番外編・斎藤さんのお話。1 「よいしょ、と」 無駄にでかい段ボールから中身を取り出して、さくさくと片っ端から捌いていく。 引っ越し作業はゴミが大量に出るから大変だ。 ゴミの分別とか、後で大家さんに確認しておかないと。 質素な部屋の中にこれでもかってくらいに積まれた段ボールの山と、猫と。 そう、私の愛すべき飼い猫である。 もうすぐ4歳を迎えるサイベリアンのジャイアン(♂)は、猫にしてはシュッとしたスリムボディーではなく、横にでかいワガママボディー。 有り余る腹の脂肪をぷらぷら揺らしながら室内を徘徊するデブ猫は、今日もなに食わぬ顔で傲慢な態度を貫いている。 住んでる環境が変わった事に、戸惑いの表情すら見えない。タフである。私のジャイ子はハートも肉もめいっぱいのようだ。 広告代理店で働き初めてウン数年、本社移動となった私はここ、東京へと居を移した。 ペット可なこの新築マンションは、今時風のシャレオツな内装で一目見て気に入った。ライトグリーンをワンポイントにあしらった家具もなかなかイケている。 そして簡易な折り畳み式テーブルには、菓子折りがひとつ置いてある。 このマンションに来る前に購入しておいたそれは、お隣さんへご挨拶する際にお渡ししようと、あらかじめ用意しておいたものだ。 隣同士だもの、仲良くしておきたいじゃない。 近所付き合いというのは、いつの時代も大事なものである。 できれば同い年くらいの女の人がいいな。 まあ男でも可。ただしイケメンに限る。目の保養的にな。 時間は夜の20時を回っている。 そろそろ頃合いかと判断して、私は重い腰を上げた。 ベランダに目を向ければ、隣の部屋から照明の光が漏れている。今頃、仕事帰りで一息ついている頃だろう。 靴に爪先を引っ掻けて、トントンと床を鳴らしながら履き心地を確認する。その後はチェーンを外して部屋の外へ出た。 控えめに扉を閉め、鍵が閉まったことを確認してから隣の部屋に足を向ける。両隣のうち、片方は空き室なのは既に確認済みだった。 目的地の手前で止まる。 インターホンを押す前に、まず名前の確認から。 シャレオツなガラス張りの表札には、『水嶋』と表記されていた。 水嶋。 水嶋さん。 はたして水嶋ちゃんなのか水嶋くんなのか。 運命の分かれ道である。 ピンポン。 控えめにインターホンを押せば、部屋の奥から人の歩く気配がした。 同時に、「はい」と落ち着いた低音ボイスが耳に届く。 ちょっとジャイ子聞いた? 男の声だったわオトコ。 しかもちょっと若い感じっぽい。 私の頭てっぺんに生えているイケメンアンテナが、びょんっ! と勢いよくそそり立つ。 思わずガッツポーズをとる喪女。もとい私。 彼氏いない暦○年。 こっそり彼氏募集中な喪女としては、ここで一発、でっかい魚を釣り上げたいところ。 しかもこれってちょっと、あれじゃない? よく乙女ゲームとか少女漫画とかで見かけるシチュエーションに似てない? 引っ越してきたら隣人さんがイケメンでした! みたいな。それから恋が生まれるみたいな。 あんなものは二次元のキャラに酔いしれる女子が生み出した、悲しき妄想の産物みたいに思っていたけれど、私もそのうちの一人だけど。 まさかドンピシャでこんな場面に立ち会うとは。 ねえジャイ子。ついに私にもワンチャンきたんじゃない? 理想と現実の狭間で揺れ動くこの乙女心。 もう乙女って年でもないけどな。 とはいえ、水嶋さん。いや水嶋くん。 まずはお顔を拝見しなければ、ワンチャンどころかワンパンされる可能性も秘めている。 イケメンボイスを発しておきながら顔がジャイアンだったら、私は確実に泣きます。 詐欺もいいところだ。 J○ROに訴えてやる。 その時、カチ、と鍵を開ける音が響いた。 思わず姿勢を正す私。 ついでに髪もささっと整えておく。 目の前で、運命の扉がゆっくりと開いていく。 さあどっちだイケメンか。 ジャイアンか。 心の準備は出来ている。 来いっ!! フンッと鼻息荒く待ち構える。 数秒後、私の前に現れたのは─── 「……えと、どちらさまでしょうか……?」 「………」 目が点になった。 ねえジャイ子どう思う? 女の子が出てきたわ女の子。 まん丸なお目めをパチパチと瞬かせながら向けられる、そのお顔のなんと可愛らしいこと。 クセっ毛の無い黒髪ストレートロングに前髪ぱっつんという、見事に日本人男性好みの顔立ち。 ロリ系に分類されると思われる。 どう見ても高校生よね。 「えっと……隣に引っ越してきた者なんですが」 「えっ。あ、ちょっとまってくださいっ」 くるりと身を翻した女の子は、艶やかな黒髪をなびかせながら部屋の奥へと戻っていく。軽やかに床を鳴らす足音がまたかわいい。 部屋の奥で、「せんせー、おきゃくさんっ!」と元気な声が聞こえた。 …………せんせい? せんせい。専制。先制? いやアクセントが違う。 先生? 先生って言った? 聞き間違いかもしれない。 だって水嶋さんとやらが先生なら、あの子はなに? 生徒? ちらりと玄関口に視線を落とせば、そこには2人分の靴が置いてあった。 シンプルな傘立てには傘が1つ。水嶋さんは多分1人暮らしだ。 そして今は夜も更けた20時過ぎ。 こんな遅い時間に、成人男性が1人で住んでいる部屋に女子高校生がいたらおかしいでしょ。犯罪のにおいがプンプンするわ。 もし家庭教師だったとしても、教え子が先生の所に出向くはずがないし。 ぐるぐると思考が回る。 もしや立ち会ってはいけない犯罪的な場面に、私は出くわしてしまったの。ただ挨拶しに来ただけなのにそんな事ってある? 複雑な心境に陥るワタシ。 でもそれは、突如襲い掛かってきた野獣によって思考を憚れた。べしゃっ! と、顔面に何かが張り付いたのだ。 ふわふわした、柔らかな白い毛の感触。 そして生温かい肉食動物のかほり。 「おぎゃあ!?」 全く、乙女らしかぬ下品な悲鳴しかあげられない自分に乾杯。むしろ完敗。「きゃっ☆」なんて萌え声スイッチは私には搭載されていない。 と、ふいに空気が変わる。 顔に掛かる重みが軽くなった。 私の顔にへばりついていたものを、誰かが引き剥がしてくれたみたいだ。 爽やかな香水の匂いが、ふわりと鼻腔を掠めた。 「こら」 「にゃあ……」 母性くすぐるような愛らしい鳴き声と同時に、例のイケメンボイスも一緒に降ってきた。 ついにご対面。 突撃隣の晩ごはんならぬ、隣のイケメンさん。 どうかジャイアンではない事を祈りつつ、私は声の主をそっと見上げた。 「すみません、怪我はありませんか?」 「………」 ………ねえ、ジャイ子。聞いてくれる? 私の戯言を。 トップページ |