合鍵のお話。3


「莉緒のことはね、もう自分の中では結構、吹っ切れたつもりではいるんだ」

 目を細めて、千春くんはそう言った。
 私も小さく頷く。

 昨日、車内で教えてくれた。
 千春くんが少し前まで、私が未成年で元生徒だということに不安や迷いを抱えていたこと。
 私が名前で呼んでくれたことで、迷いが吹っ切れたことも。

「でも、まだ完全には吹っ切れていないと思う。俺よりも他の男の方が……って思うこともやっぱりあるし、心のどこかに、まだ迷いは残ってる」
「……うん」
「莉緒も、そうだよね?」

 こくん、とまた頷く。
 ここ数日間、ずっと胸に抱えていた悩み事は、今は少しだけ薄れている。
 でも、全部吹っ切れた訳じゃない。
 私は8つも年下で未成年だという事実は、当たり前だけど変わらない。元生徒だという事実も。
 変わらない以上は迷いもきっと、なくならない。

 それでも今、まっさらな気持ちで千春くんと向き合えているのは、変わらない事実に悩むよりも、今ある正直な想いに素直になろうと決めたからだ。
 どれだけ悩んでも、それでも一緒にいたいという気持ちを裏切れない。互いの気持ちが向き合っている間は、互いの素直な気持ちを尊重しよう。そう思い直したから、私は彼のところに泊まりに来たんだ。

「今回は1週間のお泊まりだけど、"泊まる"ことと、"同棲"は全然違うものだと思うから」
「……うん」
「一緒に暮らすとなれば、色んな覚悟も視野に入れないといけない」
「………」
「そういう覚悟がまだ決まっていないうちから同棲するのは、難しいかな。……俺はね」

 微妙な言い回しをされたけど、覚悟というのは多分、結婚のことを言ってるんだろうなと気付く。

 将来を見据えた上での同棲。
 軽い気持ちで言ってる訳じゃないことくらい、私でもわかる。

 覚悟が決まらないのは、自信の無さの現れ。
 私も、千春くんも、まだ自分に自信がない。
 だから迷いも吹っ切れていないのだから。

「自信の無さを、莉緒が未成年だからって言い訳にしてた。ごめんね」
「……ううん」
「でもね」

 頬から温もりが離れた。
 膝に置いたままの手を、ぎゅ、と握られる。

「1年後は、今よりもっと気持ちが強くなってると思うんだ」
「強く……?」
「うん。一緒にいたいって気持ちが」

 1年後。
 ちょうど私が20を迎える頃。

「1年間、ちゃんと付き合ってみよう。1年後の今頃、まだ俺達の気持ちが変わらなければ、その時は一緒に暮らそう」
「千春くん」
「1年付き合えた実績……って言い方も変だけど、その経験値が、気持ちも自信も強くさせてくれるよ、きっと」

 ね? と優しく微笑んでくれる。
 その笑顔に、私は何度も頷いた。


 ちゃんと、聞けた。
 本音を打ち明けてくれた。


 目頭が熱くなる。
 嬉しくて、泣きそうになるのを我慢する。
 だから精一杯笑った。
 でも泣いてることなんて、きっと千春くんにはバレバレだね。

「ほんと、泣き虫なんだから」

 呆れたように呟く声は優しくて。
 片腕が肩に回されて、ゆっくりと抱き寄せられる。
 大きな胸に寄り掛かって、私は嬉し涙を零した。



 覚悟がなければ一緒にいてはいけないなんて決まりはない。
 そんな覚悟がなくても、自信がなくても、同棲は始められる。それから始まる関係があってもいいんだと思う。
 ただ私達は、私達の場合はそれが無理だと、私達で判断した。
 ただ、それだけの話。
 法とか常識とか、世間体に振り回されても、結局最後は自分達の気持ちが一番大事なんだと思う。

「1年後……とか言っておきながら、ちゃっかり同棲の約束を取り付けるあたり、ダサいとは思うんだけどね」

 自嘲気味にそんなことを言う。

「千春くんはダサくない」
「俺結構ヘタレだからね」
「ヘタレじゃないもん」
「莉子さんならそう言いそうだけど」
「言ってないもん」

 言ってた気がするけど。

 でも私は、千春くんがヘタレだなんて思ったことは一度もない。
 ダサくもない。
 弱い人だとも思ってない。
 格好よくて、頭もよくて、自分よりも他人を優先できる人で、本当は優しくて強い。
 一番大好きな人で、一番憧れている先生。

「GW終わっても、泊まりにおいで」
「いいの?」
「うん。合鍵、渡したでしょ」
「あ……」

 ポケットに入れたままの鍵を取り出す。

「返さなくてもいいの?」
「いいよ。いつ来てくれても大丈夫」
「そ、そんなこと言ったら、毎週来ちゃうかも」
「いいね。週末に来てくれると嬉しいな。1週間乗り越えられそう」

 ついでに夕飯も作ってね、と主張も忘れない。
 私が此処に来やすい理由をあえて作ってくれるのは、もはや千春くんの常套句だ。



 手の中に収まっている部屋の鍵。
 千春くんの小さな覚悟を託された合鍵は、その存在を主張するかのように、キラキラと輝きを放っていた。

mae表紙tugi

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