幸せの一時 「この先かな?」 「うん。この道を真っ直ぐ向かって───あっ、速水くん、あそこじゃない?」 約束していた一泊旅行。今晩泊まる予定の宿が遠目に見えて、車内から指をさして速水くんを見上げた。 彼が運転する隣で、私はスマホナビを見ながら彼のサポートをしている。カーナビの情報が古かったみたいで、今はスマホの情報だけが頼りだ。 「ごめんね、面倒かけちゃって」 「私の方こそ、運転とか全部任せっぱなしにしてごめんね。お風呂の後、マッサージします」 「ほんとに? じゃあお願いしようかな」 「はい」 目が合って、互いにふふ、と笑い合う。 こんなに心穏やかなまま1日を過ごすのは、なんだか久しぶりな気がする。 会社の人もいない、心を揺さぶられる存在もいない。彼と2人きりで過ごす時間は、とても居心地がよかった。 「日が暮れる前に着いてよかったね」 速水くんの一言に、私も頷く。 ディズニーランドで結構な時間を費やしてしまったけれど、チェックインの時間までには辿り着きそうで安堵する。 「ありさのお土産に時間かかっちゃった」 「あれはね、谷口さんが悪い」 速水くんがそう断言するのは理由がある。 それは、ありさへ贈る土産品のリクエストを本人に訊いた数日前に遡る。 その時は「考えとく」と返事を保留にされたけど、その翌日、【欲しいものリスト】と称したメモをありさから手渡されたんだ。 そこに記載されていた品数は15個以上。 ずらりと書き綴られたリクエスト品に、速水くんの眉が寄る。 「……こんなに要る?」 「いるし」 「キャラクターのお面とか、いつ使うの? いらなくない?」 「いるし」 そんなやりとりを数回繰り返した後、結局私達が根負けした。 そのお陰で私達は園内を歩き回り、色々買い漁るはめになった挙げ句、宿への到着が遅れてしまったという訳だ。 ……ちなみにアトラクションは乗らなかった。 高所恐怖症な速水くんのことを考えたら、どうしても一緒に乗るのは躊躇われた。 それでも彼との買い物デートは、私的に充分楽しめたから良しとする。 「……後部座席、凄いことになってるね」 ちらりと視線を後方に向ける。そこには山のように積まれた、ありさ宛ての土産品。つい苦笑いを浮かべれば、隣で速水くんも笑っていた。 普段と変わらない柔和な笑みに安心する。 最近は色々と気に病むことが多かったけど、この1週間は何事もなく、平穏な日々を過ごせた。 「………」 佐倉くんとは、今週は会わなかった。 (……忘れよう) せっかく、好きな人と泊まりで旅行に来てるんだ。 気掛かりなことはあれど、今だけは忘れていたい。楽しいままで旅行を過ごしたい。他の男の人の事まで考えたくはない。 速水くんからの愛情はちゃんと伝わっているんだから、何も不安がることなんてないんだ。 そうだよね? そう自分に問いかけてみる。 それでも、答えははっきりと見えてこない。 ・・・ 速水くんが予約してくれたのは、都会の喧騒から離れた、里山にひっそり佇む田舎宿だった。 自然に囲まれた静かな温泉宿は、和の情緒漂う建物の造りで高級感に溢れている。口コミの数も多く、特に食事部門では毎年高評価を得ている美食宿として有名な温泉処だ。 宿の名前と場所はあらかじめ知っていた。 速水くんが事前に教えてくれたから。 ただ、客室内露天風呂だとは聞いていなかった。 「……え、うそ」 だから、部屋に通された時は目を見張った。 桜色を基調とした和室は8畳ほどの広さがあり、寝室には既に布団が2つ、隣り合わせに敷かれている。趣のある窓から見える露天風呂は、立派な巨石で造られたものだ。 この部屋は確か、この宿で一番人気の部屋だったはず。 「速水くん、この部屋って……」 「ん? 言ってなかったっけ?」 「え、聞いてない……」 「別の部屋の方がよかったかな?」 「そうじゃないけど……宿泊料金高かったんじゃ……」 思わず彼の顔を凝視する。こんな時にお金を話をするなんて、空気の読めない発言だってわかってる。 でも今日は週末で、他の部屋はほぼ満室のはず。しかも巨石露天風呂付きの部屋なんて、人気故にすぐ埋まってしまうのに。この争奪戦を、彼はどう勝ち取ったんだろうと疑問が浮かぶ。 部屋を予約するのも大変だったはずだけど、料金だって、きっと馬鹿にならない額のはずだ。 「ごめん、私も半分出すよ」 『自分が支払う』と言ってくれた彼の好意に甘えようと思っていたけれど、そういうわけにもいかなくなった。慌ててバッグから財布を取り出せば、速水くんの手が私の手を押し止める。 「いいよ。もうカードで支払い済みだから」 「や、でも、申し訳ないし」 「そんなの気にしなくていいよ」 「ダメだよそんなの、お金……っ、」 「天使さん」 私の言い分を遮って、速水くんは苦笑交じりにため息をつく。そして私の耳元へと唇を寄せた。 不意に縮まった距離に体が強張る。急に熱を帯びた頬に、彼のしなやかな指が触れた。