名前を呼ぶお話。2-先生side- 『あ? なに千春。今忙しいんだけど!』 先日、高校の後輩達と偶然会った飲み屋の看板娘、兼友人のナオは、明らかに不機嫌さを滲ませた声音で開口一番、俺を責め始めた。 それも当然だ。 今や21時過ぎ、これから飲み屋が忙しくなる時間帯だ。 『それとも何? 今から店来るの?』 「名前よばれた」 『は?』 「だから、名前よばれた」 『いや何の話………あっ、りおちゃん?』 「うん」 『あ、そう。よかったねー名前呼び。用件終わったなら切るよ、忙しいから』 「悪かった」 別に喜びを分かち合いたかったわけじゃないけれど、素っ気無い反応に舞い上がっていた気持ちがすっと冷えた。 ちょっと、興奮してしまった。 中学生じゃあるまいし。 ナオに一言詫びてから通話終了のボタンを押そうとした時、受話器の向こうから、周囲のざわめきに混じって声が掛かる。 『……千春』 「何?」 『いつまでも、教師だの元生徒だのグダグダ悩んでんじゃないわよ』 「……わかってるよ」 『ん、じゃあね』 慌しく電話を切ったナオに苦笑しながら、またスマホをポケットに戻す。 さすが、吉原という水商売屈指の激戦区でトップの座まで登り詰めた元キャバ嬢だ。俺の心の内にある迷いなんて、アイツはいともあっさり見抜いてしまう。付き合いが長い分、ナオには昔から頭が上がらない。 香坂の部屋に戻ろうかと思ったが、一度階段を下りて、明かりの漏れる居間を覗き込む。既に帰宅していた2人の弟達と樹さんが、菓子を手に取りながら互いに談笑していた。 香坂の母親でもある莉子さんの姿が無いということは、仕事が長引いているのだろう。まだ帰宅していないようだった。 俺の気配に気付いた樹さんに事情を話し、濡れたタオルと体温計を借りておく。ガラスコップに水を溜めてから、再び階段を上がった。控えめに扉をノックする。 「……あ、先生?」 「うん。開けていい?」 「はい」 もう一度室内に足を踏み入れる。 上半身を起こして香坂は俺を見つめていた。 頬はまだ赤いが、顔色はさほど悪くない。 「……あの、ネバーランドへは行ってきた…んですか?」 「うん」 「そ、そうですか……楽しかったですか?」 「なかなか快適な旅だったよ」 「はあ……」 「喉乾いてない? 水飲む?」 「あ、いただきます」 ベッド端の空いているスペースに座り、冷えたコップを差し出す。大人しく受け取った香坂は、そのままこくこくと飲み始めた。 ……一気飲みだ。 「ぷはっ」 「……もう一回水入れてこようか?」 「いえ、だいじょうぶですっ」 「そう?」 「大変おいしいお水でした」 「……ただの水道水だけどね」 笑いながら突っ込みを入れると、何故か香坂は俯き加減になってしまった。 真っ直ぐに伸びた黒髪の一部が、胸元に滑り落ちていく。髪の隙間から覗く横顔は、緊張で強張っているように見えた。 頬の赤みが熱のせいなのか照れのせいなのかは、判断がつかない。 「ち……、千春くんがくれたものは、な、なんでも、おいしいんですっ」 捲し立てるように口に出す。 そこで気付く。 水を一気飲みするほど喉が渇いていたのは、熱のせいじゃなくて、極度の緊張状態にあったからかもしれない。 名前を呼ばれただけ。 それだけで、その場にいられないほど舞い上がってしまった俺と同じくらい、香坂も、俺の名前を呼ぶだけの事に時間と勇気を掛けていたのかもしれない。俺の勝手な思い込みだけど、間違ってはいないと思う。 香坂の手からガラスコップを抜き取って、小さな手に触れる。ぴくんと僅かに肩が揺れて、戸惑いに揺れる瞳が俺に向いた。 「もっかい言って」 「え……」 「名前」 「……ち、千春、くん」 「今度から、そう呼んで」 「怒ってない……ですか?」 