あなたは近くて遠い人。


 真夜中に目が覚めた。

 寝起きで朦朧としていた意識は、ある事に気づいた瞬間に覚醒する。数時間前まで隣にあったはずの気配が、跡形もなく消えていた。
 空いたスペースに手を伸ばしても、シーツに温もりは感じられない。部屋中を見渡しても、ベッドの主の姿はない。
 とはいえ、驚きや焦りはない。
 彼が今どこにいて、何をしているのか。私にはもうわかっているから。



 ベッドから降りて、リビングに目を向ける。
 スタンドライトの光を頼りに、卯月さんはノートパソコンと向かい合っていた。
 普段は使用しない眼鏡を着用し、時折目をこすりながら、キーボードを打ち込んでいる。
 ぼんやりとした薄明かりに照らされた横顔は、傍目から見てもわかるほど、疲労の色が滲み出ていた。



 季節は冬に差し掛かり、12月を迎えた。
 1年の締め括りとなる繁盛期。卯月さんの会社も例外ではなく、多忙を極めているみたいだ。
 休日返上で出勤が当たり前になってきて、以前よりも残業も増えた。週末の夜は一緒に過ごせているけれど、休みに関わらず仕事の電話が掛かってきたりして、何となく落ち着かない。卯月さんも心なしか、口数が少ない気がする。
 それでも彼は、疲れている素振りを私の前では見せない。
 週末前には必ず連絡をくれるし、一緒に夕飯も作ってくれるし、くまちゃんにも構ってくれる。ご飯もお風呂も変わらず一緒。
 多忙な毎日でも、私との時間を作ってくれるのは嬉しかった。

 でも、本当は無理してるんだと思う。

 こうして一緒にベッドに潜っても、私が寝付いた頃を見計らって、卯月さんは寝室を出る。リビングでパソコンを立ち上げて、深夜まで黙々と仕事をしてる。その事に私は気づいてる。
 この後ろ姿も、最近ではすっかり見慣れてしまった。

 卯月さんは営業職だ。しかも、主任……? だったかな。名前忘れちゃったけど、一般の営業社員より、少しだけお偉いさんの立場にいる。クラスの学級委員長みたいな感じかな。
 だからその分、重い責任も背負ってる。
 失敗も手抜きも許されないし、社員のフォローもしていかなきゃいけない。責任感の強い卯月さんの事だ、ながら思考なんて彼は絶対にしない。仕事をしている時の卯月さんは、本当に、仕事のことしか考えていない。

 営業職は、時間的にも人間関係的にもストレスフルな職場だって聞いたことがある。実際、そうなんだと思う。
 でも卯月さんは、絶対に私の前で、弱音も愚痴も吐かないんだ。
 いつもスーツをびしっと着こなして、身だしなみもキッチリしてる。ビジネスバッグを片手にコツコツ鳴らす靴音すら様になっていて、営業の第一線で働く彼は本当に格好いいし、頼もしく見える。その華やかさの裏にはとてつもない苦労と努力があるんだって、こうして深夜に仕事をしている彼の後ろ姿を見て思い知らされた。
 それを感じさせない振る舞いが出来る卯月さんは、やっぱり私よりもずっと大人で、自慢の彼氏で、心底尊敬できる人だと改めて思う。彼女として、ずっと近くで応援していたい。そう思える人だった。

 ゆっくりと、忍び足でリビングに足を踏み入れる。卯月さんは仕事に集中しているせいか、私の気配に気づいていない。
 そのまま彼の背後を通りすぎて、キッチンへと向かった。



・・・



「卯月さん、ホットコーヒー飲む?」

 私の呼びかけに、彼はやっと顔を上げた。
 いつものポーカーフェイスはどこへやら、私を見上げる顔は驚きに満ちている。困惑している彼の視線が、私の手元のカップに注がれた。

「……え、あ、奈々?」
「うん」
「起きてたのか」
「うん。コーヒー飲む?」
「あ、あー……飲む」
「ちょっと待っててね」

 再びキッチンへと戻って、卯月さん絶賛のフレーバーコーヒーを用意する。バニラとナッツの香りが特徴のバニラマカダミアと、更にミルクも一緒に注いでいく。
 超甘党の卯月さんは、ブラックコーヒーなんて絶対に口にしない。砂糖やミルクをたっぷり淹れないと飲んでくれないし、カフェラテやココアミルクが大好物。卵焼きも、絶対甘くないとイヤだって言ってた。大人なのに味覚が子供っぽくてかわいい。

