嘘2 「……え?」 予想だにしていなかった言葉に、目を見張る。 「佐倉くんから、名刺もらってない?」 「あ……確かに渡された、けど」 「今も持ってる?」 「え、うん……勿論」 戸惑いつつも、こくりと頷く。 取引先や顧客から頂いた名刺は、必ず名刺フォルダに入れて保管してる。年々増えていく名刺は整理しないと溜まっていく一方で、絶対に不要だと判断したものは、シュレッダーにかけて廃棄する。そしてそれは、廃棄の申し出を相手から受けた場合と、年末の書類整理時のみと、処分する時期を決めていた。 頂いた名刺を、必要がないと安易に判断して捨てるようなことはしない。そんな無礼なことはしない。 "相手からの申し出があった場合"、以外は。 「速水くん、その人、本当にそう言ってた?」 「うん。必要がないなら捨てておいて、って言われたよ」 (……必要がない?) 頭が混乱してる。 脳内は疑問符でいっぱいだった。 速水くんが伝えてくれた「伝言」に、違和感を覚えずにいられなかったから。 「あの……必要がない、っていうのは」 「佐倉くん、天使さんのスマホが壊れていないか心配してたよ。スマホ壊れたの?」 「ううん、壊れてなかったよ」 「だからじゃない? スマホが壊れていないなら、佐倉くんに連絡する必要はないし」 「………」 それは、確かにその通りだ。実際にスマホは壊れていなかったし、それ以前に、壊れようが壊れていなかろうが彼に連絡するつもりはなかった。 落としたのは私の過失でもあるから、彼を責める気もないし、弁償してもらう気もなかった。 基本、同じ会社の人間と名刺を交換をすることはない。会社の規模や慣習によって違いもあるから一概にそうだとは言い切れないけど、一般常識として渡さないのが普通だ。私自身、ここに入社して3年目だけど、同じ社内の人間と名刺を交換したことなんて一度もない。 佐倉くんは営業社員だし、社外で名刺交換をする機会も多いはず。それくらいの常識は知っていて当然だろう。 ただ、場合によっては名刺を渡すこともある。 社内名簿を確認するより名刺を渡した方が早い時、メモよりも名刺を渡した方が早く、且つ正確である時。その時の状況によって様々だ。 あの日、彼は急いでいた様子だった。 時間も定時を過ぎていた。 あの時名刺を手渡してくれたのは、他人のスマホを破損させてしまったかもしれない事に対しての、彼なりの咄嗟の判断だ。その場でメモを書いて渡すより、連絡先の記載がある名刺を渡した方が早いから。 だから、連絡する必要がなくなったのであれば捨ててほしい、という言い分はわからなくはない。一応、筋は通ってる。 それでも違和感が拭えない。 あの彼が、わざわざ部署に来てまでそんな言伝てを人に頼むとは、どうしても思えなくて。 「天使さん?」 「えっ、あ、はい」 「名刺、俺が預かっておこうか? 廃棄しておくから」 「………」 (……なんで? 頼まれたのは私だし、速水くんがやることじゃないよね?) 胸の中がザワザワする。 速水くんの口調はいつも通りで穏やかなのに、妙な圧を感じる。 「……でも、頂いた名刺を捨てるのはやっぱり、抵抗あるよね?」 彼の同意を得たくて問いかける。 けれど速水くんは頷かなかった。トン、と人差し指でハンドルをつつき、口を開く。 「それは、捨てたくないってこと?」 「えっと、そういうわけじゃ」 「名刺って、個人情報が入ってるからね。あまり知られたくなかったんじゃない?」 「………」 確かに名刺には、個人情報の記載がある。佐倉くんから貰った名刺にも、メルアドの記載があった。 これはもしかして……嫉妬、なんだろうか。 仕事上で大きな関わりを持つ訳でもない男の名刺を、私が持っていることに対しての。 なんて、自惚れだろうか。 「天使さん」 何度目かの呼び声に、どきりと心臓が跳ねる。 ほら、と速水くんの手が伸ばされて、手渡すように促してくる。 ───なんか、こわい。 不信感が更に強まる。 初めて彼を怖いと思った。 一向に引かない速水くんの様子に焦りを感じ、膝の上に置いていたバッグを開ける。中から財布を取り出せば、彼はきょとんとした顔で私を見返してきた。 「財布に入れたの?」 その声には、「なんで財布?」という疑念が含まれている。 「その、名刺を貰ったのが帰り際の廊下だったから。フォルダは机の中だし、オフィスまで戻るのも面倒だから、そのまま財布の中に入れたの。次出勤した時に、フォルダに入れようと思って」 やだな。間違ったことは言っていないのに、ものすごく言い訳っぽく聞こえる。 「それで、財布に入れたまま忘れてたんだ?」 「貰ったこと自体忘れてた……」 「はは」 そこで彼が笑ってくれて、張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。安堵しつつ財布の中を探ってみるけど、肝心の名刺が見つからない───"フリ"をする。 「……あれ、変だな」 「無いの?」 「うん……確かに入れたはずなんだけど」 「もしかして、レシートと一緒に捨てちゃったんじゃない?」 速水くんの一言に、そうかも、と頷く。 彼が疑っているような様子はない。 「どうしよう……人様から貰った名刺をレシートと一緒に捨てるなんて失礼すぎるよね……」 「でも、もともと捨てるものだったんだし、別にいいんじゃないかな?」 「……うん」 財布を閉じてバッグに仕舞えば、車はゆっくりと速度を落とし始めた。 マンション前に辿り着き、逃げるように助手席から降りる。彼と向かい合えば、優しい眼差しを向けられた。 「送ってくれてありがとう」 「いいえ。本当は毎日送迎してあげられたらいいんだけど。怪しまれたら困るよね」 「そんな、送迎なんて頼めないよ。速水くんが大変」 「俺がしてあげたいだけだし」 甘い囁きに、遠慮がちに笑みを浮かべる。胸の中が不安と緊張でいっぱいだった。どうかバレていませんようにと、心の中で繰り返す。 「今週もあと1日だね」 「そうだね。明日も頑張ろうね、天使さん」 「うん。じゃあね」 「また明日ね」 彼が軽く手を振って、私も振り返す。和やかな雰囲気を保ったまま、車は静かに走り去っていった。 ほっと安堵の息が漏れる。 平然を装うのは慣れていないけど、怪しまれてはいなかった。何とか場は切り抜けられたみたいで、とりあえず安心する。肩から力が抜けた。 (……嘘ついちゃった) バッグをぎゅっと握りしめる。財布の中には、商店街のポイントカードに混じって彼の名刺が重なっていた。 隠し持っている事がバレなくてよかった。あのまま彼に手渡していたら、間違いなく捨てられていた。それは、直感で悟った。 (……心配、だったのかな) 私が、同じ社内の男の名刺を持っていること。 それは、彼にとっては気分のいいものではないのかもしれない。 もし速水くんが、同じ女性社員の名刺を持っていたら。私だって複雑な気分になるかもしれない。 それでも『捨てて』なんて言えないけれど。 踵を返して、マンションの中に入る。 エレベーターに乗り、部屋の前で鍵を取り出そうとバッグの中を漁る。 ちょうどその時だった。 スマホから、緑色のランプが点滅していることに気がついたのは。 手に取れば、それはLINEの通知で。 (速水くんから……?) 何だろう? と思いながらタップする。 表示されたトーク画面を目にした瞬間、 私の心臓は、凍りついた。 『嘘ついたよね』 取り出した鍵が地面に落下する。 無機質な音が、遠くから聞こえた。 トップページ |