「なんで?」 「……8つも年上の人に、名前で呼んでいいのかなって……」 控えめに理由を告げられる。 そんな事で怒ったりしないし、むしろ嬉しすぎるというか。 「なんで、急に名前で呼びだしたのか、聞いてもいい?」 「……あの」 「うん」 「……メグちゃん、ずっと先生の事、あだ名で呼んでた」 「メグ……ああ、川嶋か」 一人の生徒の顔が、頭に浮かぶ。 香坂と仲が良かった生徒の名前だ。 川嶋はとにかくバカがつくほど明るくて、人見知りも一切しない奴だった。転入してきたばかりの香坂とも、あっさり打ち解けていたのを覚えている。アイドル好きで、綺麗なもの格好いいものが大好きという、典型的なミーハー少女だ。あと、声がでかい。 俺の事も、「ちーちゃん」とかふざけたあだ名で呼んで、相当気に入られていたけれど。卒業して以来、あの騒がしい声とあだ名が聞こえなくなって、ホッとする反面、少し物寂しい気持ちはあった。 元気にしてるのか…… いや、してるだろうな、アレは。 「あんな呼び方、川嶋しかしてなかったけどね」 「うん……でも」 「ん?」 「……ずっと、羨ましかったから」 「………」 搾り出すように告げられた告白に、無性に抱きしめたい衝動に駆られる。有無を言わさず引き寄せて、腕の中に閉じ込めた。 香坂は一瞬だけ驚いた表情を見せたけど、抵抗することなく、俺の胸に身を預けている。 「……わたし」 「うん」 「ち、千春くんの、彼女です」 「………」 「いつまでも、先生の影を追ってばかりじゃ、いけないのです」 「……うん」 「……だ、だから……その、名前を呼ぶところから、始めようかな……って」 「……そっか」 さっきの、ナオの言葉が頭をよぎる。 香坂に我慢ばかりさせてたとか、彼女の隣にいるのが教師の俺でいいのかとか、俺がそう悩んでいる一方で、香坂は" 元生徒 "という縛りから卒業するために、色々と考えてくれていた。いつまでも元教え子という立場を引きずっている俺とは全然違う。 そうだった。 この子は悩む前に、まず先に動く子だった。 悩んでばかりいても物事は解決するわけじゃなくて、時間が解決してくれるわけでもない。香坂が自ら考えて動く背景には、常にその考えが根本にあるからだ。 けど香坂だって馬鹿じゃない。 後先考えず、安易に軽はずみな行動をするような子じゃない。 俺を名前で呼び始めたのも、そこに至るまで彼女なりに思うことがあったんだろう。 教師と生徒だった期間が長かった分、どうしてもその意識が抜け切れない部分はある。でもそれでは駄目だと香坂は言った。 彼女の意思を聞いて、胸の奥で渦巻いていた迷いが吹っ切れた気がする。香坂が気に病んでもいない事を、俺がいつまでもズルズル引きずっていても、仕方のない事だ。 どうしたって俺は香坂が好きで、ずっと傍にいたいし、いてあげたい。 悩んだところで結局、答えはそこに辿り着く。 格好つけたところで本当は、香坂から離れる覚悟なんてできない、したくも無いんだ。 彼女がまだ高校生の時、母親の莉子さんから言われた事を思い出した。互いに気持ちが向き合っているうちは、自分達の好きなようにすればいい、と。 教師と生徒の恋愛は許されないものだという風潮が強い中、莉子さんはそんな世間の概念などそっちのけで、俺達が交際することを許してくれた一番最初の理解者だ。こんな悩みを抱えてること自体、香坂だけじゃなく、莉子さんに対しても失礼な気がした。 いや、莉子さんだけじゃない。 樹さん、弟達や香坂の友人、そしてナオも。 自分達を影ながら応援してくれた仲間は意外にも沢山いて、そんな人達がいたから、今の俺達がいる。 今在る幸せは、決して自分達だけで築き上げてきたものだけじゃない。 「……俺も、名前で呼んでいいかな」 「え、あっ、はい!」 