不信感


 速水くんから差し出されたそれを凝視する。その紙切れには見覚えがあった。
 無地の中に、ブルーのグラデーションカーブが目を惹くシンプルなデザイン仕様。榛原のロゴに会社概要が記載された、一般的なビジネス名刺。そして、

【第一営業担当者 佐倉いずみ】

 の文字。

 血の気がどんどん引いていく。
 背中に冷や汗が流れた気がした。

「な、んで……それ」
「床に落ちてたけど? 天使さんのバッグの近くで拾った」
「……あ」

 あの日以来、ずっと財布の中に隠し持っていたままだったことを今更思い出した。露天風呂に入る前、一度バッグから財布を取り出した際に内ポケットから滑り落ちてしまったのかもしれない。
 佐倉くんから貰った名刺は、レシートと一緒に誤って捨ててしまった、速水くんにはそう伝えたままで、本当のことはまだ話していなかった。結局名刺フォルダに保管し忘れた挙げ句、こんな形で嘘がバレてしまったのは、私の落ち度だ。

「間違って捨てたんじゃなかったの?」
「……や、それは」

 捨てたかと思ってたけど、私の勘違いでした。本当は持ってました。
 なんて言い訳をしたところで白々しいのはわかってる。嘘に嘘を重ねるほどの度胸もなくて、私は口を噤んでしまった。都合の悪いときだけダンマリを決め込むなんて卑怯だとわかっていても、どう伝えれば理解してもらえるのかわからなくて、言葉が何も出てこない。

 そもそも、私は彼に何を理解してほしいんだろう。
 佐倉くんの名刺を、故意に受け取ったわけじゃないってこと? 名刺は本人に返すつもりで、手元に置くつもりなんてなかったこと?
 でも、それらの言い分は全部、咄嗟についてしまった嘘の言い訳にはなり得ない。

 だって、私があの時嘘をついたのは。
 名刺が無くなったフリをしてその場をやり過ごしたのは、ただ単に速水くんが怖かったからだ。

 彼の顔色を窺ってしまった。
 機嫌を損ねてほしくなくて、口から出任せを言ってしまった。
 彼の望む答えを言えば、また元の優しい速水くんに戻ってくれると思ったから、嘘をついた。

「天使さん、何で言わないの?」
「……、え」

 何が、と顔を見上げれば、そこには冷淡な表情で私を見つめる速水くんがいる。温度を感じない眼差しに体が硬直した。

「『間違って捨てたと思ってた』って、言い訳すればいいのに。なんでしないの?」

 その、一言が。
 私があの日、咄嗟についた嘘を全部、見抜いていたように聞こえて背筋が凍りつく。

「ねえ、俺に嘘ついてた?」
「……っ、速水くん、待って」
「天使さんさ、あの時、必死に財布の中を探ってる風を装ってたよね。『レシートと一緒に捨てたんじゃない?』って俺が言ったら、天使さんも『そうかも』って頷いてたよね。せっかく言い逃れできる理由を俺が作ってあげたのに、嘘をつき続けて自滅したのは、天使さんだよ」
「……え?」

 ……なに、言って。

「気づいてたよ。名刺を探してるフリをしてたことぐらい」

 その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になって。
 そして、今まで蓄積されていた不満が胸に押し寄せて、反感を抱く。



 ……つまり、何。

 あの時、私の下手くそな茶番に哀れみでも感じて、わざとあんな事を言ったってこと?
 レシートと一緒に捨てたんだって詭弁を弄して、私がどんな嘘をつくのか試したってこと?
 嘘がばれた時の言い訳の建前を、私のために作ってあげた、って言いたいの?

 ……なにそれ。
 普通、彼女にそんなことする?

 嘘だって気づいていたなら、その場で言えばいい。こんな、わざとカマをかけて試すような真似をされていい気分はしない。
 嘘をつき続けた私にだって責任はある。
 でも、そもそも先に嘘をついたのは私じゃない。速水くんの方だ。「名刺を破棄してほしい」なんて佐倉くんは言っていないのに、速水くんは嘘をついた。私だけが悪い、わけじゃないはずだ。

 なのに、なんで私が責められるんだろう。
 まるで私だけが全部悪い、みたいな。
 私が何も知らないとでも思ってるのかな。
 そんなわけない。私にだって言い分はある。
 先に嘘をついたのは、私じゃない。速水くんだ。速水くんが、

「は……やみくん、だって、嘘ついてた」

 絞り出すように発した声は弱々しくて。
 それでも、静寂な和室で紡いだ私の言葉は、ちゃんと音になって速水くんの耳に届いてる。彼の瞳に僅かな動揺が走った瞬間を、私は見逃さなかった。

「……何の話?」
「佐倉くんに確認したの。名刺破棄のこと」

 今まで抱いていた迷いや恐怖は、この一言を吐いたことで全部消えた。
 一度口をついて出てしまえば、発言を取り消すことなんてできない。そうなれば自然と覚悟も決まって、次々と言葉が溢れてくる。自分でも驚くくらい淡々と不満がこぼれ落ちて、まるで憑き物でも落ちたかのような感覚だった。

「佐倉くん、名刺を捨ててなんて言ってない」
「………」
「変だと思ったの。会社の人間が同じ職場の人に、名刺破棄の申し出なんかしないって。だって、名刺1枚にだって経費が掛かるもの。佐倉くんは営業社員だし、名刺1枚だって失うのは惜しいはず。返却ならともかく、破棄してほしいのは変だって思った」

 ……本当は経費云々より、佐倉くんの人柄を知ってしまったから違和感を覚えた、が正しいけれど。
 それは火に油を注ぐような結果にしかならない気がして言えなかった。

「だから本人に直接確認したの。佐倉くんは、名刺を捨ててほしいなんて一言も言ってなかった。速水くん、どうしてそんな嘘ついたの?」
「………」

 速水くんは何も言わない。
 嘘や言い訳を途中で挟むこともなく、表情を変えることもなく、私の主張をただ静かに聞いている。

「それに先日の飲み会だって。速水くん、18時過ぎに店を出たんでしょ? でも、私との待ち合わせ場所には20時半に来た。その間、どこに行ってたの?」
「………」
「別に、その間どこで何してようが速水くんの自由だよ。でも以前、私が店を出た時間を確認した時、『20時頃に店を出た』って、速水くん、自分でそう言ったの覚えてる? 本当は18時過ぎに店を出ているはずなのに、わざわさ嘘をついてまで本当の時間を言わなかったのは、言えない事情があったからなの?」

 畳み掛けるように、一気に問い詰める。溜め込んでいた疑念を全て吐き出せば、すっと心が軽くなった。緊張の糸が切れたと同時に、私は相当頭に血が上っていたのだと自覚する。
 さすがに子供じみたと羞恥に見舞われたけど、それでも、今直面している問題から目を逸らしちゃいけないと悟った。

 本当はわかってるんだ。誰が先に嘘をついたかどうかなんて、そんなことは全く問題じゃない。どうして速水くんが嘘をつく必要があったのか、理由があるなら聞きたかった。
 速水くんを、初めて好きになった人を信じたい。私に、後ろめたいことがあったから嘘をついたわけじゃないって、信じさせて。

 重い沈黙が落ちる。
 先に口を開いたのは、彼だった。


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