買い物に行くお話。1 「歩いて行こうか」 その提案に、私はぴたりと動きを止めた。 一緒に買い物に行こう。 今朝、千春くんは私にそう言ってくれた。 そして、今まさに2人で出掛けようと準備していた最中、その発言を受けた。 「歩くの?」 「うん」 「荷物、持つの大変ですよ?」 1週間以上も泊まるのだから、必要なものはたくさんある。けれど必要最低限の物の殆どは、パンパンに詰められたボストンバッグの中に収納されていた。 実際のところ、私物の買い出しはあまり無い。 私が困らないように、お母さんはちゃんと全部用意してくれていた。 ……余計なものも多かったけど。 手元にある買い出しメモには、ここ数日間の献立メニューに必要な食材が記載されている。 それだって、結構な量だ。 車を使わないとなれば、帰る頃には両手に大量の荷物を抱えるはめになる。重さだって相当だ。 「車の方が、便利だと思うよ……?」 至極当然の意見を主張してみたつもりだったけれど、千春くんはあまり納得していない様子。 「莉緒はさ」 「はい」 「1週間分の買い物するつもりなの?」 「え?」 「明日の分は、明日買いに行けばいいんじゃないかな」 「でも、それだと……」 手間暇が掛かるのでは。 「いっぺんに買い物済ませちゃうとさ」 「?」 「1回しか、莉緒と買い物に行けない」 「え……」 予想外の答えに、目を丸くする。 それは、つまり。 明日も明後日も、一緒にお買い物に行きたいと。そういうことですか? 「よく行くスーパーがあってね」 「スーパー?」 「地元に住んでるご夫婦が経営してる小さい店。でもいい人達なんだ」 「うん」 「その店の常連さんも、みんな優しい人達ばかりだから」 「………」 「莉緒も、きっと気に入るよ」 「……千春くん」 なんとなく。 なんとなくだけど、彼が何を伝えようとしてるのか、わかった気がする。 私は高校生の頃、千春くんに両親の話をする事が多かった。 私にとって両親は自慢の人達で、家族は何より大切なもの。 だから、私の大好きな人達の事を千春くんにも知ってほしかった。自慢したかった。 好きな人に、好きな人達の事を知ってほしいと思うことが当たり前の感情だとしたら、今、千春くんが考えていることも自《おの》ずとわかる。 「この辺りも静かだし、街並みも綺麗だから」 「………」 「莉緒にも、この街のことたくさん知ってほしいし、好きになってほしい」 「街……」 「うん。だから、歩いて行こう」 優しく微笑みながら誘ってくれる。 千春くん、好きなんだね。 この街が。この街に住む人達の事が。 だから私にも、好きになってほしいと伝えてくれている。 こんなの、嬉しくないはずがない。 「うん」 だから私は頷いた。 千春くんと一緒に、地元のスーパーへ買い物に行く。 ただそれだけの事。 それだけの事が、こんなにも嬉しい。 何気ない提案の裏に込められた、千春くんからのあったかいメッセージを知ってしまったから。 「にゃあ」 「ごめんねかき揚げ丼。しばらくお留守番しててね」 私の足下でじゃれていたかき揚げ丼は、自分が部屋に置いていかれると悟ったのか、突然みゃあみゃあと鳴き始めた。 しゃがんで、白い頭を撫で撫でする。 すると今度は、私の手にすりすりと擦り寄って甘えてくる。長いしっぽをくるりと腕に巻きつけて、おいていかないでって訴えてくる。 「ごめんね、すぐに帰ってくるから」 それでもかき揚げ丼は離れない。 どうしようと迷っていたら、千春くんの手がヒョイ、と猫ちゃんの首根っこを掴んだ。 いつの間に用意したのか、千春くんの手には小さな籐かごのバッグがある。 その中に、ぽいっ、とかき揚げ丼を入れた。 呆然としている私に、籐かご(かき揚げ丼在中)が手渡される。 「え」 「あほ猫も行きたそうだし、連れていこ」 「でも」 外に出して逃げ出したりしないかな。 