穏やかな交際のはずでした。


 卯月さんと付き合い始めてから変わったこと。
 どちらかの部屋に泊まった翌朝に、私が欠かさずやることが1つ増えた。

「卯月さん卯月さん卯月さん!!」
「ん?」

 靴を履き終えて振り向いた卯月さんに向かって、私はぐっとつま先立ちをした。
 顔を上げて、目を閉じて。
 行ってきますのキス待ち状態。

「ちゅ!」
「はいはい」

 今では当たり前になってしまった要求に、卯月さんは苦笑交じりに顔を近づけてきた。ふわりと爽やかな香りが鼻腔を掠め、ちゅっと可愛いキスが唇に落ちる。

「ぎゅーも!」
「わがままか」

 なんて罵りつつも、卯月さんの口調は柔らかい。満更でもなさそうな表情に安堵しながら、私はぴょんっと勢いよくジャンプした。
 広い胸めがけて飛び込めば、当然のように受け止めてくれる両腕がある。包み込むようにぎゅう……と抱き締めてくれて、それだけで身も心も満たされていく。よしよしと頭を撫でられてしまえば、嬉しくてますます調子づいてしまう私。
 卯月さんから離れたくなくて、行ってほしくなくて、彼の胸に顔を埋めてしがみついた。

「……奈々、そろそろ離れろ」
「うー、もう行っちゃうの〜」
「俺会社遅れるって」
「まだ行っちゃだめ〜」

 顔を胸に埋めたまま、首を振ってイヤイヤを繰り返す。もちろん本気じゃなくて、いわばこれは、私達なりのスキンシップのようなもの。いってらっしゃいのチューがないと、1日が始まった気がしないのだから不思議だ。
 スキンシップもやり過ぎれば、かえって相手の迷惑になることだってある。めんどくさい女だって思われたらやだな、なんて心配もあったけど、その心配も結局、杞憂に終わった。私が遠慮しちゃうと、「今日はやんねーの?」って卯月さんの方から催促してくるから、結局ハグ&キスしちゃう。今だって、文句を言いながらも卯月さんは腕を離してくれなくて、私を解放する気なんてさらさら無い、みたいな空気が伝わってくる。私達は今日も安定のバカップルだ。
 ニマニマしながら温もりを堪能していた時、卯月さんは何かを思い出したように「あ、」と声をあげた。

「奈々。ご両親の方、都合つきそうか?」

 突然の話題転換に目を丸くする。それは以前、卯月さんから提案された同棲の件。私のお母さんとお父さんに、同棲したい旨を伝えて許可を貰おうと2人で決めた約束事。卯月さんはちゃんと覚えていてくれた。
 本来であれば、その承諾はお正月に貰えるはずだった。私が実家に帰る際に、卯月さんも一緒に来てくれる予定になっていた。でも、私の両親の都合が急に悪くなってしまって、結局実家に帰れずじまいになったんだ。

 私のお母さんはAV女優。堂々と胸張って言えるようなお仕事じゃない。でも今は昔と違い、この業界で働く女優さんがメディアに出る機会が増えてきた。性への敷居が低くなって、水商売やAVという業界が身近に感じられるようになったお陰もある。
 お母さんは単体女優じゃないから、世間から名の知れているような女優じゃない。だからテレビ出演なんてほとんどないけれど、所属事務所の企画イベントやネット配信には引っ張りだこだったみたい。年末年始はかなり多忙だったと電話で聞いた。
 そしてお父さんは、AV監督。お母さんがこれだけ忙しいのであれば、業界の中枢にいるお父さんも同じくらい多忙の身。だから同棲の話も流れてしまっていた。
 2人に会えなかった事情に対して不満はなかったけれど、卯月さんはずっと気にしてくれていたみたい。「挨拶に伺うのは、奈々のご両親の時間が空いた日に合わせる」と気遣ってくれた。

「お父さんとお母さんなら、いつ来てくれても大丈夫って言ってたよ!」
「そうか……できれば近いうちに挨拶に伺いたいけど」
「急がなくても、お母さん達は逃げないよ?」
「俺は早く同棲の許可がほしいんだよ」
「えええ嬉しいいいい」

 同棲したいってことはつまり、結婚を視野に入れた交際を望んでくれているってこと。お父さんとお母さんも、同棲から2年後に結婚したって聞いたことがある。
 私はまだ学生だし、結婚って言われても正直実感は湧かない。でも一生を添い遂げる覚悟がなければ、安易に同棲したいなんて卯月さんは言わないはずだ。

