かき揚げ丼のお話。1 それは、ちょうど1年前。 私がまだ高校生だった頃。 東京に引っ越してきて、1ヶ月と少しが過ぎた、ある日の夜。 「にゃあ」 「え?」 バイト先で、ポリタンクの中にゴミを入れようとした時。か細い鳴き声が耳に届いた。 店横の狭い路地。 野良猫が集まりやすいこの場所で、その鳴き声が聞こえる事自体は珍しい出来事じゃない。 でも、あまりにも弱々しく聞こえたから、すごく気になってしまった。 きょろきょろと、辺りを見渡してみる。 地面に視線を落とせば、隣り合わせに置いてある2つのポリタンクの間に、声の主のしっぽが見えた。 「……にゃあ」 しゃがんで覗き込んでみる。 そこにいたのは、手のひらですっぽり包めそうなほど小さい赤ちゃん猫。 真っ白い体は、何故か泥まみれになっていた。 目はかろうじて開いている。 生まれてから2週間ぐらいだろうか。 近くに親猫の姿は無かった。 突然顔を覗かせた私に驚いた猫ちゃんは、すぐにその場から逃げ出そうとする。でも、まだ歩行が出来ないようで、よたよたとフラついている。 そして、横にぺたんと倒れてしまった。 大変だ。 すごく弱ってる。 このままじゃ死んじゃう。 店内に戻り、急いでタオルを手に取った。 猫ちゃんの元へ向かえば、相変わらずポリタンクの間で大人しくしている。 安堵して手招きしてみるけれど、警戒心剥きだしで私を威嚇してくるから、近付こうにも近づけない。 怖がらせたくないのに、どうしよう。 もう一度店の中に戻って、今度は通学用の鞄を手に取った。 中から取り出したのは、昼食で残したパン。 そして、パンを包んでいた袋に結び付けられていた、赤いギンガムチェックの紐。柄が可愛かったから、捨てないでとっておいていたもの。 鞄につけていたキーホルダーの鈴も外して、その紐に通す。りん、と軽やかな音が鳴った。 簡素なものだけど、玩具っぽく見えるかな。 猫ちゃんの近くに鈴を転がしてみれば、一瞬びくっと驚いていたけれど、逃げることはなく鈴に釘付けになっている。 次第に興味を示し始めて、ちっちゃい前足で、ちょいちょいと鈴をつついてきた。 自分の方に少しずつ引き寄せれば、ふらふらしつつ、猫ちゃんも歩み寄ってくる。 動くものに夢中になれる、猫の習性だ。 「こっちだよー」 鈴がりんりん逃げていく。 頑張って追いかける白猫ちゃん。 足元まで来てくれたところで、タオルでふんわりと包み込んだ。 逃げ出すかな? と思ったけど、猫ちゃんは大人しく私に確保されている。前足で、鈴に猫パンチを繰り出していた。 その後は猫ちゃんの体を洗ったり、ミルクを与えたり、パンを細かくちぎって食べさせたりして。甲斐甲斐しく世話をするうちに、猫ちゃんも警戒心が解けたようで、すっかり私に懐いていた。 にゃあにゃあ鳴きながら、すりすりと足に擦り寄ってくる姿が可愛い。 「お腹すいたよね。すぐ作るからね」 離乳食の作り方をスマホで検索して、必要なものを買う為に外へ出る。店を離れ、歓楽街通りへと向かった。 夜になれば、男性客で賑わうこの通りは治安も悪く、普段は絶対に近寄らないところ。 でも今は、そんな悠長なこと言っていられない。 深夜でも品揃えが豊富なコンビニへ急ぐ。 時間は23時を過ぎていた。 ・・・ 「あれ?」 ふと違和感を覚えて、辺りを見渡した。 「千春くん」 「ん?」 「かき揚げ丼がいません」 じゃがいもの皮を剥いていた彼に声を掛ける。 地元のスーパーから帰ってきた後、千春くんと夕飯の準備している最中のことだ。 