名前を呼ぶお話。1-先生side- 「……香坂」 「………」 「香坂サン」 「………」 「ごめん。反省してるから、いい加減出ておいで」 「………」 頭から毛布を被ったまま、丸まっている塊に話しかけるも応える声はない。 俺の必死な呼び掛けは見事にスルーされて、この空間に虚しく消えていった。 ・・・ 香坂の家は2階建ての一軒家だ。 もともとは空き家だったようで、築50年以上の古民家に移り住んだ。一家が東京に引っ越してきた、1年前の話だ。 無人と化して数十年と経つ家の中はなかなか酷い有様だったようで、家族総出で、1週間も掛けて大掃除をしたと言っていた。 1階には居間や台所、風呂場などがあり、2階は各それぞれの部屋が割り当てられている。古い家ではあるが、時間を掛けて掃除と修繕を手がけてきたお陰で空き家だった頃の惨状を感じさせないほど、居心地のいい空間へと生まれ変わった。 長女として育った香坂は弟達の面倒を見ることが多く、両親ともども苦労してきた事も多々あったようだ。お陰様で香坂の料理や家事スキルは、その辺の女子に比べても軒並み、高い。 話を元に戻す。 香坂家の2階奥にある、彼女の部屋に俺は今、居座っている。目の前には本人もいる。 彼女の自宅に来るのは初めてではないが、本人の部屋に直接足を踏み入れたのは今日が初めてだ。 青や緑系統の爽やかな色合いを好む彼女は、部屋に置いてある雑貨や装飾品も、青や水色を中心に揃えている。不必要な物を極力部屋に置かない主義の俺とは違い、香坂の部屋は様々な愛らしい物で溢れていた。そこはやはり、女の子らしさが見える。 けど、物が多くても綺麗に整理整頓し尽くされたこの空間は窮屈さを感じない。それでいて派手過ぎない、彼女らしい作りではあった。 その部屋の主は今、ベッドの上にぺたんと座り込んでいる。水玉模様の毛布を頭から被り、くるくると身をくるんで外界との接触を遮断していた。 ───あの後。 香坂はすぐシャワーを浴びて自室に戻ってしまったので、時間が経ってから彼女の部屋を訪れた。 ベッドで寝ていたチビ達の姿は既になかったが、その代わり、こんもりとした毛布の塊がベッドの上に鎮座している。当然その塊が何か、というより誰かなんてすぐにわかるわけで、話しかけてみるも、応答はない。 俺が何を言っても微動だにしない。 反論する素振りも無い。 この強硬な態度は、今、俺と関わりたくないという彼女の意思表示なのだろう。 つまり、拗ねている。 「……香坂」 「………」 「ほんとにごめん。自分の家であんな事、嫌だったよな」 「………」 「……ごめん」 こうして何度も謝ってはいるものの、香坂は一向に耳を傾けない。これはかなりの不機嫌具合だ。長引くかもしれない。 こんな事態に陥っているのは完全に自分に非があって、ここで頑なに拒絶の態度を見せる香坂を責めるのはお門違いだ。 とはいえ、このやり取りももう何度目か。 さすがにしんどくなってきた。 どうしたものかと考えていた、その時───耳に届いた、毛布の擦れる音。布と布の合間から、香坂の顔がにょき、と出現した。 向けられた瞳は、何故かぽやんとしている。触ると気持ち良さそうなほっぺは、うっすらと赤く染まっていた。 拗ねているかと思いきや、やっと拝見できた彼女の表情は、拗ね顔どころか怒っている風には全く見えなかった。それどころか、 「……あれ、先生?」 俺が此処にずっといた事を、今知ったかのような口ぶりに聞こえた。 吐き出される息は、どこか熱が篭ってる。 ……………熱? 「香坂、ちょっとごめんね」 「う……?」 彼女の額に手を当てる。 「……香坂、熱いよ」 「……ふえ?」 「風邪ひいた?」 「……かぜ」 もぞ、と今度は布の隙間から手が出現した。 額に手を当てて、うーんと唸っている。 「どうりで、なんかダルいなあって思った」 「……え、もしかして毛布にくるまってたのって、寒かったから?」 「うー……さむい」 「………」 「ちょっと、寝てたっぽいです」 「………」 今度こそ香坂に嫌われたかもしれないと、これまで何度となく抱いてきた懸念は、どうやら今回も俺の取り越し苦労で終わりそうだ。 けど、だからって「よかった」とも言える状況じゃない。 香坂の様子を見る限り、咳や鼻水などの風邪特有の症状は見られない。だとしたら風邪ではなく、知恵熱かもしれない。正しく言えば、心因性発熱。ダルいと言っていたのも、一時的な発熱による倦怠感だろう。 心因性発熱の原因は様々だけど、大半は強いストレスが原因だ。 そして香坂の場合、そのストレスが何からきてるのか考えれば、自ずと答えはわかる。 新しい職場の疲労もあるだろうが、おそらく、一番の原因は俺だ。 知っていたのに。 彼女が慣れない職場環境で、疲れが溜まっている事を。 香坂に触れたい、そんな一方的な欲に負けて、またこの子に負担を掛けるような事をしてしまった。今回だけじゃない、今回も、だ。 大事にしたい、そう思ってるのに。 実際、そう告げたのに。 最近のいじらしい彼女の姿を見ていると、どうにも加虐心を煽られて抑えが利かなくなる。 いや、この言い方だと、まるで香坂が悪いみたいに聞こえる。 この子は何も悪くない。 俺が我慢すればいいだけの話だったのに、自分の欲の赴くままに彼女に触れてしまった事を責めた。 