誰にも言えないこと


「───ねえ、ちょっと!」

 カツカツと、足早に駆けてきた音が扉の前で止まる。直後凄まじい勢いで、ガンガンとドアが叩かれた。
 怒気を含んだ口調と激しいノック音に、体は震え上がって動けない。極度に狭い密室空間が、余計に緊迫した状況を生み出し、精神を追い詰める。

 施錠はしたままだから、内側から解錠しなければ、ドアは絶対に開かない。声を出さなければ、中にいるのが私だとは気づかれない。

 それでも、もし聞き耳を立てていたのが私だとバレたら───

 そんなことを考えただけで、吐き気を催しそうな程の恐怖が襲う。外なんて出られるわけがない。

「ちょっと誰よ! 中にいるんでしょ!?」
「ヒカリ、やめなよ。そんな風に言われたら、誰だって怖くて出られないってば」
「はあ? うちらの話盗み聞きしてたの、この人じゃん」
「出るに出られなかったんでしょ。ほら、もう戻ろうよ」

 三樹さんと一緒に来た子達が、急かすように彼女に告げる。躊躇しているような沈黙が続いた後、はあ、と諦めに近いため息が聞こえた。同時にノック音も止む。
 この場を去ろうとしている彼女達の気配に安堵した直後、三樹さんの鋭い言葉が降り掛かった。

「ねえ、誰だか知らないけど。私達がここで話してた内容、周りに言いふらさないでね。言ったら、あんたが誰か突き止めてやるから!」

 ガンッ! と勢いよく扉を蹴られ、ヒッと小さな悲鳴が漏れる。咄嗟に両手で口を覆って息を止めた。今度こそバレたかもしれない、心臓が痛いくらいに暴れだす。

「ほら、ヒカリ。行こうよ」
「……サイアク。バレたら速水くんに嫌われるじゃん」

 どうやら私の悲鳴は聞こえていなかったようで、遠ざかっていく複数の足音に安堵の息が漏れる。大袈裟かもしれないけれど、生きた心地がしなかった。
 心臓は大きく乱れていて、貧血のような気持ち悪さが襲ってくる。立ち上がることもできなくて、ペタリとその場に座り込んだ。
 床が汚いとか、そんなことを考える余裕もない。
 不規則な呼吸を落ち着かせようと、ゆっくり深呼吸を繰り返す。

(……情けない)

 なんて無様なんだろう。心の中ではいくらでも毒を吐ける癖に、面と向かって言うことは出来ない。それどころか、恐怖で身がすくんで動けなくなるなんて話にもならない。

 たとえ心の内を直接言えたところで、状況は何も変わらない。嫌われ者はずっと嫌われ者のままで、この状況を覆す事態なんて起こらない。
 わかっているから、臆病な私は心の中だけで毒を吐く。自分可愛さに、自分の心を守ろうとする。
 私がこんなに孤立しているのは私が原因かもしれないけれど、それが、こんな劣悪な環境に追いやられる理由にはならない。
 だから私だけが悪いんじゃない。
 仲間内で人を悪評して面白がっている人間にも、見てみぬ振りをしている人間にも非はある、と。
 そうやって他人に責任をなすりつけてしまえば、そっちの方が幾分か、心が救われる気がした。

(……根暗女、か)



 ───わかってるよ、そんなこと。




・・・




(……もう、戻らなきゃ)

 鉛のように重い体を引きずって、女子トイレを後にする。私が誰なのか突き止めてやる、そう言い切った三樹さんが、廊下で待ち伏せしてるんじゃないかと思うだけで気が気でない。足取りも慎重になってしまう。
 けれど実際はそんな事はなく、トイレ周辺は元の静寂さを取り戻していた。

 定時を迎えるまで1時間。
 そろそろ部署内も落ち着いた頃であることを願って、人気のない廊下を歩んでいく。あの息苦しい場所にまた戻らなくてはならないと、そう考えるだけで気が重い。

 はあ、と深いため息をついた時。
 コツ、と前方から足音が聞こえてきて、顔を上げる。

(……あ)

 ──……速水くん。



 先程、出掛け先からオフィスに戻ってきた彼は、今はひとり、こちらに向かって廊下を歩いている。
 その手に握られているのは、どこかの鍵。この先にある資料保管室に向かう予定なのだろう。
 何か調べものでもあるのかな、そう思いながら、私は彼から視線を外す。

 同じ部署の人間とはいえ、普段から彼と話すことは殆どない。話しかけられることはあるけれど、それは当然、仕事に関する事のみだ。私自身、仕事以外で誰かに話しかけることはしない。彼に対してもそう。だから社内での接点は、無いに等しい。
 それでも彼は、唯一あの部署において私を腫れ物扱いしない、ある意味貴重な人間でもあった。

 速水くんの視線を感じて、慌てて会釈をする。
 俯き加減な私の挨拶にも、彼は文句ひとつ言わず、会釈で返してくれる。
 言葉は互いに交わさない。
 同じ部署で働く者同士なのに会話もなく、廊下ですれ違い様に会釈とか。まるで他人行儀だなと思いつつ、彼の真横を通りすぎる、

 ───その、直前。
 軽く、腕を引かれた。

「っえ、」

 体が彼の方にふらつき、よろめきそうになった足を踏み止める。驚いて彼を見上げれば、色素の薄い瞳が真っ直ぐ私を見下ろしていた。

 途端、甘い鼓動が跳ねる。
 部署の誰にも見せないような妖艶な笑みを浮かべて、彼の顔が近づいてきた。
 形の良い唇が、耳元を掠める。

「天使さん」

 社内で聞くそれよりも低い、テノールの声。
 とくとくと、胸が高鳴る。

「20時に、渋谷駅の西口で待ってて」
「………」
「すぐ迎えに行くから」

 それだけを言い残して、彼は私から離れた。
 こちらを振り向くこともなく、静かにこの場を立ち去っていく。
 私も彼を振り向くことなく、部署へと歩みを進めていく、けれど。

(……ビックリした)

 彼がこんな風に、社内で私に接触してきたのは───"この関係"になってからは初めての事だった。

 驚きつつも、表情や態度には出さない。
 周囲には人の姿がなく、彼と交わした些細なやり取りは誰も見ていないだろうけど、そんなことは関係ない。他者のように振る舞う、それが彼と交わした約束だから。



 そう、私達は何もなかった。
 すれ違い様に、挨拶を交わしただけ。

 そんな風に、取り繕わなければならない。無関係のように、振る舞わなければならない。



 それが、彼の恋人になる上での条件だから。

mae表紙tugi

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