「うん。……莉緒」 「………は、は、はひっ」 「声裏返ってるよ」 「せ、せんせ……じゃない、千春、くんのせい、だもん」 「はは」 「先生」という呼び方が定着しているからか、すんなりと名前で呼ぶのはなかなか難しいようで、会話の途中で香坂……じゃない、莉緒は何度も名前を呼ぼうとして、その度に言葉を詰まらせていた。そんなに必死にならなくても、少しずつ慣れていけばいいと伝えれば、いつも通りの笑顔に変わる。 ……そうだ、互いに気持ちが向き合っているうちは一緒にいると決めたんだ。 時間だってたくさんある。 焦る必要なんてない、ゆっくり恋人同士になっていけばいい。 「あ、そうだ。俺、莉緒に用事があって今日来たんだ」 「え。そうなんですか?」 俺の腕の中にいた莉緒は、少しだけ体を離して顔を上げた。こて、と首を傾げてる本人は、俺の用事が何なのか皆目検討もついていないようだ。 俺がどうして今日、こんな時間に莉緒の家にいるのか。 それは、その"用事"を莉緒に伝える為だ。 その用件を果たすべく彼女の部屋を訪れてみれば、肝心の本人は弟達と一緒に眠っている。きっと疲れているのだろうと思い、声は掛けずに扉を閉めた。 彼女が起きるまで待たせてもらおうと思った矢先、樹さんにビールを勧められ、途中で目が覚めた莉緒と顔を合わせたわけだ。 樹さんが外出中に洗面所へ向かったのも、その用事を莉緒に告げようと思ったからだ。 途中からすっかり意図が変わって、彼女にちょっかいを出してしまったけれど。 「莉緒さ。4月だよね?」 「え?」 「誕生日」 「あ……」 「おめでとう。遅くなっちゃったけど、誕生日プレゼント買ってきたから」 「……え、ほ、ほんとに?」 ほわ、と頬がまた赤く染まる。 熱のせいじゃないのは、見ていてわかる。 「うん。でも、ごめんね。そのプレゼント、今手元に無いんだ」 「あ……そうなんですか?」 「うん。ちょっとね、大きすぎてこっちに持ってこれなかったというか」 「……へ?」 「だから、今は写メで我慢してね」 取り出したスマホを操作して、画像フォルダを開く。そのうちのひとつをタップして、彼女に差し向けた。 スマホを受け取った莉緒の視線が、画面に注がれる。その瞳が、驚愕に見開いた。 「こっ……こ、これは! にゃ、にゃにゃにゃ、にゃん汰先生の特大級ぬいぐるみデラックス!!」 「身長80cmです」 「はっ、はちじゅうせんち!」 ふわあああ! と、謎の奇声を上げて莉緒は吠えた。興奮度MAXだ。 にゃん汰先生とは、毎週日曜日の早朝6時に放映している子供向けテレビアニメ、『それいけ! にゃん汰先生』の主人公の名前だ。 見た目は可愛いのに中身がワイルドで格好いいと、子供達だけじゃなく学生、主婦の間で絶大な人気を博している。かくいう莉緒もにゃん汰先生の大ファンで、キャラクターグッズを買い揃えるほどの熱狂っぶりだった。学生の頃から、にゃん汰先生の話題を事あるごとに口にしていたが、1年経った今でも、ヤツへの愛は衰えてはいないようだ。 俺のスマホ画面には、にゃん汰先生DX(80cm)が、ソファーのド真ん中に陣とっている様が映し出されている。 なかなかのデカさだ。威圧感も半端ない。 お陰でうちのアホ猫がびびって、ゲージに引きこもってしまった。 「これね、樹さんと2人で買ってきた」 「お父さんと?」 「うん。でも樹さんが、こっちに持ってこない方がいいって。なので今、俺の部屋で自宅待機中です」 「どうして?」 「ちびっこ達の餌食になりそうだから」 「あ……なるほど」 「色気ないプレゼントでごめんね」 「そんな、すごく嬉しいです! 早く会ってみたいです!」 