覚悟のお話。5 「本当はね、莉緒が成人を迎えるまで待つつもりだったんだ。今も、そうした方がいいって思ってる。莉緒が、自分で責任が持てる時まで待つべきだ、って」 淡々と話す彼を前に、口を閉ざす。 千春くんが突然「抱きたい」と言った理由を、私はまだ聞けていない。 身体的な話じゃなくて、これは精神的な話。 「なのにごめんね。俺の方が、我慢できそうにないや」 おどけて笑う彼の姿に、心が痛む。 「……こんなこと打ち明けるのも恥ずかしい話なんだけどね。今まで、本気で人を好きになったこと、ないんだ。27にもなってあり得ないよね? だからこの先、ずっと独身のままなんだろうなって、そう思ってたんだけど」 「……え」 「その矢先に、莉緒に出会った」 何でもないような口調で話し続ける千春くんに、目を見張る。うまく息ができない。 それほどの、衝撃的な内容だった。 『今まで、人を好きになったことがない』 そんなわけない。 だって千春くんはすごく格好よくて、誰にでもモテて、異性の扱いだって長けてる。今まで、沢山の女の人とお付き合いをしてきたんだろうなって、ずっとそう思ってた。 千春くんの初恋が私だなんて、そんなの。 「……嘘だ」 「うん。そう言われると思ったから、今まで秘密にしてたんだけどね」 自嘲気味に笑う。 「信じてもらえないのも仕方ないよ。普通にありえないし、俺自身もそう思う。でも今はそんなの、どうでもいい。些末な問題だから。大事なのは今だから」 「………」 些末な問題。 今まで誰にも本気になれなかったことは、彼の中では重要なことじゃない。 重要じゃなくなった。 ───私と出会ったから。 「前にも言ったけど、俺、莉緒に触れるのも触れてくれるのも嬉しいんだ。だから、初めて好きになった女の子を抱ける幸せも実感してみたいし、好きな男に抱かれる悦びも、早く莉緒に教えてあげたい」 「……千春くん」 「これが理由になる?」 頭をゆっくり撫でながら問われる。 でも、どう答えていいのかわからなかった。 掛ける言葉が見つからない。 彼が今、私を抱きたいと言った理由は、あまりにもシンプルでありふれた想いだったから。 好きな人を抱きたい、抱かれたいと思うのは人の本能で、自然の摂理。 身体の繋がりを求めてしまうのは、相手を想うだけではもう足りないから。目に見える確かな実感が欲しいから。 千春くん、もう限界なんだ。 私の為に待とうとしてくれた我慢も、抑えきれないと言うほどに。 「堪え性のない奴でごめんね」 「……そんなこと、ない」 そう言うのが、やっとで。 「絶対、痛い思いはさせない。優しくする。惚れさせた責任も、全部取るから」 「………」 「だから、抱かせて。莉緒」 「……っ」 全身に火がついたように、熱くなった。 心が、震えた。 どう答えていいのかわからず、頷くことも出来ずにいる私をもう一度抱え直して、千春くんはこつ、と額を付き合わせてきた。 そのまま抱き上げられる。 初めて触れられたあの日みたいに、このまま抱っこされて寝室まで運ばれちゃうのかな。そう思い至った私の思考は、あっさりと裏切られた。 私を抱えた千春くんの腕が、ソファーの上にゆっくり落ちる。ただ膝上から下ろされただけだった。 寝室に運ばれるものだと勘違いしていた私は、ぽかんとしながら千春くんを見つめ直す。 彼が肩に羽織っていたタオルはいつの間にか床に落ちていたようで、千春くんの手が、それを拾い上げた。 ソファーの背もたれに掛けて、この場を静かに離れていく。 「え……ち、千春くん」 なんで? なんで離れちゃうの? どこ行くの? 彼の行動の意図が読めなくて、焦って呼び止める。 意外にも、彼は立ち止まってくれて。 「……寝室にいるから」 振り向いて、柔らかく微笑んだ。 「覚悟が決まったら、来て」 「………」 「待ってるから」 それだけを言い残して、千春くんの手がドアノブをひねる。寝室へ消えていく背中を、私はただ、呆然と見つめることしかできなかった。 静寂に包まれた空間に、ドアの閉まる音が虚しく響く。 おいてけぼりにされて、虚無感が襲う。 「……抱く発言は撤回しないって、」 言ったのに。 最後の最後で、選択を迫られた。 もし、このまま押し倒されていたり寝室に運ばれていたら、私はきっと千春くんに身を委ねていたと思う。 でも、千春くんはそうしなかった。 「今日から抱く」なんて言ってたけど、あれはあくまでも、私が同意した場合の話。無理強いでもなく、私が彼に合わせる形でもない。 一線を越えるか、止まるか。 私が、私自身で決めなきゃいけないんだ。 閉じられたままの、寝室の扉に目を向ける。 行けば、きっと千春くんは抱いてくれる。 でも、もし行かなかったら。 ここで私が引けば、彼はきっと、私の覚悟が決まる日まで待ってくれる。成人を迎えた日か、もしくは、もっと数年先まで我慢してくれる。 さっきまで火照っていた身体は熱を引いて、冷静になった頭で考える。でも、何度自分に問いかけても、" 彼に抱かれたい "という情欲は湧いてこない。恐怖だって、いまだに残ってる。 千春くんは痛くしないって言ってくれたけど、全然痛くない筈がない。それに血が出たらやだし、その前に胸ないし、幼児体型だし、自分の体に全然自信が持てない。素肌を晒すのはやっぱり恥ずかしい。 いつもは軽い触れ合いだけだったけど、今日は何されるのかもわからない。不安は募る。 でも、逃げたいとは思わなかった。 身を引く選択なんて、自分の中には残っていない。初めて好きになった人を抱ける幸せを実感したい、そう告げた千春くんの言葉が嬉しかったから、その想いに応えたいと思った。 だって、それを叶えてあげられるのは、私だけだもん。 ゆっくりと立ち上がる。 歩を進める先は、寝室の反対側。 リビングの隅っこに置かせてもらったままの、3つ分のボストンバッグ。そのうちのひとつを開けて、奥を漁る。 目的の物を見つけて引っ張り出せば、例の物は無惨にもヘコんでしまっている。使うことなんてないだろうと思っていた小箱を、ぎゅっと両手で握り締めた。 そのお陰で更に潰れちゃったけど、気にしてる余裕はない。 「……き、緊張する」 心臓の音が凄すぎて壊れそう。 手に汗が握る。 動悸が激しくて吐きそう。 こんな散々な状態なのに、それでも早く、千春くんが待つ部屋へ行きたいと心が望む。 足は自然と、目的の場所へと進んでいた。 寝室の前に立って、ドアノブに触れようとした手が止まる。 ほんの一瞬の躊躇。 この先に待つ展開は、自分でも未知の領域。 怯みそうになる自分に叱咤して、ふるふると頭を振る。 だいじょうぶ。 千春くんは優しくするって言ってくれた。 痛くしないようにするって言ってくれた。 だから平気。怖いけど、大丈夫。 こういう時、お母さんなら「女は度胸よ」って言いながら送り出してくれるんだろうな。容易に想像できる。 もう逃げない。 意を決して、ドアノブを思い切りひねった。 トップページ |