つぅ……と焦らすように撫でられて、甘い感覚が胸に広がっていく。 「こういう時は、恋人に格好つけさせてよ」 「こっ……、」 恋人。 その単語に驚いて、思考はもれなく停止。赤く染まった顔は、これ以上ないくらいに間抜け面になっているに違いない。 そんな私の今更な反応を、速水くんは楽しそうに眺めている。私を見下ろす優しい瞳も1オクターブ低い声も、私に触れるしなやかな指も。どこか甘い微熱を纏い、色気を放つ。 ……これだから、いつまで経っても慣れないんだ。 彼との交際も3年が経った。 なのに、恋人という呼び方に慣れていないというのもおかしな話。 そういう関係だと直接言葉にされると、耐えがたい気恥ずかしさが胸に湧いてきて居たたまれなくなる。 「……っ、荷物置いてくる」 小さなボストンバッグと財布を手に、部屋の隅っこへ咄嗟に逃げた。あのまま見つめられていたら、恥ずかしさで頭がショートしてたかもしれない。 あからさまな避け方をしてしまって、罪悪感が湧いたのは一瞬のこと。笑いを押し殺してるような声が背後から聞こえてきて、からかわれたと気付いた私は頬を膨らませた。 「……きらい」 「ごめん。可愛くて、つい」 「かわいくない」 「ね、機嫌直して?」 後ろを振り向いたら、いつの間にか至近距離に速水くんがいた。彼の人差し指が、私の頬をふに、と押す。 「夕飯まで時間あるし、先にお風呂入ろうか」 「え…………、あ、うん」 その一言に、また体が強張る。 視界の端に室内露天風呂が映って、つい動揺してしまったせいで返事が変に遅れてしまった。 そのせいで出来てしまった微妙な間に、彼が気づかないはずがない。困ったように微笑んで、別の提案を下した。 「……大浴場にする? 別々に入って、ゆっくり湯に浸かるのもいいよね」 そう気遣ってくれた彼に胸が痛む。申し訳ない気持ちが湧いて、心苦しくなった。 彼と泊まりでの旅行はこれが初めてじゃないし、週末に会う時は大抵ホテルに泊まるから、彼と一緒にお風呂に入ること自体は初めてじゃない。今更純情ぶるなんて変だ。 それに、わざわざ客室の露天風呂を予約してくれたということは、少なくとも彼は、私と一緒に露天風呂に入りたいと思っての事だ。 その彼の思いを、「恥ずかしい」の理由だけで無下にしちゃいけない。 「……露天風呂、が、いい」 だから、そう答えた。 「わかった。一緒に入る?」 「うん」 「えっ」 素直に頷いたら、彼が驚きの声を上げた。 予想していなかった私の返事に、彼はぱちぱちと瞬きを繰り返す。 彼が驚くのも無理はない。私はいつも、「一緒は恥ずかしいから嫌」って最初は抵抗しちゃうから。ただの照れ隠し故に可愛くない返事をしてしまうのだけれど、今日もそんな反応だろうと彼は思っていたのだろう。速水くんは珍しく、狼狽えた表情を見せた。 「……天使さんが珍しくデレてる」 「……いやならいいです」 「まさか。むしろすごく嬉しいよ。天使さん、いっつも俺と一緒に入りたがらないから」 「それは……」 途中で言葉が詰まってしまう。本当は、一緒にお風呂に入るのが嫌な訳じゃない。 ただ、本当に恥ずかしいだけなんだ。肌を見られることよりも、服を脱ぐところから始まって身体を洗うところまで、全て見られてしまうことに、堪らない羞恥心があるから。 「……一緒に入る?」 再度繰り返される申し出に控えめに頷く。迷いのない私からの応えに、速水くんは心底嬉しそうに微笑んだ。 ゆっくりと引き寄せられる。腕を払えばすぐ離れられそうなくらいの緩い力加減だったけど、私は抵抗しなかった。こと……と彼の胸に頭を預けて、身を委ねる。 「……今日は本当に素直だね。可愛い」 「………」 「ねえ、一緒に入るのはいいけど。俺、なにかしちゃうかもしれないよ」 「……え」 思いがけない一言に、ぱちりと瞬きをひとつ。 今、なんて。 「もう2週間も天使さんに触れてない」 「……え……2週間だけで大袈裟、」 「じゃない。全っ然、大袈裟じゃない。10日以上も触れてないって、俺の中では由々しき事態」 「……1週間前だって、車の中で」 「あの程度じゃ触れたうちに入らない」 「………」 「引かないで。悲しくなる」 拗ねたような口調に笑みが零れる。彼の子供っぽい一面が私の心を満たしていく。 こんな彼の姿を、私以外は誰も知らないのだと思うだけで優越感に浸ってしまう。つい意地悪なことを言ってしまいたくなるのは、悪い癖かな。 「せっかくの露天風呂なんだから、変なことしちゃダメだと思います」 「つまり俺に生殺しに耐えろと?」 「私、先に準備して入ってるね」 「あれ、スルーされた……」 ぱっと彼から離れて、握ったままだった財布をボストンバッグに仕舞いこむ。メイクポーチを取り出して、露天風呂のある扉へと向かった。 ───ひらり。 ふと、財布から舞う1枚の紙切れ。 音もなく床に落ちたその存在に、この時は私も、速水くんすら気づいていなかった。 トップページ |