優しい嘘と悪い嘘


「……ぁ……っ、」

 声が掠れる。背中からどっと冷や汗が滲み出た。通路をすれ違う人の視線を感じて、咄嗟に鍵を拾って部屋へと入る。勢いよく扉を閉めて、チェーンロックをかけた。
 心臓がばくばくと波打って、呼吸が浅くなる。頭の中はずっと、彼の文字が駆け巡っていた。


『嘘ついたよね』


 バレてた。
 名刺、隠し持ってるの、バレてた。

 どうしよう。怒ってるのかな。なんて返信したらいいんだろう。既読無視するわけにはいかないから、すぐに返信しないと余計不審がられる。気ばかりが焦って、返す言葉が浮かばない。
 速水くんも、嘘だって気づいてたならその場で言ってくれたらいいのに。こんなの怖すぎて、


 ───ピロン。


(……え!?)

 通知の音に驚いて、心臓が縮み上がる。手元に視線を落とせば、ちかちかと点滅する緑色の光。恐る恐るタップすれば、速水くんからのメッセージを再び受信していた。





『俺に合わせなくていいのに』

『本当は好きなんでしょ? 遊園地』



(あ……なんだ、そっちか)

 一気に脱力感が襲い、足元から崩れ落ちる。名刺のことだと思っていたら、とんだ勘違いだった。
 荒ぶった鼓動を落ち着かせようと、長く長く息を吐く。そして画面に指を滑らせ、ふと、動きを止めた。

(どうして知ってるんだろう)

 遊園地が好きだなんて、言った記憶はないのに。


『バレてたんだね』
『どうして知ってるの?』

 その場でそう送ってみる。すぐに既読の文字がついたけど、返信はこない。速水くんは今運転中だ、すぐに返すのは難しい。返信を待っている間に靴を脱いで、リビングへと向かった。



・・・



 翌日の部署は騒がしかった。恒例となっている飲み会が、今日も開催されるからだ。

 先週の飲み会は、芹澤さんに急用が出来てしまったらしく、ほぼ飲めず仕舞いで帰宅したらしい。今日は、その埋め合わせだそうだ。
 まあ、私には全く関係のない話だけど。



「あの、山崎さん」

 昼休憩を終えた13時。総務課に提出予定の書類を手に、離れた席に座っている彼女に声をかけた。

 黒縁眼鏡にショートボブ姿の山崎さんは、一瞬だけ眼鏡の奥から私を見上げてきたけれど返事はなく、すぐにパソコンの画面へと視線を戻してしまった。キーボードを打ち込む手を止めてくれる気配もなくて、そのつっけんどんな態度に不快感が募る。

(返事もできないの、この人)

 ……まあ、わざとだろうけど。

「お仕事中にすみません。総務課に提出する契約書に押印漏れがありましたのでお願いできますか?」
「………」

 そう告げてみるものの、彼女からの返事はない。聞こえていない筈がないから、安定のシカトだろう。
 とはいえ、今は無視されても困る。
 総務課に提出する契約書には、【本契約締結の証として本書2通を作成し、両者署名又は記名捺印の上、各自1通を保有する】という文言があり、この文言の後に署名捺印することになっている。ただ彼女は押印を忘れていたようで、総務課に提出することができないままだ。

「あの、山崎さん?」
「それ、今やらなきゃいけないことですか?」
「……え」

 棘のある言い方に言葉を詰まらせる。契約書の提示は15時までと定められているのは、この人も知っているはずだ。
 提出時間までまだ余裕があるとはいえ、早いに越したことはない。向こうだって自分達の仕事があるし、時間ギリギリに提出するのは失礼だ。総務課の人達の都合とか信頼関係とか、この人は一切考えないのだろうか。

 眉を寄せる私の前で、彼女は盛大にため息をつく。勢いよく机の取っ手を引き、引き出しの中から印鑑と朱肉を取り出した。
 ガンっ! と叩き付けるように置いて、山崎さんはそっぽを向く。周囲から刺さる好奇な視線に混じり、小さな含み笑いが聞こえてきた。

(……ただ置いてくれただけじゃ、意味ないんだけど)

 欲しいのは印鑑ではなく、押印なのに。
 これはつまり、「自分でやれ」という意思表示なのだろう。随分と不躾な人間へと成り下がったものだ。

(……めんどくさい人だな)

 彼女が置いた印鑑と朱肉を手に取って、空席だった隣の席へ移動する。ぽんぽんと必要箇所に押印をして、机の角に置き戻した。

「……失礼します」

 それだけ言って離れた。謝罪も謝礼も言わなかった。言わなきゃいけないようなことはしてないし、そこまで優しい人間にもなれない。彼女も何も言わなかった。

 総務課に提出できる状態にはなったのだから、とりあえずこれで良しとする。必要書類をクリアファイルに入れて、オフィスを後にした。

(……会社の組織って面倒だな)

