深まる疑惑


「ね、聞いた? 調査部門の速水くんの噂」
「聞いた〜恋人いるって話でしょ〜」
「ほんとだったらショックすぎるんだけどー」


(……なんてタイムリーな)

 トイレで手を洗おうとした最中、遠くから聞こえてきた声に動きが止まる。3人連れで来た女の子達の邪魔にならないように、端っこに避けて鏡と向かい合った。
 蛇口をひねり、手洗いをしてるフリをしながら耳を傾ける。管理部門の社員みたいだ。

「部署で飲み会があったらしいんだけど、速水くん速攻で帰っちゃったんだって。その後、恋人と会ってたんじゃないかって、誰かが言ってた」
「でも、彼女連れを見たってわけじゃないんでしょ? ただの噂じゃない?」
「それなんだよね。帰り際の速水くんが、すごく時間気にしててソワソワしてたから、いつもの速水くんらしくなかった、って。誰かが変に疑っちゃったんじゃないかな」

(……そうなんだ。よかった)

 私のことがバレたわけじゃなかったようで、ほっと胸を撫で下ろす。実のところその噂は本当なのだけど、彼と交際している事は、ありさ以外には誰も知らない。噂の真偽を明かすわけにはいかなくて、私は素知らぬ振りを貫き通したまま、蛇口を締めた。
 その飲み会の後、速水くんは私と会っていたんですよ。なんて内心思いつつ、優越感に浸っちゃう私はやっぱり、性格が悪い。

 噂の出所は、どうやら私達の部署からのようだ。速水くんが早々に、飲み会を抜けたことを疑った輩がいたらしく、その人の発言が人から人へ、瞬く間に広まってしまった。お陰で社内は、朝からこの噂で持ちきりだ。

 噂を聞いた時はさすがにヒヤリとしたけれど、耳にしたその内容は、著しく信憑性に欠けるものだった。お陰で大半の社員が、この噂を本気に捉えていない。人の噂も75日と言うし、数日もすれば自然と噂も消えるだろう。
 それでも気分が晴れたわけじゃない。
 原因はわかってる。速水くんの元カノかもしれない人が、私の前に現れたことだ。

(……きれいな人だったな)

 脳裏に浮かぶのは、昨日会った女の人。

 美人だった。高身長で、均整の取れたモデル並のスタイルが目をひく女性。バランスの良い眉が黒目がちの瞳を更に際立たせていて、白のスリムパンツスーツに映える黒髪もよく似合っていた。
 あんなファッション、よほどスタイルに自信がないと着こなせない。私にはとても無理。あれほど綺麗な人なら、速水くんの隣にいても遜色ないだろうに。
 それに比べて私はどうだろう。
 美人でもなく、中身も含めて可愛いとは言い難い。スタイルも普通だし、これといって自慢できるものも持っていない。地味で冴えない私は卑屈屋で、弱くて。いつも人から嫌われている。
 こんな底辺な奴が彼女だなんて、速水くんは嫌じゃないのかな。恥ずかしくないのかな。比較してもどうしようもないのに自信が持てなくて、どうしても悲観的になってしまう。

 私にとって速水くんは初めての彼氏だけど、彼にとってはそうじゃない。過去に付き合っていた人ぐらいいるだろうし、恋愛経験値だって私とは比べ物にならない程に多いはず。
 でも、何を言ったって今の彼女は私なんだ。
 過去の恋人に嫉妬しても仕方ない。わかっていても、そういう存在がいたんだって現実を見たら、嫌でも気になってしまう。
 今更知った。自分はこんなにも重くて面倒くさい女だったのかと。

 それに、あの人の言い分も気になる。


『速水蓮と縁を切って』


(……あれは、どういう意味なんだろう)

 もしもあの人が元カノだと仮定して、私と速水くんの関係に気づいたのだとしても。私達を引き離したいのであれば、あの言い回しは変だ。
 もし私が彼女の立場なら、「彼と別れて」って直接言う。「縁を切れ」なんて表現の仕方は、どうにもしっくりこない。忠告だと告げた内容自体も、意味不明なものばかりだった。そもそもあの人は、あんな忠告をして私がすんなり聞き入れると思ったんだろうか。

 それに、ありさのことまで知ってた。


『谷口ありさの非情さを知っている』


(ありさが非情だなんて……絶対にありえない)

 ありさはいつも元気で明るくて、何に対しても一生懸命な子だ。人の幸せを素直に応援できて、自分のことのように喜べる、そんなありさに「非情」なんて言葉は全く似つかわしくない。
 ありさの事をよく知りもしないであんな事を言うなんて、例え速水くんの元カノだったとしても許せない。でもあの人はこの会社を辞めたらしいし、今どこにいるのかもわからない。文句を言いたくても本人が不在ではどうしようもなくて、ぶつけようのない不満を持て余して、1日が過ぎた。

 悩み続けた末に悟った。時間の無駄だと。
 考えても答えの出ないものは、考えたところで仕方ない。そう割り切るしかなかった。



 ハンカチで手を拭いながら、彼女達の横を通り過ぎる。背後ではまだ、噂話をネタに盛り上がりを見せていた。

「速水くん、そんなに早く帰りたかったの?」
「あー、なんだっけ? 同窓会? じゃないか、高校の同級生と会うとかで、18時過ぎには帰ったって。1時間くらいしか居なかったんじゃない?」
「あの部署の女、みんなショック受けてたらしいよ。気合いいれて飲み屋行ったら、もう速水くん帰った後だったって」
「バカじゃね? なんの気合いだよ。お持ち帰りされるわけでもないのに(笑)」
「えー、速水くんにお持ち帰りされたーい!」


(……バカなのはどっちよ)

 女は噂好きな生き物だと知っているけれど、それが悪い噂なら尚更盛り上がる。人の不幸は蜜の味とか言うけれど、こういうことかもしれない。
 楽しそうに会話を弾ませている彼女達の声を背に、私はそのままトイレを出た。

 部署へと戻る道をひとり歩く。
 2歩、3歩と進める足を───

 途中で、止めた。


(……さっきの、あの子達の会話……)

 何かが、おかしい。
 この違和感は何だろう。







『速水くん、そんなに早く帰りたかったの?』

『同窓会? じゃないか、高校の同級生と会うとかで、18時過ぎには帰ったって』


(……18時?)