それに店の中に動物は入れちゃいけないだろうし。 「大丈夫。何度もあほ猫連れて行ってるから」 「そうなの?」 「うん。一度も逃げたこともないし、店の中に入る時は、店前で立っている店員さんにいつも預かってもらってるから」 ひょこ、とかき揚げ丼が顔を出す。 このバッグはかき揚げ丼専用みたい。 「よかったねかき揚げ丼。一緒にお買い物に行けるよ」 「にゃ」 嬉しそうに鳴いた。 かき揚げ丼と出会って1年。 お腹を空かせてふらふらしてた白猫を、お父さんの店の前で拾ったのが始まり。 私の手のひらで包み込めてしまうほど、小さかったかき揚げ丼。生まれてからまだ日が経っていない、赤ちゃん猫だとすぐにわかった。 猫の年齢は私達に比べるとすごく早い。 見た目はまだ小さいかき揚げ丼だけど、人間年齢で換算すれば、もう20歳ぐらいのはず。 今はまだ元気だけど、年齢的な事を考えたら、こうして一緒に出掛けられるのは、今だけだ。 色んなところに、かき揚げ丼と一緒に行けたらいいな。 ・・・ 「前から言おうと思ってたんだけど」 「?」 「敬語、やめない?」 千春くんがそう切り出したのは、マンションから出て少しの事。ぱち、と瞬きを落とした私に、千春くんの優しい眼差しが注がれる。 隣に並ぶ千春くんは、ジーパンと白シャツだけのラフな格好に着替えていた。 彼の手に握られている籐かごから、白い耳と尻尾の先が見えている。ぴょこぴょこと動くその様は、見ていて本当に可愛らしい。 「敬語?」 「うん」 商店街までの道のりを、2人でゆっくりと辿っていく。 初めて訪れた筈の街並みは、何故か懐かしい感じがした。 千春くんが住んでいるマンションは、勤務している高校からかなり離れた場所にある。同じ市内在中とはいえ、休日まで生徒や保護者と街中で出くわすのは嫌だから、わざわざ遠い場所に暮らしているみたい。 そういうものなのかな? って思っていたら、同業者ならほぼ全員が同じこと言うよ、って言われた。 仕事とプライベートは分けたいって事なのかな? 「俺と莉緒はもう対等の立場だから。敬語だと、どうしても距離感じるし」 「敬語になってた?」 「敬語とタメ語がごちゃ混ぜな感じ」 「……うーん……」 先生の事を名前で呼ぼう。そう決めた時から、タメ語にも慣れていこうとしていたつもりなんだけど、気がつくと敬語に戻ってしまう。 名前呼びに慣れても、これだけは抜けない。 「意識はしてくれてたんだね」 「うん」 「無理に変える必要もないと思うけど、個人的には、タメ語の方が嬉しいかな」 こく、と頷いて彼の隣に寄り添う。 千春くんは、本当に色々お話してくれるようになった。 あまり自分の事を話してくれない千春くんは、何を考えているのかわからない事も多かった。訊いたところで、のらりくらりと交わされてしまうのが常だった。 それはきっと、私が生徒だったからだ。 生徒と教師は、対等の立場にいてはいけない。 教師は生徒の見本となるべき存在で、教育者として生徒を導いていかなきゃいけない存在。何でも明け透けに話せるお友達なんかじゃないから。 でも、もうそんな縛りは関係ない。 私達は彼氏と彼女の関係になったんだから、対等の立場なんだよね。「思ったことは何でも口に出そう」って言ってくれた千春くんの言葉を、私は信じていいんだよね。 恋人同士、だもん。 「……ふえ」 ぼ、と火が噴いたように顔が熱くなった。 こ、こいびと。 いまだに慣れないその単語。 自分で言っておいて、ものすごく恥ずかしくなった。 「え、なに」 いきなり真っ赤になった私に、千春くんは訝しげな視線を送ってくる。 「……莉緒、えっちな事は今は出来ないよ。お家に帰ってから、」 「しないです!」 「えっ、しないの」 信じられない、とでも言いたげな表情に憤慨する。せっかくいい雰囲気だったのに、どうしてそっちの方向へ持っていっちゃうのかな、もう。 トップページ |