 人間関係、上下関係、仲間意識。
 まざまざと見せつけられる、人の醜いところと集団での悪質さ。

 学生の頃から名前でからかわれることが多かったけれど、友達やクラスから無視されるとか、そんなことは一度もなかった。まさか社会人になってから、こんな低レベルな仕打ちに合うなんて思ってもみなかった。社会人が病む一番の理由が『人間関係』だと聞いたことがあるけれど本当かもしれないな、と思う。
 それでも食べていくには働かなきゃいけなくて、その心理的負担が更に自身を追い込む結果になる。速水くんとありさがいなかったら、私もとっくに病んでいた。2人の存在が本当に、心の支えになっている。

 もし、私と速水くんが付き合っていることを部署のみんなが知ったら、どんな騒ぎになるんだろう。悔しがるんだろうか、泣き喚くんだろうか。そんな姿を、ちょっと見てみたい気はする。想像するだけで、その光景は愉快そうに見えた。
 ほら、やっぱり私は性格が悪い。



 エレベーターの前に立ち、目的地へのボタンを押す。総務課は2階だけど、エレベーターはどんどん上昇していく。しばらく待つはめになりそうだな、と思い直してスマホを取り出した。
 周囲に人がいないことを確認して、ラインのアイコンをタップする。表示されるのは、速水くんとのトーク画面。最新のメッセージは「おはよう」で終わっている。

 昨日の出来事が脳裏に浮かぶ。結局、私の嘘が見抜かれていた原因は私にあった。私が以前、「遊園地が好き」だとありさに発言していたことを、ありさ本人から聞いたことがあると、速水くんが言っていた。

 私は正直、覚えていない。
 ありさと、遊園地の話で盛り上がった記憶なんてない。ただ単に、私が忘れているだけかもしれない。
 一番バレたくなかった嘘はバレていなかった、という点だけでもわかって安心したけれど、同時に、彼に嘘をついているという罪悪感で胸が痛む。名刺の件は早めに何とかしよう、そう心に決めて、到着したエレベーターに乗り込んだ。

 中に人は誰もいない。
 ゆっくりと、扉が閉まっていく。



「……あああッ! ちょ、まってまって!」

 そんな叫び声と共に、エレベーターに駆け込もうとする足音が聞こえてきた。

 慌てて「開」のボタンに触れれば、扉は左右に間を広げていく。割り込むように駆け込んできた人の姿に、目を見張った。

 肩で息をしている男性社員の顔には見覚えがある。さらりと流れるアッシュブラウンの髪に、目元にかかる前髪から覗く、大きな瞳。

 ───佐倉、いずみくん。

「あっぶね、セーフ! やーすみません開けてもら……あ、」

 息を切らしながら顔を上げた彼の瞳が、私を捉えた。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、ぱっと笑顔に変わる。

「あまつかさん! お疲れさま!」
「え、あ、お疲れさまです……」

 元気すぎる声に圧されて、少しだけたじろいでしまった。たどたどしい挨拶は、これで2回目。
 さすがに態度悪かったかな、そう反省したのは一瞬のことで、すぐに彼のマシンガントークが炸裂した。

「お話しするの2回目だね! この間は本当にごめんね、俺ちゃんと前見てなかったから。ほんとに怪我とかしなかった? スマホ大丈夫? 壊れてない?」
「あ、大丈夫です」
「あああマジで! よかった! もうずっと気になってて!」
「い、いえ……あの、」

 話しかけようとしたその時、エレベーターが停止した。2階に到着するのはあっという間で、ゆっくり扉が開いていく。名刺のことを尋ねたかったけれど、仕方なく口を閉ざした。

 佐倉くんとも、ここでお別れかな。
 そう思っていたら、佐倉くんも一緒に降りてきたから少し焦った。この人も総務課に用事があるんだろうか。

「あの、昨日はごめんなさい。部署まで来てくれたのに、私不在で」
「あ! 速水クンから聞いた?」
「はい」

 成り行きで、彼と隣同士に並んで歩く。名刺の件を言われるかと思いきや、彼は全く違う話題を口にした。

「調査課に、井原敦って奴いるっしょ?」
「え? あ、はい。います」
「俺と井原、中学からの同級なんだ」
「わ、そうなんですか」
「そう」

 脳裏にひとりの社員の姿が浮かぶ。同じ調査課に所属している、同期の井原敦くん。彼も速水くんと同じ、私を腫れ物扱いしないで関わってくれる一人だった。
 仕事の話も普通にするし、日によっては雑談も交わす。彼から悪意のある視線を向けられたことは、思えば今まで1度もない。微妙に距離を置かれている感覚はあるけれど、少なくとも、山崎さんのような態度を取るような人じゃないのは知ってる。