「うん、早めに会ってあげて」 すっかり元気を取り戻した莉緒は、満点の笑顔を向けながら、俺にぺこぺこと頭を下げた。眠気も吹き飛んでしまったようだ。 にゃん汰先生ファンの莉緒だから、こんなリアクションもまあ予想範囲内ではあったけれど、内心、少し不安もあった。 本当は女の子が喜ぶようなものをあげたかった。それこそネックレスとかピアスとか、思い浮かぶものなら沢山ある。 けれど今まで恋愛経験も浅く、男との交際経験もない莉緒は、好きな男からプレゼントを貰うという経験もないようだった。 そんな彼女に何をあげたらいいかと考えた時、高値の物はあげてはいけない気がした。莉緒の事だから、きっと気に病んでしまう。 アクセサリー系は、彼女の好みがまだわからなかったから却下した。 バッグや腕時計は少し敷居が高いような気がするし、何より、そういうものは彼女が成人を迎えた時にあげたいと思っていた。 莉緒が素直に、一番喜ぶものって何だ─── と、そう考えたときに真っ先に頭に浮かんだのが、情けないが、にゃん汰先生だった。 樹さんに相談すると、例のDXを紹介された。 さすがにチョイスが……と思ったが、樹さんは、「莉緒なら絶対に喜びます」と言い切った。 その表情は自信に満ち溢れている。 そして現在。 この反応である。 さすが、父親はよくわかってる。 しばし興奮やまぬ様子だった莉緒は、突然ぴたりと動きを止めた。何かを思いついたように、俺を見上げてくる。 「……千春くん、誕生日いつ?」 「4月です」 「…………へ」 ぱちぱちと、大きな瞳が瞬いた。 「え、え? 4月のいつですか?」 「29日」 「えー!?」 「何もいらないよ?」 「えっ、そ、そんな」 「気持ちだけで十分だから」 「か、彼氏のお誕生日くらい、なにかしたいです」 ……なんて顔赤くしながらぽつりと呟く。 健気過ぎて可愛い。 この子ならきっと、彼氏とか関係なく祝ってくれるんだろうとは思うけど。 「じゃあ、楽しみに待っていようかな」 「あ、はい! がんばりますっ!」 「あんまり豪勢なものにしなくていいからね」 「わあ、どうしよう。おっきなイベントが増えちゃった」 「お泊りデートも控えてるしね」 そう言いながら、いまだにデートの日程がはっきり決まっていない事を思い出した。 暇があればスマホで検索しているものの、デートスポットらしき場所はどこも混んでいて、ホテルすら満席ばかりで泊まれないような状況だ。 GWだから仕方ないとはいえ、これが初めてのデートなんだし、それなりに気合入れたかったのが正直なところ。 でも、あまり気合を入れすぎても莉緒が萎縮してしまうかもしれないし、彼女自身も仕事で少し疲れてる。遊べる場所より、ゆっくりできるところがいいかもしれない。 「………あ」 「?」 「いや、なんでもない」 ひとつ、思い浮かんだ所がある。 そこは俺も何度か赴いた場所で、いつか莉緒も連れて行きたいと思っていたところだった。そこなら、泊まれない事も無い。 「来年の誕生日プレゼントは、俺が選んで買うからね」 「あ……」 プレゼントよりも「来年」の言葉に反応した莉緒の顔が、嬉しさで滲んでいく。 俺のスマホを握ったまま、ぎゅっと胸にしがみついてきた。 「もう、幸せすぎてどうしよう」 「どうもしなくていいんじゃない?」 「う、うん」 「……莉緒」 「はい」 「これからもよろしくね」 この先も、この子とは色々あるだろう。 苦難とか、障害もあるかもしれない。 それでも、あの後輩の幼馴染み達のように、2人で積み重ねていく時間の中で絆も深めていけたら、どんな困難だって乗り越えられるような気がした。 「……はい。よろしくね、千春くん」 ふわりと、纏う空気が変わる。 まるで花が咲き誇るような、その日最高の笑顔を、彼女は俺にくれた。 トップページ |