃそうでしょ……」 眉間に皺を寄せて反論する私に、竹井はゆっくりと上半身を起こして私の腕を引っ張った。私も一緒に起こされて、乱れた髪を手ぐししながら整える。さっきまで抱いていた怒りは薄れて険悪な雰囲気はなくなっているけれど、居心地の悪い沈黙だけが続く状況に真相を言いあぐねていた。 どうしようと悶々としている中、怠そうに胡座をかいた竹井がため息混じりに口を開く。 「……大学3年の時、1人でスペインに行ったんだよ」 「……スペイン?」 それは初めて聞く話だった。 突然何の話をするのかと眉をひそめる私に、まあ聞け、なんて言いながら竹井は話を続けた。 「……俺さ」 「……うん」 「大学ん時、ホントしょーもない馬鹿だったから。北川と別れてから自暴自棄になって色んな子と遊んだりもしたけど、誰にも本気になれなかったし誰といても楽しいと思えなかった。北川といる時は別だけど、マジで毎日つまんなかった」 「……」 「心のどこかで『こんなんじゃ駄目だ』ってわかってたけど、鬱々とした毎日から抜け出す方法もわかんねーし。大学3年の就活最中に1人でスペインに行ったのも、現実逃避のつもりだった」 「現実逃避……?」 「今まで適当に遊んでた奴らが、急に就活始めたからさ。自分だけ置いていかれてる状況に焦ってた。色々しんどくて、もういっそ誰も俺のこと知らないとこ行きてーな、って思って」 「……それでスペインに?」 「うん。逃げた」 「……知らなかった」 「言ってねえしな」 確かにその考えは現実逃避以外の何者でもないけれど、それを実現するのはかなり労力を伴う。なんでスペインなのかと疑問が残るけど、逃避の手段で国外逃亡とかなかなか大胆だ。 面倒臭がり屋の竹井らしくないな、なんて思ったけれど、それほど切羽詰まった状態だったのかもしれない。思えば私も3年の時は、就活のことばかり考えていた。旅行なんて欲を抱く余裕なんて当然ない。 「……スペイン、どうだったの?」 「楽しかったよ。楽しかったし、衝撃だった。言葉も食べ物も文化も、当たり前だけど何もかも全然違うから刺激的だったし、街の人達の人柄にも惹かれた。周りの声とか情報に流されてなくて、みんな自由で自立心もあってよく笑う。一瞬一瞬を全力で楽しんでる雰囲気が伝わってきて、数年ぶりにすげえ楽しいって思った。それからだな、海外に興味を持ったのは」 「……興味?」 「ああ。他の国にも行ってみたい欲が出てきた」 「……」 気難しい表情を保っていた竹井の顔が、ふと緩む。目尻が下がり、細めた瞳はありし日のことを懐かしんでいるかのように見えて。 「人生の転機ってモンがあるなら、俺の場合、間違いなくあのスペイン旅行がキッカケだ。あれ以降遊ばなくなった、というか遊べなくなった。もっと夢中になれることを見つけたから。時期が時期だけに留学は諦めたけど、海外に行ってもっと異文化に触れてみたいんだ。いずれは海外に住んで、なんかやりてーな。明確にはまだ決めてないけど」 「……そう、なんだ」 呆けてる自分の声が、遠く聞こえた気がした。 こんな風に、自らのことを話す竹井を見るのは初めてで。少しだけショックを受けた。いつも一緒にいた竹井の事をなんでも知っているつもりでいたけれど、こんな無邪気な一面もあったなんて知らなかった。私が知っている竹井は、マイペースで少し意地悪なところもあって、でも基本は何事にも淡々としてる男だったから。それこそ何に対しても、依存や執着をしないような。 自らの夢を嬉々として語る竹井は、荒れていた頃の面影なんてどこにもなかった。大学生の頃の苦い思い出を引きずってもいない。私がグダグダと片想いを拗らせている間に、竹井は1人でやりたい事を見つけて、ちゃんと前を向いていたんだ。自分に対する噂なんて、何も気にならないほどに。 ……わたし、今まで何やってたんだろう。 竹井の何を見ていたんだろう。 一番近くにいたと思っていたこの人が、今は一番遠い存在に感じてしまう。手を伸ばせば、すぐ触れられるくらい近くにいるのに。 ゆっくりと体を傾けて、竹井の胸にもたれ掛かる。