静寂1 ───夢の底に落ちていた意識を取り戻した時、最初に瞳に映ったのは見慣れない天井だった。 (……あれ……?) 無垢の木の風合いが落ち着く、古風溢れる竿縁天井。自宅マンションとは違う屋根の造りを目にして、ここが旅行先だったことを思い出した。 開けていく視界に視線を巡らせる。 電気が落とされた薄暗い和室に、畳本来の香りがほんのりと漂っている。 淡く灯る和風照明のデザインが綺麗で、目を惹かれた。 「……起きた?」 側から聞き慣れた人の声。 目を向けた先には、最愛の人の姿。 「……速水くん」 隣合わせに並べられた布団の上で、彼は片膝を立てて座っていた。私が目覚めた気配に気づき、手にしていたスマホを枕元に置く。 そして、こちらに体を向けた。 「おはよ」 「? お、はよう。あれ?」 「ん?」 「わたし、寝てたの?」 「うん。すやすや寝てた。泣き疲れちゃったんだろうね」 「泣き疲れ……? あ、」 彼の一言で、一気に記憶が甦る。 同時に、猛烈な羞恥に襲われた。 名刺のことで彼を責め立ててしまったこと、口を滑らせて会社を辞めたいと告げてしまったこと、弱音を吐いてしまったこと、年甲斐もなく号泣してしまったこと。全部思い出した。 穴があったら入りたいとは正にこの事だ。途中から記憶が曖昧で思い出せないということは、泣き疲れて寝た、という彼の言葉も本当なのだろう。 これは、迷惑どころの話じゃない。 「ご、ごめんなさい」 「むしろ、こっちこそ色々ごめん。天使さんが謝ることじゃない」 そうは言っても、今日は彼と2人でお泊まり旅行に来たんだ。日頃の鬱憤を晴らしに来たわけじゃない。 彼氏に疑われたからって逆ギレして、更に大泣きした挙げ句、彼を放ったらかしにして寝るとか。どれだけ神経が図太いのか。普通に考えてもありえない。 「い……今、何時、ですか」 「ちょうど日付けを跨いだところかな。0時10分だよ」 「っ……、ますますごめんなさい」 布団を剥いで体を起こす。 頭を下げて彼に詫びれば、ぽん、と頭上に手が置かれた。 「怒ってないから。ね、顔上げて?」 「……申し訳なさすぎて泣きたいです」 「うん、とりあえず土下座やめよ?(笑) はい、ちゃんと顔あげて、目見せて?」 彼の呼び掛けで、姿勢を正す。 速水くんは少しだけ身を屈めて、私の顔を覗き込んできた。 瞳が合っても、視線がふよふよと横に逸れる。 あれだけ盛大にやらかした後では、さすがに気まずさが半端ない。 「あ、やっぱり目、真っ赤だね」 「………」 「冷やす?」 「……ううん、大丈夫」 「ん。じゃあ今度は口あけて?」 「……え、え? なんで?」 続け様に要求されて困惑する。 そんな私の様子を察してか、速水くんが何かを手に取り、差し出してきた。 手のひらに乗せられていた、一口サイズの小さな和菓子に目が止まる。 「天使さんが眠ってる間に、1階の売店でお菓子買ってきたんだ。『源泉まんじゅう』だって、1個80円。先に食べちゃったけど、美味しかったよ」 「……まんじゅう」 「これ、見た目は普通の黒糖まんじゅうに見えるんだけどね。実際に食べてみたら、」 「?」 「普通の黒糖まんじゅうだった」 「……ふふ」 思わず笑みが零れる。 声を立てて笑う私を見て、速水くんも表情を緩めた。 「やっと笑った」 「え?」 「……これ食べて、とりあえず薬飲もう。頭、痛いんじゃない?」 そう言いながら、速水くんの指先が私の額に触れる。こめかみ辺りがズキズキと響いて、鈍い痛みに顔をしかめた。 あれだけ頭に血が上って、胸の内で泣き喚いて。実際に号泣してしまったのだから、頭痛を起こすのも仕方ない。思えばこんなにも泣いたのも久々な気がする。頭も重くて、既に動くのも億劫なレベルだ。 それでも泣き叫んだ分、心はずっと軽くなった。 ふと、彼の足元に視線を落とす。 鎮痛剤らしき錠剤が2つ、そして数時間前、彼に手渡された水のペットボトルが枕の側に置かれていた。 私が目覚めた時にすぐ服用できるように、用意してくれていたらしい。 「……何から何まですみません」 「いえいえ。はい、どうぞ」 手のひらに、小さなまんじゅうが乗せられる。 桜の絵柄が描かれていて、見ているだけで心が和む。可愛い。 「食べるの、もったいないね」 「お土産用も売ってたよ。明日帰る前に買いに行こっか」 「うん」 明日、というよりもう今日かな。 そう心の中でボヤきながら、まんじゅうをぱく、と一口食べた。 あんこ独特の甘さが口内に広がって、それだけで幸せな気分になる。 「……落ち着いた?」 和菓子を口にして、鎮痛剤を服用した後。 躊躇いがちに訊いてきた速水くんに、私はもう一度、丁重に頭を下げた。 「本当に本当にごめんなさい。大人げないことして、恥ずかしい」 「大人だって辛かったら泣くし、我慢できなくなったら怒るよ。天使さんだけじゃない」 「でも、速水くんにたくさん迷惑かけてる」 「こんな迷惑なら、全然かけてくれていいよ。名刺のことは俺が悪いんだし。それに部署のことに関しても、天使さんは何も悪くない。だから謝ったりしなくていいよ。自分がしんどい時に、相手を思いやれないのは普通のことだから」 「……速水くん、優しすぎるよ」 「誤解しないでね。俺が優しくするのは天使さんだけだから」 「っ、」 心臓がとくん、と甘く跳ねた。 「誰に対しても平等に優しいわけじゃないし、みんなに見せる優しさと、天使さんに見せる優しさは、俺の中では全然別物だから。それに天使さんに優しくするのは、嫌われたくないって気持ちの裏返しでもあるし。どう言えば、天使さんがもっと俺のこと好きになってくれるかなって、いつも考えてる、今も。結構、計算で喋っていたりするんだよ」 「……え、あ……え?」 彼が放った言葉の羅列が、なかなか頭に入ってこない。衝撃的、というより刺激の強い内容で、ものすごく熱烈な告白を受けている気がして居たたまれない。 素で、言ってるのかな。この人。 「ね? 俺も打算的だよ」 「……そ、そういうのは打算っていうの、かな」 打算って、もっと悪い意味で使うものだと解釈していた私にとって、速水くんの言う「打算」はむしろ、私の気持ちを浮上させるのに十分な効力を見せた。 特別扱いされている。それを堂々と意識させられて嬉しいと感じるのは、当然の感情だと、思う。 「……あ、ありがとう」 素直な言葉がほろりと落ちる。 泣いて、叫んで、全てをさらけ出してしまった心の中に、醜い意思は存在しない。静かな波間にたゆたうように、感情がゆったりと流れていく。 しばらく沈黙が続いて、速水くんが口を開いた。 「……天使さん、どうする?」 「え?」 「会社、やめる?」 彼の言葉に、 「…………」 何も、答えられない自分がいる。 トップページ |