「……先生? 心配しなくても、わたし大丈夫だよ?」 よほど変な顔つきになっていたのだろう。不安そうな表情を浮かべながら、香坂は俺を見上げてきた。熱に浮かされた瞳が揺らめいて、俺を映し出す。 「とにかく、寝て」 「……はあい」 気の抜けたような返事に苦笑する。 身を包んでいる毛布を一度広げてから、香坂はベッドの中に潜り込んだ。 布の端を引っ張って、彼女の肩まで引き寄せる。 「喉とか、関節とか痛くない?」 「痛くないです」 「そっか」 その言葉に嘘が含まれている感じはしない。強がりでも何でもなく、本当に熱と倦怠感以外の症状は無いようだ。 もし心因性による発熱なら、喉や関節が痛む事は無い。炎症を起こしてるわけではないのだから。同時に、解熱剤も一切効かないという事になるけれど。 とはいえ、「寒い」と言った一言も気になるし、風邪だという可能性も捨てきれない。どっちにしても十分な休養を取った方がよさそうだ。 枕元に両肘を置いて、頭に触れる。 額に掛かる前髪を避けて撫でると、香坂の瞳が静かに閉じた。 「……眠い?」 「ん……」 「寝てもいいよ」 「……おきてる」 「疲れてるんだから、ちゃんと寝ないとだめだよ」 どの口が言うんだろうな。 その疲労の原因は俺でもあるのに。 「起きてる」 はっきりとした口調で告げられる。どういうわけか、香坂は頑なに眠ろうとしなかった。 ぱちぱちと瞳を瞬かせたり、時折目を擦ったりして、襲い掛かる睡魔に必死に抵抗している。眠気に逆らうほど、辛いことはないだろうに。 「だって、寝ちゃったら先生、帰っちゃうもん」 「………」 「いてほしいから、起きてる」 「………」 可愛すぎか。 「……ちゃんと此処にいるから、寝なさい」 「ほんとに? 朝までいてくれる?」 「うん(多分)」 「む……」 「まだ不満?」 「せっかく先生が朝までいてくれるのに、寝るの勿体無いから、起きてる」 「それじゃあどっちにしても寝れないよ?」 子供っぽい主張を繰り返す彼女に笑い掛ける。珍しいこともあるものだと思ったのは、香坂は基本的に、誰かに甘えたり縋ったりする性格じゃないと知っているからだ。 あまり人に頼らず、自分で出来る範囲の事は自分でする。この子はそんな考えの持ち主だ。姉としての立場、そして周囲に頼る事が出来なかった家庭環境で育った影響が、今の彼女を形成したのかもしれない。 けれど本来の香坂は、典型的な構ってちゃんだ。極度の寂しがり屋で泣き虫で、好きな人には常に構われたくて、ぴったりと傍にくっついてベタベタに甘えてくる。我侭な事も平気で言う。しっかり者のイメージが定着してる彼女からは想像もつかない程のデレ具合だ。 そんな素の彼女を見た事がある人間が、これまでどれほどの数がいるんだろう。唯一心を許した人にしか、本当の姿を晒さないのが香坂だ。 そして、そんな香坂の素の姿を知っている俺は、つまり、彼女にとって心許せる人間のうちのひとり、という事になる。 「……ごめんね。今日」 「……?」 「ひどいこと、したから」 責められても当然の上で詫びを入れる。自分でも、どうしてあんなひどい事をしたのかわからなかった。無責任すぎる発言なのは重々承知だが、縛って悦ぶような性癖なんて持ち合わせていないし、今まで香坂と触れ合った中で、そんな興味や願望を抱いたことなんて一度も無かったのだから。 あの時、すっぴんを見られたくないと必死になっている香坂が可愛くて、ちょっと困らせたいと思ってしまった。彼女にとっては理不尽もいいところだ。 やっと俺から謝罪の言葉を耳にする事が出来た香坂は、そこで一瞬、気まずそうな表情を浮かべた。 毛布を頭の上まで引っ張って、ぽすんと枕ごと被ってしまう。 「………」 やっぱり、怒ってるよな。 そう思っていた時。 「…………ち…」 彼女の声らしきものが、毛布の奥から聞こえた。 「………ち」 「……?」 ………血? 「……ち……はる……くん」 「………」 …………下の名前で呼ばれた。 初めてのことだった。 「千春、くん」 「………」 「……って、たまに呼んでもいい……ですか?」 もぞ、と毛布がずれて、まんまるな両目が覗く。熱を帯びた瞳はうるうると涙ぐんでいて、毛布の端っこをぎゅっと掴んだまま、不安そうに俺を見上げていた。 その破壊力といったらない。どんなに強靭な精神の持ち主でも、この上目遣いを前にしたら、理性なんて脆く崩れるに決まってる。理性ミジンコ程度の俺なんか、既に瀕死状態だ。 完全に屍と化す前に、俺は腰を上げた。 そのまま香坂に背を向けて、部屋の扉へと歩き出す。 「え……あの、先生……?」 背後から、戸惑いを含んだ声が掛かる。 けど、振り向ける余裕が俺には無かった。 名前で呼んでくれた。ただそれだけのことなのに。 ドアノブを捻って、静かに扉を開ける。 「せ、せんせ……帰っちゃう……の?」 「帰らないよ」 「ど、どこ行くの……?」 「うん、ちょっと………あれだ。ネバーランド行ってくる」 「あ、はい……ん? ネバ……え?」 困惑気味の香坂をよそに、俺は部屋を出た。 そのまま廊下を突き進み、階段一歩手前あたりで歩みを止める。 ポケットからスマホを取り出し、着信履歴から目的の名前をタップして耳に当てる。 相手はすぐ電話に出た。 トップページ |