帰り際のお話。1 千春くんと夕飯を食べに出掛けたその帰り。 自宅まで送ってくれた彼の車内で、思わぬ天然ボケをやらかしました。 「ふぁ!?」 ビックリして変な声が出た。 助手席から降りようとしたのに、なぜか体が動かなかった。強い力に抑え込まれて、グンっと後方に体が傾く。そのまま椅子の背もたれに背中が密着した。 呆然としている私の隣では、千春くんが不思議そうな表情を浮かべながら、私の様子を眺めている。 「何してんの」 「か、体動かなくて。なんでだろうと思ったら」 「うん」 「これ外すの忘れてました」 シートベルトしたまま、車から降りようとしてました。 「車ごと持って帰らないでね」 「そんな非常識なことしません……」 というより、物理的に無理です。 「どうだかね。莉緒は前科持ちだから」 「前科?」 そんな言い方されると、まるで犯罪者扱いされたみたいで複雑な気分になる。 前科なんて言われるような事、私したっけ? 記憶を掘り起こしてみても思い出せない。 なんの事かわからず首を傾げてる私に、千春くんはいやらしそうに口角を上げた。 あ、なんか意地悪そうな顔してる。 「俺は忘れてませんよ。たった指2本で我が校舎の自販機をフルボッコした誰かさんの姿を」 「………」 前科ありました。 それは、忘れもしない1年前の事。 通っていた高校の、食堂前に設置されている自動販売機が、何者かの手により破壊される事件が起きた。 悪質な悪戯により使用ができなくなった自動販売機は、今は業者さんの手により、元の姿へと修復されている。 が、犯人はいまだに捕まっておらず、この不可解な事件は迷宮入りと化していた。 ………その犯人は、私です。 だって勢いよく押したら、ボタン、ヘコんじゃったんだもん。 「今まで色んな生徒を見てきたけどね、自販機を自力でぶっ壊す女の子、俺初めて見たよ」 「………」 「あの時、何やってんのこの子って思ったし」 「………フルボッコなんてしてないです」 「でもさ、あれは絶対、中身まで逝かれてたと思う」 「ボタンふたつだけだもん」 「ボタンへこんだだけで使用不可になるかな」 「う……」 それ以上反論できず黙り込んだ私に、千春くんは可笑しそうに笑う。 まさかの黒歴史を暴露された挙句、笑いのネタにされるなんて。しょぼんと肩を落としていたら、おっきな手が頭をなでなでした。 まるで慰められているような気になって、沈んだ心は一気に浮上してしまう。 なんて単純なわたし。 「あ、じゃあ、おやすみなさい」 今度こそきちんとシートベルトを外して、助手席を降りようとする。 が、またもや私の体は何らかの力に抑え込まれ、体が動かなくなってしまった。 あれ、おかしい。 シートベルトは外したはずなのに。 疑問を抱いた次の瞬間に、事態を把握する。 いつの間にか自らのシートベルトを外していた千春くんが、身を乗り出して私の体を両腕で押さえ込んでいた。 一気に近づいた距離。 目の前に迫った千春くんの顔が、斜めに傾く。 「……!」 ふわっと唇に熱が触れる。 突然の触れ合いはまだ慣れなくて、瞬時に体が強張ってしまう。 そんな私の様子なんて意にも介さず、千春くんはゆっくりとした動きで口付けを施してくる。 どうしよう。 こんなの、誰かに見られたら。 時間は既に21時過ぎ。 こんな時間に、この通りを歩いている人なんていないとわかっていても、気になってしまう。不安に駆られながらも、それでもこの人を止められない私も大概だ。 だって、好きな人のキスは、拒めません。 さっきまで和やかだった空気は一変して、車内は甘やかな雰囲気を醸し出している。周囲に人がいたらと気が焦る一方で、この雰囲気に流されたいと思う自分もいた。2つの気持ちがせめぎ合う間も、キスは止む気配がない。 「ん……っ」 徐々に、頭がぼんやりとしてくる。 肩の力が抜けて、胸に抱いていた不安も薄れていく。 千春くん、いい匂いする。 香水かな……? 掠めるようなキスを何度か繰り返して、彼の唇がゆっくりと離れていく。名残惜しそうに、ちゅ、と啄ばむような軽いキスが最後に落ちた。 薄く目を開いてみる。至近距離に綺麗な顔があって、甘さを伴った瞳を細めて、ふ、と優しく微笑む。一気に心拍数が上がった。 うう、胸キュンです。 「や、だ」 「……なに?」 「その顔、だめ」 「どの顔?」 「あ、甘い顔しないで」 「甘かった? ごめんね、無意識だった」 「……っ」 ますます顔に熱が上がっていく。 目の前にある千春くんの顔がとっても楽しそうで、またもや彼の手のひらでころころと転がされている自分に気付く。もうどうにもならなくなった私は、そのまま千春くんの胸に額を押し付けて泣き喚いた。ぽかぽかと両手で胸を叩くオプション付き。 「ずるい、ずるいのっ」 「何が?」 「も、なんか、色々ズルい……!」 そんな、私が嬉しがる様な事をさらっと言うところがズルくて、卑怯で、嬉しい。 遠まわしに特別感を匂わせるから、私はいつも舞い上がってしまう。