布越しに伝わる体温が嬉しくて、けれどこの温かさが、明日にはもう感じられないのだと思うと泣きたくなる。 誤解が解けて、昔とは違う今の竹井を目のあたりにして、コイツ凄いなって思う気持ちはあるのに、応援したいって思う気持ちも芽生えているのに。1人残される不安はどうしても拭うことが出来なくて、竹井の夢を素直に応援できない。 「……ごめんね。勝手に誤解してて、酷いこと言って」 「……別に」 「……でも寂しい」 「……」 「竹井がいないと寂しいよ」 心が狭いと自分でも思う。中学からの付き合いになる竹井とは、何の縁なのか常に隣り合わせでいる事が多かった。それが当たり前のようにも感じていた。今までずっと一緒にいられたのなら、この先もずっと一緒なのだろうと、何の根拠もなく思い込んでいたんだ。 けれど実際は、そう思っていたのは私だけ。竹井は既にやりたい事を見つけて1人で歩き始めている。その温度差にショックを受けたのも確かだった。 ちゃんと両想いだったこと、知れて嬉しかった。 けれど、いつ会えるのかもわからない程の遠距離恋愛が自分に出来るとは思えない。いずれ遠くに離れてしまう人と、今ヨリを戻せるかどうか訊かれても、すぐに答えを導き出せなかった。一緒にいたい思いが強すぎて、竹井がいなくなる実感も持てない。 互いの想いを確かめあったところで、明日になったら竹井は遠いところへ行ってしまう。会いに行こうと思って行ける距離じゃない。こんな形で離ればなれになってしまうなら、いっそ何も知らないままで距離を置いた方が良かったんじゃないかと、そう思う気持ちがあるのも嘘じゃない。 「……すぐに帰ってくる」 「え?」 「ただの海外研修だから。10日間くらいで帰ってくる」 「……」 まるで私の胸の内を見透かしたように返された言葉に面食らってしまった。「明日からもう日本にいない」なんて言うから、数年単位の話なのかと思っていたのに。 「……紛らわしい言い方しないでよ」 拗ねながら言ってみても、安堵で胸を撫で下ろしてしまう。緩んだ表情を隠すように、竹井の胸に顔を埋めた。 腰に竹井の両腕が回って、ゆっくりと引き寄せられる。しっかりと抱き込まれた体から、じんわりと熱が伝わってきた。 「……今回はただの海外研修だけど、実務研修の希望は出してる」 抱き締められながら告げられた言葉に、一気に気分が沈む。どうあっても竹井は日本を出たがっていて、いずれ離ればなれになる未来は避けようがない。 「実務研修に行けたとして、無事に終えれば今度は海外駐在員になれる。でも誰でも簡単になれるわけじゃないし、そもそも俺はまだ入社歴が浅いから選ばれない」 「……入社歴って関係あるの?」 「ある。入社して7〜8年以上で実務研修を終えてることが基本条件だから。俺はまだ4年目だし」 「へえ……」 すぐに海外へ行く訳じゃないとわかっても、心はやっぱり晴れなかった。実務研修の希望を出すほど、海外で仕事をしたいと言う竹井の意思は強いのだと十分すぎるほど伝わってきたから。 実務研修の期間は2〜3年だと聞いたことがある。 今回はすぐに帰ってくるけど、次に海外へ行くことになれば、今度は数年会えないかもしれない。 それを知った今、私はどうしたらいいんだろう。どうなりたいんだろう。突然突きつけられた問題は、私の中で様々な葛藤を生んだ。 寂しさを紛らわすようにぎゅうっと抱きつけば、竹井の腕にも力が篭る。ゆっくりと背中を撫でる手が私の髪に触れて、うなじに触れ、首筋を辿って頬へと辿り着いた。宥めるように手のひらで撫でられ、その優しい動きに甘やかされている気分になって心が満たされていく。 「……俺さ」 「うん」 「いずれは日本から出て、海外で仕事したいと思ってるけど」 「……」 「その時に、北川を連れていきたい」 「……は、」 囁くように告げられた言葉は、予想すらしていなかった一言で。竹井の胸の中に閉じ込められたまま、私はぱちぱちと瞬きを繰り返した。 本気とも冗談とも思えるその告白を真に受けていいのか判別かつかない。確かめようと顔を上げようとしたけれど、更に強く抱き締められたから出来なかった。 トップページ |