「またティッシュの箱に入ってるんじゃないの?」 「いないですよ」 ティッシュの箱にも、ゲージの中にもいない。 どこにもいない。 物音もしない。 さっきまでキッチンの床を元気いっぱい走り回っていたかき揚げ丼が、いつの間にかいなくなっていた。 「……どこかに隠れてるのかな?」 かき揚げ丼を拾ってから、もう1年が経つ。 成長した今では、もう立派な大人猫。 でも、まだまだ元気でやんちゃ盛りなかき揚げ丼は、あの小さい体であちこち走って飛び回る。 私や、千春くんの見ていないところで怪我でもしないかと、いつもヒヤヒヤなんです。 そんな私の様子を千春くんは笑うけど。 「心配しすぎ」 「だって」 「猫はすばしっこいから、身に危険が迫っても大抵は回避できるよ」 「うー……」 でも、それだって絶対じゃないのに。 「心配なら呼んでみる?」 「え?」 千春くんの手が、レジ袋の中を漁る。 猫の缶詰を取り出して、私に差し出してきた。 素直に受け取ってみたはいいものの、どうして手渡されたのかわからなくて困惑する。 勿論、缶詰を受け取ったからって、かき揚げ丼が出てくる気配は無い。 「正直、やりたくない方法なんだけどね」 「?」 「缶の音、鳴らしてみて」 「缶の、音?」 首を傾げた私に、千春くんが頷く。 「爪でね、缶をつつくの」 「………」 カツン、と音を鳴らしてみる。 でも何も起こらない。 「そう。で、それを5本の指でね、カシャカシャってずっと鳴らしてごらん」 「………」 言われた通りに鳴らしてみる。 遠い場所で、がさこそと音が聞こえた。 「にゃん!」 「え、」 とてとてと、軽快な足音が駆けてきた。 猛ダッシュでキッチンへやってきたかき揚げ丼は、その小さい体を駆使して、ぴょんぴょん身軽に飛び跳ねる。あっという間にカウンター台に乗り移って、私が持っている缶詰にしがみついてきた。かじったり、前足でこじ開けようと必死だ。 「わ、ちょっと待って」 どうしていいかわからなくて戸惑う中、ご飯を求めるかき揚げ丼はますます躍起になる。爪で引っ掻いたりして、蓋を開けようと奮闘してる。 「ど、どうしよう」 「それ貸して。あほ猫ちゃんと捕まえててね」 ちょこまかと動くかき揚げ丼を抱き上げて、缶詰を千春くんに手渡した。 自分のご飯を取られて、腕の中で暴れまくる。 「にゃあああ!」 「ち、ちはるくんっ」 「……だから、やりたくなかったんだよ」 呆れ口調で言いながら、千春くんは缶詰の蓋を開ける。そのままエサ皿に移して、リビングへと向かう。 遠くで、コト、と物音がした。 「いいよ。放しても」 その一言で両手を離せば、私の腕から解放されたかき揚げ丼は、一目散に千春くんの後を追って出て行った。 リビングを覗けば、床に置かれたエサ皿に頭を突っ込んでいる猫ちゃんの姿がある。 「………」 役目を終えた千春くんがキッチンに戻ってきた。空になった缶の中身を、水道水ですすいでいる。 「いつも、あんな感じ?」 「普段はもっと大人しいけど、あの缶詰だけは別」 「?」 「好物なんだよ」 そうなんだ。 かき揚げ丼、マグロ缶が好きなんだ。 大好きな音が聞こえてきたから、急いで駆け寄ってきたんだね。 「食べさせてあげるの、此処でもいいのに」 「邪魔くさい」 そんな酷いことを言いながら、洗った缶をゴミ箱へ捨てる千春くん。 手を拭いた後、なぜか私の背後についた。 両腕をお腹に回してきて、後ろからぴったりくっついてくる。 「………」 また、ひっつき虫になっちゃった。 トップページ |