翻弄されっぱなしだ。 その度に思い知らされる。 自分がどれ程単純で、子供なのか。 8つの年の差は経験値的にやっぱり大きい。 「莉緒」 胸に顔を埋めたまま、うーうー唸っている私の背中に、千春くんの両腕が回る。 そのまま抱き寄せられた。 完全に密着している訳じゃないけど、小さい私の体は、すっぽりと腕の中に収まっている。 コート越しだと千春くんの体温が直に伝わらなくて、それだけがちょっぴり寂しい。 「今度、いつ会える?」 心地いい低音が耳元に落ちる。 それは彼が、帰り際に決まって言う台詞。 仕事終わりに2人で会った時、帰りはいつも彼が家まで送ってくれる。そして千春くんはいつも、次に会う日の約束をその場で取り付けてくれる。 私は今まで彼氏がいた事が無い。 恋愛経験すらほぼ皆無。 そんな私が不安にならないように、千春くんが色々と気を遣ってくれているの、ちゃんと気付いてる。千春くんはいつも私の為に考えてくれている。 こういう所がどうしようもなく、好きなんです。 ………だけど。 「……千春くんは」 「うん?」 「いつ、私に会いたいですか」 質問に質問で返してみる。 本当は、私は毎日だって会いたい。 でもそれを伝えたら、千春くんを困らせてしまうんじゃないかと思うと言えなかった。 それに、「明日も会いたい」なんて男の人にとってはちょっと重過ぎるんじゃないかな。 引かれたらどうしよう。 子供だって呆られたらどうしよう。 そう思う度に遠慮してしまって、会う日は大体4、5日開いた頃になっていた。 「俺?」 「はい」 「明日」 「………」 被った。 「え、莉緒は俺に毎日会いたくないの?」 「え? あ、えっと」 「あーそう。そう思ってたのは俺だけかー」 「や、あのっ」 「あーショックだわ。ショックすぎて半年くらい寝込みそう」 「………」 これは、なんだろう。 いつもの軽い冗談? それとも、本当にそう思ってくれてる? もし後者なら、飛び上がるくらい嬉しいけれど。 「疑いの目をやめてください。傷つきます」 「ご、ごめんなさい」 「で?」 「う?」 「毎日会いたくないの?」 体を離して、覗き込むように見つめられる。 千春くんの表情も眼差しも、からかっているような色は見えない。 ……言っても、いいのかな? 「……ま」 「うん」 「まいにち……なんかじゃ足りないくらい、会いたいです」 ……本当は。 本当はいつも、バイバイした直後に、もう会いたくなってる。寂しくなってる。いつも。 離れたくない、帰りたくない。なんて言えない。千春くんを困らせるのは嫌だし、私の帰りを待ってる家族がいるのに、そんな無責任なこと言えない。言えるわけがないって、そう思って。 『一緒にいるだけで嬉しい』 いつの日か、千春くんに伝えた言葉。 無い物ねだりはしないって決めていたのに、一緒にいられるようになった途端、もっと先を望んでしまう。欲張りになってしまう。 私は、嘘つきだ。 どうしよう。言ってしまった手前、「冗談です」なんて誤魔化すことなんて出来ない。負の思考ばかりが、ぐるぐると巡る。 その時、ぴた、と両頬に手が触れた。 千春くんの両手が私の両頬を挟み込んでいて、そのまま誘導されて上を向かされた。 見上げた先にあるのは、優しく微笑む千春くんの顔。これ以上ないくらいの、甘さを纏った柔らかな笑み。コツン、額と額がぶつかった。 「うん、俺も毎日じゃ足りないくらいだよ」 「……っ」 ……やっぱり、この人はズルいです。 私の迷いなんて当にお見通しで、その上で言わされたんだ。やっぱり、ズルい。 「週末、泊まりに来る?」 「え?」 「おいで」 突然のお誘いに、はた、と瞬きが落ちる。 千春くんは穏やかな表情のまま、私の様子を窺っている。 「いいんですか?」 「泊まりに行きたいって言ったのは莉緒だよ」 「あ……」 覚えててくれてたんだ。 「まあ、その2日後からGWだけどね」 「……うん」 「どうする? GWも泊まりに来る?」 「……いい、のかな」 迷いが生まれる。 千春くんが、私を部屋に泊めない理由。 まだ私達は付き合い始めたばかりだから、それも理由のひとつ。 でも一番の理由は、私が未成年だから。 そして、元生徒だから。 高校の教師が、今年卒業したばかりの生徒を家に泊めてるなんて周囲に知られたら、千春くんの印象は悪くなる。悪い噂が立ってしまうかもしれない。私のワガママで、千春くんの立場を危うくする訳にはいかないんだ。 それに私には家族がいるから、両親や弟達に遠慮してた部分も、千春くんにはあったんだと思う。 一度だけ泊まったことはあるけれど、あれは私が夜遅くまで寝落ちしてしまったからで、翌日は朝ごはんを2人で食べた後にすぐお別れした。だから一緒にいられたのは、半日くらい。 ……泊まりに、行ってみたい。 1日中、一緒に過ごしてみたい。 でも。 「……ちょっと、考えさせて貰ってもいいですか?」 トップページ |