謀られた?


・・・



「……天使さん、水飲む? 喉渇いたでしょ?」

 呑気な口調で尋ねてくる様は、清々しい程に爽やかで。
 枕に埋めていた顔を上げて、ベッドに近づいてきた部屋の主を一瞥する。
 速水くんの手には、ミネラルウォーターが入ったペットボトルが1本だけ。
 差し出されて、のろのろと手を伸ばした。

「……うそつき」

 受け取る際に悪態をつくのも忘れない。
 どうして私が不機嫌なのかというと、彼が嘘をついたからだ。
 その証拠が、寝室の床に散乱している私の制服とパンプス。そして下着。
 少し触れるだけ、そう言ったくせに、結局速水くんは最後までしてくれちゃったんだ。私は止めたのに、2回も。

「うん、ごめんね?」

 軽い謝罪にむっとする。睨み付けた先にある顔はニコニコしていて、肌もつやつやしていて、反省の色は全く見えない。
 上半身を起こして、カラカラになった喉を先に潤してからキャップを絞めた。

「最後までしないって約束は何だったの」
「あんなに乱れてる天使さんを見たら、最後までしないと可哀想な気がした」
「乱れてないし私はやめてって言った」
「乱れてたよ」
「乱れてない」
「可愛かったね」
「………」

 悪びれもなく言い放つ笑顔が憎たらしい。

「でも、『もっと触ってほしい』って言ったのは、天使さんでしょ?」
「……む」

 それは、確かにそうだ。甘い雰囲気に飲まれて、翻弄された挙げ句に流されてしまった自分にも当然、非はある。
 最後まで致してしまったのは互いに同意のもとであって、完全に彼を咎めることはできない。最終的に受け入れたのは、私の方なんだから。
 ただ、冷静に戻れば戻るだけ納得できない部分が増えていく。『少し触れるだけ』って最初に明言したのは、速水くんの方なのに。彼が施した行為は、少しどころの話じゃなかった。
 でも、「触ってほしい」と自分からねだってしまった手前、強く反論も出来ない。

 はあ、とため息をつく。身体は既にぐったりで動くのも辛い。
 時計を見れば、既に22時半を回っている。
 夕飯をご馳走になってから終電で帰る予定だったのに、こんな様じゃ帰るに帰られな………、

「………」

 ………まさか、謀られた?

「天使さん、大丈夫? 動けそうにないなら無理しない方がいいよ。今日はここに泊まったら? うん、そうしよう。そうした方がいい」
「………」

 ……この人は。もう。

「平気。帰れる」
「えっ」

 私の帰る宣言に、速水くんは驚きの声を上げた。

「何?」
「……天使さん、無理して平気な振りしなくてもいいんだよ? 動けないんじゃない? 動けないよね? だから、」
「大丈夫。余裕で動ける」
「え、ほんとに?」
「ほんとに」
「夕飯食べないで帰るの?」
「帰る」
「……そっか」

 あからさまに声が沈んでいる。
 やっぱり、謀ってたのね。
 最初から、狙いは"これ"だったなんて。

 でも諦めてくれたようだし、シャワーだけ借りてすぐに帰ろう。急げば終電に間に合いそうだし、明日も通常通り仕事がある。
 泊まるつもりで来た訳じゃないし、この疲労を明日に持ち越さない為にも、早く身体を休めたい。
 速水くんお手製のイタリアン料理は、また今度でいいよね……なんて。
 そう思い直した、その直後。

「……きゃっ!?」

 両肩に手を置かれて、そのまま強引に押し倒された。ポスンとシーツに身が沈み、その弾みでペットボトルが手から滑り落ちる。
 派手な音を立てて床に落ち、部屋の端まで転がっていった。

「ちょ、」
「……そう。まだ帰る気でいるんだ」
「は、速水く、」
「じゃあ今度こそ動けないようにしないと」

 悪魔の囁きが聞こえた。

 不穏な空気に身体が強張る。
 硬直してしまった私に覆い被さりながら、彼は不敵な笑みを浮かべた。
 さながら、獲物を捕らえた肉食動物のような鋭い目つきに冷や汗が滲む。

「や、帰るの」
「なんで帰るの」
「もとから泊まる気なんてなかったし」
「俺ももとから帰らせる気なんてなかったし」
「夕飯だけのお話だったでしょ」
「そう言わないと、天使さんが警戒してここに来てくれないから」
「き、着替えもないし」
「俺のシャツ貸してあげる」
「終電なくなる」
「早朝、マンションまで送ってあげる。それでいい?」

 何を言っても倍の勢いで返される。
 今の彼に正論を説いたところで、何も通じる気がしない。
 本気で私を帰らせる気がないみたい。

「……明日も仕事なんだよ?」

 それでも、黙って泣き寝入りするつもりもない。せめてこれ以上、身体に負担が掛かることだけは避けたい。3回も、なんて嫌だ。

「大丈夫だよ。俺達若いし、体力あるし」
「そういう問題じゃないの」
「じゃあ、今日はこのまま泊まってくれる? 泊まってくれるなら何もしないから」
「……ほんとに?」
「うん」
「………」

