結婚への不安


 部内婚に否定的な企業は多い。
 夫婦どちらかを異動させる事で「公私混同」を避けたい、そういう会社側の狙いは理解できる。
 雇用契約上は異動に制限はなく、結婚した場合は夫婦のどちらかが部署外に異動になる事は、榛原の方針として定められていた。

 芹澤専務に婚約の意思を伝えれば、私か速水くん、どちらかが部署異動を勧められる。
 速水くんは優秀な社員だし、芹澤さんとしては、彼を調査課に置きたいはずだ。だとしたら異動を迫られるのは、恐らく私。

 ……いや、十中八九、私だろう。

(……こんな形で離れる事になるなんて、思ってもいなかったな)

 異動を拒否するつもりはない。
 あの人達と離れられるのも、正直嬉しい。
 それでもこの3年間、調査課の一員として、私なりに頑張ってきたんだ。
 会社の外では沢山の人達と関わってきたし、既にお得意様になっている提携先もある。調査課の業務自体も自由度が高くてやりがいがあったし、その点で言えば、異動するのは寂しい気持ちもあった。
 とはいえ、人事権を有しているのは会社側で、私はただの雇われの身。異動人事を通告されれば、従わざるを得ない。

(……異動先、どっちになるんだろう)

 営業課か、開発課か。
 今まで調査課で培ってきた経験やスキルを活かすのであれば、営業に回される可能性もあるけれど。

(私に営業なんて務まるのかな)

 不安でしかない。

 結婚はゴールじゃない、ってよく聞く言葉。
 それと同じ。プロポーズを受けて、頷いて、友達に祝福されて、それで終わりじゃない。両親のことも含めて考えなきゃいけない事は山ほどあるし、準備だって必要だ。周りの協力なしではやっていけないし、ただ呑気に構えていればいい話じゃない。

(……でも、今はまだ)

 いずれ、彼とは色々話し合わなきゃいけない。
 でも今は、幸せの余韻に浸っていたい。
 まだ、何も考えたくはない。



 扉を閉めて、チェーンロックを掛ける。
 振り向けば、靴べらに手を伸ばしている速水くんの背中が見える。
 両手を伸ばしてぎゅうっと抱きつけば、彼の動きが一瞬止まった。

「……結婚、するんだね。私達」

 そんな未来、自分には縁遠いと思っていた。
 だからプロポーズを受けた時は驚いたし、本当に嬉しかった。
 でも時間が経つにつれて、様々な不安が押し寄せてくる。両親のこと、異動のこと、彼との関係が知られた時の、社員達の反応。
 私にはあまりにも、頼りにできる人が少なすぎる。

「……天使さん、心配?」
「ん……」

 彼の背に、縋りつくようにしがみつく。いつもなら、こんなに大胆なことはしない。
 ただ今は、無性に彼が恋しかった。
 体温を直に感じるだけで、不安が薄らいでいくのがわかる。

「大丈夫だよ。不安事は全部、俺に任せて」
「うん」
「でも、不満なことがあればちゃんと言って? 納得できるまで2人で話し合おう」
「……ありがとう」
「こちらこそ、結婚相手に俺を選んでくれてありがとね」

 そんなの、こっちの台詞なのに。
 速水くんが紡ぐ一言一言が、胸に響く。きゅっと締め付けられて、苦しくなる。
 でも、嫌な苦しさじゃない。
 好きすぎて胸が痛いなんて、初めてだった。

 両手をゆっくりと離す。彼に回していた腕を解いたお陰で出来た距離は、私の方を振り向いた速水くんの手に引き寄せられて、また近づいた。
 今度は正面から抱き締められて、彼の胸に顔を埋める。背中を撫でてくれる手つきが優しくて、泣きたくなるほど嬉しくて、幸せな気分に満ち足りていく。

「……好き。速水くんが好きなの」
「俺も天使さんが好きだよ」
「うん」
「俺といちご大福どっちが好き?」
「いちご大福」
「泣きそう」

 茶化されて、2人で小さく笑いあう。
 こんな風に他愛ない会話が、なんて事のない日常が、結婚した後もずっと続くんだって思ったら、それはとても幸せなことのように思えた。

 そっと腕を解かれて、彼の顔が間近に迫ってくる。
 静かに瞳を閉じれば、唇に熱が触れた。

「んっ……」

 啄ばむ様に触れて、酸素を求めるためだけに離れてはまた触れ合う。何度も繰り返されるキスに、頭の芯が蕩けていく。
 脚に力が入らなくなった頃、身を屈めた彼の手が、私の膝裏に触れる。
 そして身体ごと、ぐっと持ち上げられた。

「きゃっ!?」

 床に足がつかなくなって、慌てて速水くんにしがみつく。視線を落として、今の状況を理解した。

「え、え、まって」
「無理かな。待てなくなった」

 速水くんが靴を脱ぎ、部屋の奥へと私を運ぶ。
 まだパンプスも脱いでいないのに、速水くんは特に気にしてる様子もなく、迷いのない足取りへ歩を進めていく。
 どこに運ばれるのかなんて、容易く予想できた。

「今日って、夕飯のお誘いだよね?」
「うん。天使さんの為に、イタリアン料理を振る舞うよ。一緒に食べようね」
「でもこの流れって、一緒にご飯食べようって流れじゃないよね?」
「んー……」

 曖昧な返事で濁された。
 そうこうしている内に、目的地へと辿り着く。
 セミダブルのベッドが視界の端に映って、本気で身の危険を感じて慌てふためく。

「ねえ、ほんとにだめ、まって」
「こら、暴れないの。伝線するよ。スカートも皺になる」

 そんな一言でピタリと動きを止めてしまった私は、もう彼の手のひらで踊らされているようなものだ。速水くんにとっては、私の扱い方なんて造作もないことだろう。
 伊達に3年間、一緒にいたわけじゃない。

 静かにベッドへと下ろされて、そのまましゃがみこんだ速水くんは、私のパンプスを慎重に脱がし始める。
 その光景を、黙って眺めていた。

「何?」
「え?」
「視線感じたから」

 私を見上げる速水くんが、不思議そうな顔で問い掛けてくる。

「……ほんとにするの?」
「いや?」
「嫌じゃないけど……」

 終電までには帰らなきゃいけないのに、今ここで行為に及んだら、帰りの時間に間に合わない。
 そう主張すれば、彼の表情が僅かに曇る。

「……じゃあ、少しだけ触れさせて。最後まではしないから」
「………」
「……だめ?」

 ……そんな、捨てられた仔犬のような目で訴えられたら断るに断れない。
 それに、「嫌じゃない」と答えた時点で、拒む気持ちなんて無いに等しかった。

 玄関先での出来事が、確実に尾を引いている。
 身体を密着させたまま、何度も交わしたキスの感触は、唇にちゃんと残っている。
 慈しむように触れられて、今更拒めるはずがない。身体は既に、彼自身を欲していた。

 控えめに首を振れば、彼の表情が優しく緩む。
 また唇を塞がれて、ゆっくりと、シーツの上に押し倒された。
 キスの余韻に浸る暇もなく、首から鎖骨へ、彼の唇が滑っていく。

 髪を梳く手も頬を撫でる指先も、その全てが愛しくてたまらない。
 速水くんに、身体ごと愛される幸福感に浸りながら、彼がもたらす優しい愛撫を受け入れた。

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