 そんなわけない。
 だって、彼が待ち合わせ場所に来たのは───20時半、だ。

 あの子達の勘違い?
 でも、『彼は1時間しか飲みに参加していない』とも言っていた。

 飲み会が開かれた場所は、会社近くにある居酒屋だったはずだ。私も何度か足を運んだことがある。歩いて10分もかからない。
 そして榛原は渋谷駅からも近く、車で5分ほどの距離だ。歩いたとしても20分ほどで着く。18時過ぎに店を出たなら、約束の20時までには余裕で間に合うはずなのに。

 あの時、彼はスーツ姿だった。
 飲み会から直接待ち合わせに来たような言い方をしていた。
 20時に渋谷駅で待ってて、そう約束を取り付けたのも速水くんだ。

 あの日、待ち合わせた時間に遅刻してまで急いで来てくれたのだとしたら、その間、彼はどこにいたんだろう。

 連絡すら、なかった。

(……まさかあの人に会ってた……とかじゃないよね)

 待ち合わせしている恋人を放ったらかして、他の女性と会うなんて、速水くんがそんな不誠実なことをするとは到底思えない。でも。

(……やめよう)

 なんの根拠もないのに、彼を疑うのはやめよう。
 何か用があって、どこかに寄り道していたのかもしれない。もしかしたら一度、マンションに戻ったのかもしれない。飲み会の場からそのまま来た、なんて彼は直接言ってないし、私が勝手に、そう思い込んでいただけかもしれない。

 ……後で、聞いてみようかな。



「……あああああッ! ひよりみっけー!!」

 ……どうしてこの子は、毎度絶叫しながら人の名前を呼ぶんだろう。恥ずかしいのに。

「……ありさ。ここ廊下、」
「来て!!!」
「ちょ、」

 無理やり腕を引っ張られて、連れ込まれたのは第3会議室。3階廊下奥に配置していることもあって、周囲には人の気配がほとんどない。静まり返った空間が広がっているだけの場所。そんなところに拉致られた。
 会議という名の会議が殆どない調査部門は、この部屋をほぼ使用しておらず、管理自体も曖昧だ。鍵すら締まっていないとは思わなかったけど。

「……ちょっとありさ。何?」
「ひより、スマホ出して!」
「はあ?」
「早く早く! 速水くんに電話して!! 大事な話があるから!!」
「え、ちょっと待って」

 今はまだ就業時間中だし、仕事以外の用件で彼に連絡を取るのは気が引ける。でもありさは、一度言い出したら聞かない子だ。それに、ありさの言う『大事な話』が仕事に関係するものなら、ここで拒否するのは気が引ける。

「私のスマホから取り次いでいいの?」
「いいの! ひよりのスマホからじゃないと意味ないから!」
「………」

 どことなく不安に駆られながらも、ポケットからスマホを取り出す。何度目かの発信音の後、彼に通話が繋がった。あ、と言いかけた直後、背後から延びてきた手にスマホを奪われる。

「え、」
「貸して!」

 呆然と見つめる私に、ありさは悪戯っぽく微笑んだ。そのスマホ越しからは、彼の声が聞こえる。

『天使さん? どうし、』
「貴様の女は預かった。返してほしければ、今すぐ照り焼きチキンバーガーとモスチーズバーガーを谷口ありさに貢ぐべし」
『……は、え?』
「………」

 なにやってるの、この子。

『……ありさ? え、何して』
「第3会議室で貴様を待つ」
『ちょ、』

 ありさの人差し指が、通話終了ボタンをタップする。ツー、ツーと無機質に響く機械音の、なんと虚しいこと。

「……人のスマホで何やってるのよ」
「だってモスバーガーたべたい」
「今は就業時間。あとにしなさい」
「えー(´・ω・`)」

 不満そうに唸るありさに苦笑する。
 あの速水くんをパシリに使うなんて、きっとこの子くらいだろう。他の女の子達が聞いたら睨まれそうね。

「速水くん、今は取引先に出向いてるから帰ってこないよ。それに、いくらありさから頼まれたからって、就業時間中には買ってこないでしょ」
「奴ならやってくれる」
「しないってば」
「するよ。だってひよりだもん」
「は?」

 意味がわからない。

「ひより全然わかってない。速水くんはね、本当にひよりが大好きなんだよ。もう目に入れても痛くないほど、可愛くて可愛くて仕方ないんだよ。そんなひよりの頼み事なら、奴は必ず動く。必ずモスバーガーを持参して、この拉致現場に現れる」
「………」

 頼み事をしたのは私じゃなくて、ありさでしょ。さりげなく責任転嫁しないでほしい。
 呆れつつ、スマホをポケットに仕舞う。

(……そういえば速水くん、今ありさのこと名前で呼んでたな)

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