出会い


「"天使"って書いて、"あまつか"って読むんだ。かわいい名前だね」

 入社初日、社会人1年目。
 新入社員の挨拶の際、隣に居合わせたのが速水くん。彼と初めて交わした会話は、やっぱりというか、私の名前がキッカケだった。

 珍しいと評されることは多かったけれど、『かわいい』なんて言って貰えたのは、この日が初めてだったと思う。とはいえ、嬉しい感情なんて湧いてこなくて、むしろ胸に抱いたのは、この人に対する警戒心。軽く人間不信に陥っていた私に、悪意のないその言葉は嫌味のように聞こえたから。

「……ありがとう、ございます」

 お礼を言うのも酷くおかしい気がしたけれど、どう答えていいのかわからず、無難な返答で濁してしまった。
 愛想の欠片もない私の態度に、彼───速水蓮くんは、綺麗な瞳を細めながら微笑んだ。

「これからよろしく、天使さん」

 これが始まり。
 それから数ヵ月は、至って普通の日々が続いた。






 私達が入社したのは、様々な部門でのマーケットリサーチを専門とする企業。榛原《はいば》経済研究所───産業分野に特化した、業界トップに並ぶ知名度の高い老舗だ。
 営業、管理、調査部門があり、私と速水くんは市場調査の研究員として配属された。

 この部署は一人一人が専門の分野を持ち、良くも悪くも個人主義の強い組織体制で成り立っている。自由気質の高い業務プロセスは、他人との馴れ合いが苦手な私にとっては非常にやりやすいものだった。
 個人の裁量が大きい為、自己管理や責任を伴う反面、自由度は高くやりがいもある。職場関係もすこぶる良く、同期や上司も気さくな人達が多い印象だ。同じ部署の人間として働く速水くんとも、たまに雑談を交わす程度には気を許していた。


 そして、入社して僅か2ヶ月。
 速水くんの存在感は、既に私達とは一線を画していた。


 爽やかなルックスと温厚な性格、更に社交性と協調性も持ち併せている彼は、同期からは頼れる人物として慕われ、女性社員からは人気の的だった。勤務態度も真面目で仕事意欲もあり、任せられた業務は必ず定時前に仕上げる捌きの早さは、何よりも高い評価を受けた。先輩のみならず、上司からも彼は可愛がられていた。

 人柄も良く仕事もできるとなれば、速水くんの評価はうなぎ登りのように上っていく。彼の周りは常に人で溢れていて、地味な私とは対極にいるような存在だった。

 あれほどの見た目と人望の厚さであれば、特定の恋人がいてもおかしくはない。周りからはそう囁かれていたし、私自身もそう思っていた。




「───速水くんね、ひよりちゃんが好きなんだって。だから、彼女になってあげて?」

 他部署の知人から、その言葉を聞くまでは。



・・・



 定時を迎え、パソコンとiPadの電源を落とす。部署内は飲みに行く人達で集まり、オフィスの一角は賑わいを見せていた。その輪の中心には、速水くんの姿もある。
 朗らかな笑顔を人に向けている彼を横目で見ながら、私はその場を後にした。

(20時だっけ)

 彼と約束した時間まで、まだ余裕がある。
 なら、一度マンションに帰ろう。シャワーを浴びて、可愛い私服に着替えよう。これから彼とプライベートで会うのに、スーツ姿のままでは抵抗がある。
 2人きりでいられる日は、速水くんの恋人らしく在りたい。社外で彼と会う時は、仕事を連想させるような服装や会話は意図的に避けていた。

(ラインだけしておこう)

 一度マンションに戻ることを伝えておこうと、廊下を歩きながらスマホを取り出した。

 そしてふと気付く。
 誰かが近づいてくる、駆け足で。
 顔を上げたその直後、曲がり角で接触した。

「きゃっ!」
「うわっ」

 小さな悲鳴が重なって、ぶつかった拍子に体がよろめく。手からスマホが滑り落ちて、ガシャン! と派手な音を響かせた。
 くるくると円を描きながら、スマホが床を滑っていく。茫然と立ち尽くす私に、その誰かが慌てて駆け寄ってきた。

「ごめん! 怪我ない!? あっ、てかスマホ!」

 廊下の端にぶつかった事で動きを止めたスマホを、彼が咄嗟に拾おうとする。けれど指先が触れる寸前、その手が止まった。人様の、しかも女の私物を触る事に迷いが生じたのかもしれない。私だって人様の、しかも男のスマホを触る事には抵抗がある。
 でも、彼が躊躇したのは一瞬だった。すぐにポケットからハンカチを取り出して、スマホを包み込むように拾い上げる。
 そして私に差し出してきた。
 こんな拾われ方と渡し方をされたのは初めてで、そのさりげない気遣いに、彼なりの優しさを感じた。

 改めて彼の顔を見上げる。
 背は然程高くない。目線の高さが、私とほぼ一緒だ。
 さらさらと流れる明るい茶髪が、窓から差し込む夕日に反射する。癖のない前髪はやや長めに揃えられていて、目元に少しかかっている。大きい瞳のせいか、童顔な印象を受けた。
 外見だけで判断すれば、少し、軽そうな人。
 でも、わたわたと慌てる彼の様子は妙に可愛らしい。失礼かもしれないけれど、愛くるしい子犬を連想させる。ちょっと、柴犬っぽい。

 同じ部署の人ではない。
 けど、社内で何度か見かけたような、気がする。よく覚えていない。
 ネームプレートには「佐倉」の文字が見える。

「本当にごめんね! 壊れてない? ヒビとか入ってない?」
「……あ、大丈夫、みたいです」

 床に落ちた衝撃で、強制的に電源は切れてしまっている。けれど数秒後には、普通に電源が入った。問題なく動くし、ヒビ割れている箇所も見当たらない。

「ああ、よかった。あ、でももし変なところあったら言ってね。弁償するから!」
「いえ、そこまでは」
「ああああ、ちょっとまって待って」

 私の言葉を遮るように、彼は慌てて待ったを掛ける。鞄から名刺ケースを取り出して、1枚だけを私に差し出してきた。つい流れで受け取ってしまう。

「俺ね、あれだ。営業部門の佐倉いずみと言います。もしね、やっぱスマホ壊れてたら教えて! 弁償させてください!」
「や、でも」
「あああやばい味噌ラーメンが俺を待ってる。ごめんね、俺急いでるから! あまつかさんもお疲れ!」
「え、あ、お疲れさまです……?」

 ろくに私の言い分を聞かないまま、彼は鞄を脇に抱えて颯爽と消えていく。余程急ぎの用事があるのだろうか。嵐のような人だった。

 悪い人、ではないのだろう。たった数分だけ交わした会話の中で、彼の人柄の良さを垣間見れた。ほぼ一方的に話しかけられていただけだったけど、不思議と嫌な感じはしなかった。何だか、心がほっこりする。

「……あ、私の名前……」

 同じ会社の人間とはいえ、初めて会話をする人に「あまつか」と呼ばれたのは、初めての事だった。

mae表紙tugi

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