お花見デートのお話。3 ・・・ 家を出てから数分もしないうちに、異変が起きた。 私にではなく、千春くんに。 車は走り出してすぐ、大通りとは逆の方向へ行き先を変える。あれ? と疑問を抱いた矢先、開けた平地に辿り着いた。 そこは人気のない公園の跡地。 本来あるはずの遊具は無く、唯一残されている公園の柵は、すっかりサビだらけになっている。 近くにあった小学校が数年前に廃校となり、利用する子供もいなくなり、今では随分と寂れてしまっていた。 車は公園の外に停まる。 周囲に人の気配はない。 こんなところに何の用だろう? 千春くんの行動が読めなくて首を傾げていたら、シートベルトを外した千春くんが、急に私の方へと身を乗り出してきた。 否応なく近付いた距離。 途端に心臓が早鐘を打つ。 思わず硬直してしまった私の頬に、千春くんの手のひらが触れた。 手の内でゆっくりと撫でられる。 宝物を扱うかのような優しい触れ方に、胸が高鳴っていく。 「かわいい」 「……え、あの、千春くん?」 「本当にかわいい」 染み込ませるように、千春くんは何度も同じ台詞を繰り返す。 家に来た時も同じことを言われたけど、あの時とは態度も口調も、纏う空気すら全然違う。 瞳を細めて甘い言葉を吐く彼に、私は戸惑ってばかり。 「かわいい」 また言った。 どうしよう。 千春くんがおかしくなっちゃった。 私の心配をよそに、千春くんの行動は大胆なものになっていく。一気に顔が近づいてきて、唇に彼の吐息が触れた。 突然訪れたキスの予感に、待って待ってと両手で彼の胸を突っ張ってみる。 「莉緒」 「だ、だめです」 「なんで」 「あ、明るいし」 「誰もいないよ」 「かき揚げ丼見てるもん」 「寝てるよ」 気づいてます。日の当たる後部座席の上で、体を丸めてスヤスヤしている子猫ちゃんの様子など。 でも誰も見ていないからって、こんな場所で、こんな明るいうちから、こんなことをしていい理由にはならないわけで。 「か、帰ったらいっぱいできる、から」 そう言うのが精一杯。 「……それもそっか」 あっさり引き下がったように見えた千春くんの視線は、それでも私から逸れる事がない。身を引く様子もなく、頬から手が離れていく気配もない。熱っぽい瞳で見つめられて、恥ずかしさから俯いてしまう。 そんな私に、 「……かわいいなあ」 また同じことを言う。 「も、もう何度も聞いた、の」 「言い足りない」 「……う……」 言われる方も困っちゃうのです。 「……嬉しかったんだ。事前に約束を取り付けたデートだし、誕生日だし、もしかしたら見た目も気合いいれてくれるのかな、って期待してたんだけど」 「………っ」 「自惚れでも何でもなく、本当に可愛かったから。俺の為に頑張ってくれたのかなって思ったらもう、たまらなかった」 図星をつかれて、顔に熱が上がる。 頬に添えられた千春くんの手が離れて、そのまま後頭部に回った。 引き寄せられて、じりじりと近づく距離に、心拍数も早くなる。 「ごめん、キスしたい。ダメ?」 「あ、あの」 「1回だけでいいから」 「………」 「キスしたら、この荒ぶった気持ちが落ち着く気がする」 「………」 ……ほ、ほんとかなあ。 私だって全力で拒みたいわけじゃない。 キスしてほしい気持ちだってある。 でもこんな場所でだめだよと、必死に理性が働きかける。 矛盾した2つの気持ちが、私の中でせめぎ合っていた。 何度も囁かれた甘い言葉と、熱っぽい視線。 車内の甘ったるい空気に完全に酔ってしまった私に、冷静な判断力はどこにもない。 「……1回……だけなら……」 そして折れた。 いいようにやられてしまった感が否めないけれど、そんな私の後悔は一瞬にして霧散する。 唇に軽く触れただけの熱は、次の瞬間にはしっかりと重なりあっていた。 甘い熱に侵食されて、体から力が抜ける。 シートベルトをきっちり締めたまま、後頭部も抑え込まれてる私に逃げる術はなくて、ただ彼から与えられるキスを素直に受け入れた。 顔の角度が変わる。 生温かい感触が、唇の隙間をなぞるように触れてくる。 つい口を開いてしまいそうになるのを、理性を総動員して我慢した。 