合鍵のお話。1



『───しばらく一緒に暮らすなら、必要でしょ』


 そう言って、千春くんはそれを私に託してきた。
 手のひらの上には、銀色に光る小さな鍵。それが何の、どこの鍵かなんて、言われずともわかってしまった。

 頬が熱を帯びる。
 驚いて千春くんを凝視する私に、彼は突然キスを仕掛けてきた。
 例のごとく固まってしまった私に、唇を触れ合わせながら彼は囁く。
 それ持って、ちゃんと帰りを待ってるんだよ。そう微笑みながら部屋を出ていく千春くんを見送ったのが、数分前のこと。

「……合鍵だ……」

 ソファーの背もたれに体重を掛けながら、鈍色の艶を帯びる金属物をまじまじと眺める。



 合鍵。
 そう、合鍵をもらいました。
 すごく、彼女っぽい。

 …………彼女だけど!








 通っていた高校の、教師だった彼とお付き合いを始めてもうすぐ1ヶ月。
 名前で呼んでみたり、お弁当を作ってみたり、生徒だった頃には出来なかった彼女っぽい振る舞いを、私は今、積極的に挑戦してる。
 それでも、私の中の水嶋千春という人は、彼氏よりも先生という認識がまだ強い。

 だから合鍵を渡されたとき、今更ながらに実感した。実感、させられた。

 彼のプライベートな領域に踏み込むことを許された証。それが合鍵という形で示されて、恋人という立場にあるのだと改めて気付かされた。
 千春くんが、私を特別な存在として扱おうとしてくれているのがわかって、託された恋人の証を、私はありがたく頂戴した。

 嬉しくて、幸せで。
 どうにかなってしまいそう。
 ふわふわと、心が舞っているような夢心地。恋人という言葉が、くすぐったい気持ちにさせてくれる。


 そっか。こいびと。
 千春くん、わたしの恋人なんだ。


 そうはっきり自覚してしまうとたまらない。込み上げてくる感情が爆発して、傍らにいるにゃん汰先生DXに思いきり抱きついた。
 もふ、とした感触が私を抱き止める。
 恥ずかしさと嬉しさがごちゃ混ぜで、うーうー唸りながらにゃん汰先生に顔を埋めた。







 ───4月30日。

 今日は月曜日。でも世間は祝日で、市役所勤務の私も今日はのんびりだ。
 千春くんは、今日も学校へ向かった。
 5月半ばに控えている中間テストの作成と、生徒会役員のみで、体育祭の打ち合わせがあるみたい。
 家に仕事を持ち込まない主義の千春くんは、テストの作成も全部、学校で済ませちゃうらしい。

 私は昨日から、GWお泊まり会と称して、千春くんが住むマンションにお邪魔している。
 約1週間ほど、ここで千春くんと、そして飼い猫のかき揚げ丼と、一緒に暮らす。
 ずっと憧れだった先生と、8日間も一緒に暮らすことになるなんて、1年前の今頃は想像すら出来なかった。すごいなあ。

 にゃん汰先生にぎゅうぎゅうに抱きついたまま、ふと、昨日から今朝までのことを思い出す。



 ───昨日。
 千春くんと、お花見デートをした。

 デートもお花見も、私にとっては初めての経験。ソメイヨシノに似た桜の下、お弁当を広げながら過ごす千春くんとの時間はとっても楽しかった。お弁当もサンドウィッチも、美味しいと言いながら食べてくれて、私は始終頬が緩みっぱなし。
 かき揚げ丼も、公園にいた子供達にいっぱい撫で撫でしてもらって、ずっと嬉しそうにしていた。

 楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
 帰る頃には、もう日が暮れていた。

 その後は夕飯を食べに出掛けて、車内に戻れば、今度は眠気が襲ってくる。
 寝ててもいいよ、そう千春くんが言ってくれたから、私はその言葉に甘えることにした。
 睡魔に逆らえず夢の世界へと旅立ち、目が覚めれば、そこは千春くんの寝室。
 時計を見れば既に5時。朝だった。

 近くに千春くんの姿はない。
 ベッドから降りて部屋を出れば、リビングのソファーで横たわっている彼の姿がある。毛布1枚だけ掛けて、すやすやと眠っていた。

 車内で眠ってしまってからの記憶がない。
 ここまで、運んできてくれたのかな。
 居候する身でありながら面倒を掛けてしまった挙げ句、ベッドまで占領してしまったことを申し訳なく感じて、私は眉を下げた。



 朝食を作ってる間、千春くんはまたもやひっつき虫と化した。
 べたべたにくっついてくる彼をなんとか鎮めて、朝食作りを再開する。ほかほかのご飯に、豚汁とだし巻き卵、ほうれん草のごま和え。相変わらずの和食テイストだけど、千春くんはいつも美味しそうに食べてくれるから嬉しい。

「昼過ぎには帰ってくるから、一緒に買い物に行こうね」

 そんな誘いすら嬉しくて、私は笑顔で頷いた。



 2人で食器を片付けた後、学校へ向かう千春くんを玄関先で見送る。行ってきます、と彼が言って、いってらっしゃい、と私が返す。まるで夫婦みたいなやり取りだった。
 密かに悶えまくっていた私に、千春くんはゆっくりと、片手を差し出してくる。

 何だろう、飴でもくれるのかな?

 能天気な事を思いつつ両手を広げてみる。
 手渡されたのは飴よりも重くて、そしてとびきり甘いもの。

 ───そうして今に至る。





 千春くんが帰ってくる前に部屋を軽くお掃除して、買い出しするものをメモっておく。
 そして部屋の片隅に目を向けた。

 そこに置かれているのは、お母さんが勝手に用意したボストンバッグ、3つ分。
 私は今からこの荷物を、ひとつずつ検品しなければならないのだ。
 あの人のことだ、不必要なものまでホイホイと入れていそうな気がする。
 ……ううん、絶対入ってる。
 私の第六感がそう告げている。

 危険極まりないものは排除しないと。
 そう判断して、私は腕捲りをしてからバッグの中身を漁り始めた。



・・・



「……どうしたの?」

 帰ってきて早々、千春くんは私にそう問いかけてきた。
 訝しげな視線が肌に突き刺さる。
 それもそのはず。
 今の私は、リビングの床に力なく突っ伏しているような状態なのだから。HPは0です。

「何かあった?」
「お気になさらず……精神的ダメージをくらいすぎて自滅した成れの果てでございます……」
「ちょっと意味がわからないけど」

 わかります。自分でも何を言ってるのか意味不明なので。
 でもそれは仕方ない。平常心じゃいられなくなる程のことがあったのだから。
 原因は例のボストンバッグにあった。

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