「井原くん、すごくいい人です」
「でしょ! あいつマジでいい奴なの。仲良くしてやって!」
「はい」
「あと、できれば俺とも!」
「あ、はい。……え?」
「え?」

 戸惑う私に、佐倉くんはこてりと首を傾げた。

「だめ?」
「……いえ、そんな。こちらこそ」
「こちらこそー!」

 屈託のない笑顔を披露されて、内心焦る。ぽんぽんと進む会話の中で、私は彼に友達認定されてしまったようだ。
 順応性が高い人は、馴れ馴れしくて正直苦手。彼もいい人なんだろうけど、このテンションについていけなくて困る。
 でも、それはあくまでも私の場合であって、彼はきっと、速水くんとは違ったタイプの愛されキャラなんだろう。

 改めて、彼の顔を真っ直ぐ見上げてみる。利発で賢そうな瞳は、ぱっちりとした二重瞼。甘さと爽やかさをブレンドしたような、瑞々しい香りが鼻腔を掠める。幼さを残す顔立ちは、失礼な言い方かもしれないけれど、女受けする方だと思う。性格は言わずもがな、人懐っこいワンコ系だ。

「……佐倉くんって、アイドルグループにいそうですね」
「えっ? チャラいってこと!?」
「……あ、いえ、華やかというか」
「華やか……」

 微妙な顔つきになってしまった。
 もしかして、気に障ったのだろうか。
 確かに、嫌味っぽい言い方だったかもしれない。
 謝った方がいいのかな、と迷う私をよそに、佐倉くんは何故か急に立ち止まった。周囲をキョロキョロと見渡し、声を荒げる。

「っていうかあれ? ここ2階?」
「気づかなかったんですか?」
「気づかなかった! 1階だと思ってた!」
「2階ですよ」
「だね、びっくり。じゃあ、また話そうね!」

 然程驚いてもいない様子で、佐倉くんは元来た道を走り去っていく。その背中を黙って見送った。

(……わざと間違えてくれたんだ)

 気づかなかった、なんて嘘だ。
 彼は、ここが2階だと気付いていた。
 エレベーターが2階に着いた時、私が中途半端に会話を止めちゃったから、わざと一緒に降りてくれたんだ。
 胸の中に罪悪感が生まれる。佐倉くんは、ただ賑やかな人じゃなかった。その場の空気を読んで、すぐに対応できる人。相手が嫌な気分にならないように、人の為に嘘がつける。優しくて、誠実な人だ。
 馴れ馴れしい、なんて一瞬でも思ってしまったことを反省した。


『名刺、捨ててほしいって言ってた』


(……本当に、そんなこと言ってたのかな)

 今までの会話の中で、名刺の話題は一切出てこなかった。
 やっぱり、佐倉くんがそんなことを言うとは思えない。
 速水くんを疑わないと決めたのに、どうしても不信感が消えない。

「……あのっ!」

 エレベーター前まで急いで戻れば、佐倉くんはまだ、その場に立ち往生していた。私の呼び声に反応して、すぐに振り返る。真っ直ぐな瞳と視線がぶつかった。

「うん? なになに?」

 明るく振る舞ってくれる彼に、私は恐る恐る、口を開く。

「……あの、先日頂いた名刺なんですが」
「名刺?」
「その、廃棄ではなく、返却という形でもよろしいですか? 捨てるのはちょっと抵抗があって」
「え? ハイキ?」

 不思議そうな顔で目を瞬かせている佐倉くんの姿に、ますます不安は膨れ上がっていく。

「それと、お相手の名刺を廃棄する場合は廃棄証明書を発行しなければなりません。できれば返却という形にし、」
「捨てちゃうの!?」

 私が言い終える前に、彼の声で遮断された。
 驚きに満ちた表情が、徐々に曇っていく。

「ええ、なんで? 捨てなくてもいいよ、むしろ持ってて? ほら、もしかしたら今後、仕事で関わることがあるかもしれないし! や、なんだったら連絡とかしてもいいよ!?」
「……え、あの、いいんですか?」
「てか、なんで廃棄?」
「それは……っ、」


 ───速水くんが、そう言ったから。


 なんて、言ってはいけない気がした。


 喉まで出かかった返事を、無理やり飲み込んで口を閉ざす。でも私が言おうとしていた言葉は、彼に伝わってしまったみたいだ。眉を寄せて、何かを考え込んでいる彼の様子に焦りが生じる。
 けれど弁解しようとした直前、その表情が人懐っこい笑顔に変わった。

「じゃあ、またね!」

 結局佐倉くんは何も言わず、エレベーターに乗り込んでしまった。そのまま扉が閉まり、1階へと消えていく。
 私はと言えば、ただ呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。

(……どうしよう)

 疑わない、そう決めたはずなのに。
 速水くんがついた嘘を、見抜いてしまった。

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