 とても胡散臭い。

「……そんなに泊まってほしいの?」
「天使さんが珍しく、部屋に来てくれたんだよ? 3年も付き合ってるのに、滅多に部屋に来てくれない天使さんが。こんなレアな日に、大人しく帰らせるはずがないよね」

 しかも開き直っちゃった。

「……わかった」

 彼が提案した条件を、私は渋々飲み込んだ。
 だって私が折れないと、この状況が覆ることがない気がしたから。

 自分の思い通りに事を進めた張本人は、上機嫌で私の首筋に顔を埋めてくる。鼻を擦り付けるようにくっつけて、その甘えた仕草に胸が疼く。

 ……この人、ずるいなあ。
 こんな風に甘えられたら、何でも許してしまう気がする。

「明日、早起きしなきゃね。天使さん送ってあげなきゃいけないし」
「……よろしくお願いします」
「いえ、彼氏なんだからこれくらい当然」

 それに言い出しっぺは俺だから、そう言って、速水くんは私の長い髪を梳いた。
 露になったうなじに触れた熱。
 ぴりっと痛みを感じて、肩が跳ねた。

「んっ」
「……ひとつだけ許してね」

 小さく詫びた速水くんは、私の手を引いてゆっくりと起き上がった。
 一糸纏わぬ姿の私は、慌ててシーツで身体を隠す。そして紅く色づいたであろうソコに手を当てた。
 髪を下ろせば、うまく隠れるであろう場所。
 でも、髪が風になびけば確実に、人の目に触れてしまう場所。

「……こんなとこ、見えちゃうよ」
「マーキングは必要でしょ?」
「そんなの必要ない」
「いつ、天使さんのことを狙う奴が現れるかわからないからね。俺がいない時も牽制できるようにね」
「……ますます必要性を感じない」

 私を好いてくれる人なんて、いないのに。

「見られたら何て言い訳したらいいの」
「虫に刺されたって言えば問題なし」
「……そんなありきたりな嘘が通じるとは思えないけど」
「それでいいよ。本当のことなんて言わなくていい。もしかしてキスマークかも? って相手に思わせられたら、俺的には成功だし」
「……何に対しての成功なの……」

 よくわからなくて肩を落とす。最近の速水くんは、愛情表現が過激と言うか、露骨な気がする。
 彼はもっと利発的で、人の目につくような場所にキスマークをつけるような人じゃなかった。どちらかと言えば控えめで、こんな風にガツガツした感じではなかった。
 けれど、そんな彼が可愛いと思ってしまう自分が一番の謎かもしれない。

 いつも穏やかで冷静な彼が、帰らせたくないからと必死になったり、誰かにとられたくないからとキスマークをつけたり。
 なんだか子供っぽくて、愛しさが込み上げてくる。惚れた弱みかもしれない。

(……まあ、いっか。あの人達に何言われても、今更だし)

 部署の人達のことは、もう考えない。

「あのさ、天使さん」
「なに?」

 部屋の端っこに転がっているペットボトルを拾い上げて、速水くんが再びベッドに腰掛けた。

「思ったんだけど、結婚の前に同棲してみるのもアリなのかなって。どう思う?」
「同棲……」

 彼の提案に、私は表情を曇らせる。

「……不満そうだね」
「……バレちゃう……」
「……もー。結婚するなら会社側に報告しなきゃいけないし、遅かれ早かれ、みんなにバレるよ? まさか、挙式の日まで隠し通すつもり?」
「……え……挙式?」

 結婚式。
 そんなイベント、頭の中からすっかり抜け落ちていた。

「え? まさか式挙げないの?」
「……考えてなかった」
「結婚式だよ? やろうよ。そんなに派手なものじゃなくてもいいし、親しい人達だけ呼んでさ。せっかく天使さんが主役の日なんだから」
「………」

 同棲に、結婚式。
 ウェディングドレスに、式に呼ぶ人達の事。
 まるで雲を掴む話のように感じた。

 現実的な話を突きつけられても、思考がすぐに追い付かない。失礼かもしれないけど、結婚式のことなんて一切考えていなかった。抱えている問題が多すぎて、そこまで考えが至らなかった。
 結婚と挙式は女にとって特別で、切り離して考えることなんて出来ないはずなのに。私って本当に、可愛いげのない女だなって思う。

「天使さん、結婚式したくない? ウェディングドレス着たくないの?」
「速水くんはしたいの?」
「したいよ。一生に一度ものだし、天使さんのウェディングドレス姿、俺見たいし」
「あ、あんなフリフリのドレス着るの……?」

 つい眉をしかめた私に、彼が苦笑いを浮かべる。

「すごい拒絶反応」
「だって絶対に似合わない」
「いや似合うから。絶対。似合わないわけがない。だから俺の為にウェディングドレス着て?」
「速水くんが着れば?」
「なんで??」

 当然の如く拒否された。

mae表紙tugi

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