ちゅ、と啄むようなキスを最後に、名残惜しそうに唇が離れていく。 「……薄情者め」 防御に徹した私に、不満たらたらの呟きが返ってくる。 だって、あのまま素直に口を開いていたら、とてもイケない流れになりそうだったんだもん。 「お花見、しないの?」 今日は千春くんとお花見デートのはず。 車の中でアレコレする予定は組み込まれていません。 「このまま真っ直ぐ俺の部屋に来ない?」 「お花見は?」 「花見は明日でもできるよ」 「お弁当作ったのに」 「部屋でも食べられるよ」 「桜の下で食べたいの」 「俺は莉緒を食べたいの」 「た、食べれませんから」 頑なに拒否する私の額に、コツンと額がぶつかる。 「誕生日プレゼントは私ですとか、そういう感じのはないの?」 「ないです」 「ことごとく男の夢をぶち壊すね」 はあ、とわざとらしく溜め息を吐く千春くん。 発言は残念だし、セクハラ満載なのは相変わらず。中身が色々ダメと酷評したお母さんの発言に、少しだけ納得する。 でも、この感じ。 私達はいつも、こんな感じだった。 迷いが吹っ切れたら、後は元に戻るだけ。 自然体に戻った私達に、少し前までのぎこちなさはどこにもない。 そんな些細な事が嬉しくて、思いきって彼に身を乗り出して軽く唇をくっつけた。 1回だけって自分から宣言しておいて、自ら2回目を仕掛けちゃうなんておかしな話だ。 自分からキスするなんて絶対に無理だと思っていたのが嘘みたい。 今ではこんなに、素直に出来てしまう。 随分とこの人に染められてしまったなあ、と自覚する。 「千春くん」 「はい」 「私で、いいかな」 彼女が、わたしでも。 「莉緒こそ、いいの?」 「何が?」 「彼氏が、元教師の俺でも」 「千春くんがいいの」 「俺も莉緒がいいんだよ」 「うん」 一緒にいたい。 互いに思う気持ちは同じもので、どれだけ悩んでいても結局、答えはそこに辿り着く。 悩む必要なんて、本当は最初から無かったのかもしれない。言葉足らずのせいで不安に駆られたりもしたけれど、千春くんの気持ちを聞いただけで、迷いなんて綺麗に吹き飛んでしまった。 ぐるぐると迷走していた思いは、実はごくありふれた、ほんの小さな悩みだったのだと思い知る。 でも、こんなことなら初めから素直になっていればよかった、なんて思えなかった。 悩んだ時間があったから、気づけた事もある。 一人で抱え込んでいても何も変わらなくて、周りに頼ることを知った。 自分の気持ちを吐露することが、相手の気持ちを知る上で大事なことだと知った。言葉にすることの大切さを知った。 私達は遠慮し過ぎて言葉が足りないだけだとお母さんに言われたけれど、本当にその通りだった。 お母さんは私が何に悩んで、どうすればその悩みを解決できるのか、既に見抜いていたんだ。 お母さんって、やっぱりすごい。 千春くんの暴走を鎮めた後は、先日ドライブで向かった場所へと車を走らせる。 その間、今度は千春くんが、自らのことを話してくれた。 つい最近まで、私と同じことで悩んでいたこと。 私が名前を呼んでくれた事が嬉しかったこと。 元教師と生徒という関係を変えていこうとしている私を見て、迷いが吹っ切れたこと。全部。 打ち明けてくれている間、千春くんはちょっと気まずそうな表情を浮かべていて、私は照れ臭さから彼を直視出来なくて、車内は微妙な空気に包まれている。 でも、滅多に聞けない千春くんの本音を、彼自身の口から語ってくれたのが嬉しくて、胸の中は幸福感で満たされていた。 「これからはさ、迷ったり不満がある時は口に出すようにしよう」 「千春くんも?」 「うん。俺も、ちゃんと話すようにするから」 そんな言葉すら嬉しくて、私はこくんと頷いた。 見上げた空は変わらず、まっさらな青空が広がっている。 窓から流れていく景色の中に、今年の役目を終えた桜の姿は見当たらない。 でもあの場所に行けば、満開の桜が私達を出迎えてくれる。 ポカポカと暖かい日差しの中、桜の木の下でお弁当を広げながら過ごす千春くんとの時間は、今まで以上に楽しいものになる。 そんな予感めいたものを感じて、私は期待に胸を膨らませた。 (2章・了) トップページ |