遭遇


 マンションの敷地内に、速水くんの車が停まる。私のバッグを手渡してくれた彼が、控えめに微笑んだ。

「大丈夫? ごめんね、引き留めちゃって」
「ううん……嬉しかった」

 帰りたくない、一緒にいたいと思ってくれたことも、触れてくれたことも嬉しい。速水くんはいつだって、私に幸せな感情をくれる。でも。

(……本当に何なんだろう)

 無意識に、こめかみに手が触れる。どうして速水くんに抱かれようとすると、いつも耳鳴りがするんだろう。最初の頃はあまり気にしていなかったけれど、こうも長期に渡るとさすがに不安になってくる。

(変な病気なのかな)

 とはいえ、症状は耳鳴りだけ。しかも数秒で消えてしまうもの。この程度で病院に行くのも躊躇いがあるし、大体、医師にどう伝えればいいのかわからない。彼氏との性行為中に耳鳴りがする、なんてさすがに言える訳がない。

「部屋の前まで送らせてね」
「え、ありがとう」
「いいえ。その前にコンビニ寄ってもいい?」
「うん。私もコンビニ寄りたい」
「先に行ってて。駐車場に車停めてくるから」
「うん」

 シートベルトを外して、助手席から降りる。うーんと背伸びすれば、冷たい夜風が肌を撫でた。

 私が住んでいるマンションの1階には、地元のコンビニが併設されている。深夜の1時まで営業してるし、必要なものをすぐ買いに行ける便利さが有り難い。仕事上がりはコンビニ弁当で済ませることも多かった。

 寒さから逃れるように店内に入り、一息つく。
 ホット缶のコーヒーをひとつ手に取り、冷えた指先を暖めながら他の商品も眺めていく。
 でも、心はここにあらずな状態。

(……寂しいな)

 虚無感で胸が締め付けられる。3人で過ごした時間が楽しかった分、一人になってしまう寂しさはより一層強かった。速水くんに触れられて幾分か寂しさを紛らわすことができたけど、一緒に居たかったという思いが消えることはなくて。

 今日は早く寝てしまおう。
 そうすれば、寂しい気持ちも忘れられるから。

 そう思いながら雑誌コーナーに足を向ける。
ファッション誌を手に取りながら、速水くんの到着を待っていた時。

「───あれ、天使さん?」
「……っえ、」

 背後から掛かる声に、ギクッと肩が跳ねた。

 つい顔が強張ってしまう。
 それは私がよく知っている人の声。
 聞き覚えのある男の低音に、瞬時に胸に湧く後悔。

 ───やっぱり、寄るんじゃなかった。

「うわ、すごい偶然だね。びっくりした!」
「佐、倉……くん」

 ……なんで。
 なんでこの人がここにいるの。

 もうすぐ速水くんがここに来るのに。

「……どうして」
「あ、井原もいるよ。これから2人で、近くのラーメン屋に行くとこ!」
「……っ、そう、ですか」

 平然を装おうとしても、顔がひきつってしまう。彼の返答に私はますます焦った。
 佐倉くんだけならともかく、私達と同じ部署の人まで一緒にいるなんて。どうしよう。こんなこと、今までなかったから想定外だった。

 夜も更けた深夜のコンビニに、私と速水くんが一緒にいた。それが部署のみんなに知れたら、どんな騒ぎになるかなんて目に見えている。
 周囲からはますます好奇の目に晒されて、女性社員からは目の敵にされて。私への風当たりはもっと強くなるに違いない。あることないこと噂にされて、更に窮屈な思いをするかもしれない。それが嫌だったから、怖かったから、彼との関係をずっと秘密にしてきたのに。
 速水くんだって、こんな嫌われ者の私なんかと噂をされるなんて迷惑に決まってる。自らの評価を下げてしまうようなものだから。

 彼を困らせてしまう。
 嫌われてしまう。
 あの人にまで見放されたら、私は本当に独りぼっちになってしまう。
 最悪のシナリオが、頭の中で駆け巡る。

「天使さん、どうしてここに?」

 佐倉くんが当然のように訊いてくる。
 なんて答えよう。早く返事しなきゃ怪しまれる。
 でも気が焦れば焦るだけ、言葉が詰まってしまう。

「あれ、もしかして天使さん、ここのマンションに住んでるの?」

 結局私が答える前に、佐倉くんが先に口を開く。

「えっ、それは、」
「え、天使さん?」

 どう返事をするべきか迷う私の背後から、更に新たな声が掛かる。

「井原、くん」
「わ、びっくりした……こんばんは」
「こ、こんばんは……」

 どうしよう。どうしよう。
 悠長に挨拶してる場合じゃない。
 速水くんが来ちゃう。
 早く帰ってほしいのに、2人がこの場から立ち去る気配はない。

「天使さんもコーヒー買うの? あ、それ俺も同じやつ買った(笑)。美味しいよね」
「う、うん……」
「……ん、あれ?」

 私に話しかけていた井原くんが、不自然に言葉を切った。すん、と鼻を鳴らして眉を寄せている。その様子に、今度は佐倉くんが訝しげな表情を浮かべた。

「どうした井原」
「……や、なんでもない。天使さん、今帰り?」
「う、うん」
「そうなんだ。帰り、気を付けてね」
「あ、ありがとう。じゃあ……」

 助かった。井原くんの一言で、離れるタイミングを掴めた。
 急いでレジに向かおうとしたその直後。

「あ、天使さん! 一緒にラーメン食いに行かない?」

 佐倉くんが余計な一言を放った。

「っえ、」

 つい足を止めてしまった私に、「おい」と井原くんの突っ込みが遮る。

「こんな時間に女の人を誘うのはマズイだろ」
「あ、そか……や、でもせっかく仲良くできるチャンスなのに。だめ?」
「え、えと、」
「佐倉、無理強いはダメだって。ごめん天使さん、迷惑だよね」
「いえ、そんな」
「あ、でも。もし天使さんが大丈夫なら、俺は全然いいよ。ここからラーメン屋まで結構近いし。野郎2人が付き添いで、むさ苦しいかもしれないけど」
「……っ、や、でも」

 せっかく井原くんが気を利かせて帰らせようとしてくれたのに、こんな流れになるなんて。
 どうしよう、交わし切れない。

「ほら、井原もこう言ってるし。どう?」
「い、いえ、私は、」









「───何してるの、天使さん」



 温度を感じない、冷淡な声。
 真後ろから感じた気配に、呼吸を殺された。


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