 週末はいつも、互いの部屋で過ごすことが多かった私達。本当は週末だけじゃ足りないくらい、いつも一緒にいたいと思ってる。だから、同棲に憧れみたいなものはあった。おはようからおやすみまで毎日一緒にいられるなんて、想像しただけで舞い上がっちゃいそうだけど、卯月さんの覚悟を知ったら、いつまでも脳内お花畑の状態ではいられない。本気で同棲する意思があるなら、私も卯月さんとの向き合い方や将来のこと、真面目に考えなきゃいけないよね。

 ……でも。

「ねえ卯月さん」
「ん?」
「卯月さん、結婚願望ある?」
「ある」
「私が大学卒業したら結婚したい?」
「したいけど、時期は奈々に任せる」
「?」

 目を丸くしている私の鼻を、むにっと卯月さんの指が摘まむ。

「卒業してすぐ結婚、でもいいけど。奈々、就職したいんだろ」

 その一言に、つい顔が強張ってしまう。

「……うん」
「現実的な話するけど、結婚したら会社に勤めながら家のこともやらなきゃいけないから大変だぞ。俺の場合は高卒ですぐ社会人になったけど、最初の1〜2年がキツかった。プライベートにまで頭が回らないこともあった」
「……そう、なんだ」
「卒業したら、まず同棲がベストだと思う。2〜3年かけて積んできた社会経験は奈々の身になるだろうし、結婚の話を進めるのはそれからでも遅くない」
「………」

 その社会経験を積む会社さえ見つからない時は、どうしたらいいんだろう。

「奈々?」
「え?」
「どうした」
「あ、ううん。卯月さん、色々考えてくれてるんだね」
「考えすぎて、結婚より先のことまで妄想し始めたわ」
「うん?」

 結婚より先のこと……?

「家族がほしいなって」
「……かっ、」
「子供とか」
「こっ!?」

 こ、こ、こども? 赤ちゃん!?
 思わぬ単語が飛びだして目を白黒させている私に、卯月さんは困ったように笑う。

「奈々はまだ、そこまで考えられないだろ」
「え、えと、ハイ……」

 控えめに頷きながら納得する。
 そうだ、結婚と同棲は違う。ひとつ屋根の下で一緒に暮らすって意味では同じだけど、結婚はその先がある。子供をつくって家族になるという未来に繋がっている。そんな当たり前のことすら、頭の中からすっぽ抜けていた。
 同棲したらずっと一緒にいられるから嬉しいな、なんて能天気なことを考えていた自分が恥ずかしい。そして、数年先の未来まで考えてくれていた卯月さんに愛しさが募る。涙が滲むほど嬉しくて、溢れる感情の赴くままに卯月さんに抱きついた。

「ふええぇぇんもう大好きいいぃ」
「泣くか叫ぶかどっちかにしろ」
「もう好き、ほんとに大好き」
「知ってる」
「好きすぎて胸が苦しいよおおおぉぉ」
「はいはい(笑)」

 頼もしい腕の中、卯月さんを見上げるように顔を上げる。今度はこめかみに唇が触れて、愛情こもった触れ方に嬉しくなる。

「今週末に、またこの話の続きしよう」
「楽しみだね!」

 そんな約束を交わした後に、部屋を出ていく卯月さんの背中を見送った。笑顔で。
 扉が閉まった直後、一気に脱力して顔が曇る。

「……はあ、」

 重い溜め息が漏れた。

 幸せな気分で満たされていた筈の心が、途端に暗く沈んでいく。卯月さんがちゃんと未来のことを考えてくれているのに、心の底から素直に喜べないのが心苦しい。全部、就活がうまくいっていないせいだ。
 胃がぎゅうっと痛んで、たまらずお腹を抱える。そのままトイレに向かった。

「……うー、気持ち悪い」

 便座に寄り掛かって項垂れる。吐き気と眠気がとにかく酷い。就活がこんなに辛いだなんて、私は全然知らなかった。
 内定取れなかったらどうしよう、就活失敗したらどうしようって、一人になると頭の中でこの2つがぐるぐる回る。

 内定をひとつも取れていない私を、卯月さんはどう思ってるんだろう。さすがに彼女がニートだなんて、卯月さんも嫌だよね? 街で一緒に並んで歩くのも恥ずかしいよね?

 ……大学、行きたくないな……。

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