「はい、どうぞ」
「サンキュ」

 コーヒーカップを手渡した後、彼の隣に座る。ぴったり寄り添っても、卯月さんは文句を言わない。小さく息を漏らしながら、甘いコーヒーの味わいを堪能してる。
 根を詰めて仕事をしていたんだろう。固かった表情も、今は柔らかいものに変わっている。少しだけ安堵した。

「大変だね、夜中まで」
「これが俺の仕事だからな」
「体、大丈夫?」
「へーき。うまいモン食わせてもらってるし」

 軽い口振りに、私は苦笑いを浮かべる。
 本当は疲れてるくせに、平気な振りをして大人の余裕を見せてくる。その上で、私を持ち上げる言い方をする。
 美味しいものを食べさせてもらっているのは私の方だし、お世話になりっぱなしなのも、いつも私の方なのに。


 本当は私、気づいてるんだ。
 私が卯月さんの、重荷になっていることに。


 学生と社会人の差。それを感じることは度々あったけれど、今この時ほど、この差を疎ましく思ったことはない。
 学生の私には、卯月さんの大変さを計り知ることは出来ない。卯月さんも、学生の私に仕事の話なんて出来るわけがない。
 私はどうしたって、卯月さんに何かをしてあげられる立場にない。
 本音を言えば甘えてほしいし、愚痴も、弱音だって沢山吐いてほしい。それで卯月さんの心が軽くなるなら、いくらだって聞くのに。でも彼の性格を考えたら、そんな日はきっと来ない。卯月さんは、人に弱いところを見せたりはしないから。仕事に関しては、特に。彼のプライドが、それを許さない。
 だから私も何も言わない。
 高卒ですぐ入社して、実績を積んできた。営業畑一筋で、ここまで頑張ってきた。そんな人に、「弱音吐いてもいいよ」なんて言っても、卯月さんの心には何も響かない気がした。プライドを傷つけてしまうような気がして、何も言えなかった。
 既に頑張っている人に「仕事頑張って」なんて言うのは違う気がするし、もし彼を気遣って言える言葉があるとすれば、

「私に合わせなくてもいいよ」

 多分、これが一番彼の為になる。

 私と一緒にいる時間を減らせば、彼は仕事に集中できる。余計な負担をかけずに済む。
 仕事が大変なのは変わらずとも、精神的にも肉体的にも、彼の負担は軽くなるはずだ。

 ……その一言を、難なく言えるなら苦労はしない。

「奈々」
「うん?」
「今、なに考えてる」

 まるで私の心の中を見透かしているような口調だった。ううん、きっと卯月さんは気づいてる。私の胸の内にある葛藤も、学生と社会人の壁に歯痒い思いをしていることも。
 でも彼も何も言わない。
 私が、卯月さんの仕事に干渉しないように心掛けていることを、彼はもう知ってる。何も言わないのは、そんな私の気持ちを尊重してくれてるから。彼も、私のプライドを守ろうとしてくれてる。

 お互い、必要以上に踏み込まない。
 遠からず、でも近すぎずな距離でいたい。
 相手の重荷にはなりたくないから。

「あのね、卯月さん」
「ん?」
「会う回数、減らす?」

 私にしては、かなり勇気を振り絞ったと思う。週末になれば卯月さんに会える、どれだけ週末を待ち遠しく感じていたか、待ち焦がれていたか。そんな幸せを、自ら手放す選択を口にすることに、何度も心が挫けそうになったから。
 この一言を伝えるだけなのに、かなりの日数と時間を有した。やっと言葉にできたことに、妙な安心感と罪悪感が胸を占める。

 卯月さんはしばらく何も言わなかった。
 私も口を閉ざして、彼の返事を静かに待つ。

「……奈々が、そうしたいなら」
「……卯月さ、」
「―――なんて、俺が言うとでも思ったか」

 ぺち、と手のひらで額を叩かれた。
 間抜けな音が虚しく響いて、一気に緊張が解ける。肩から余分な力が抜けた。
 卯月さんはちょっと、不機嫌そうな顔してる。

「週末すら会えないとかほんと勘弁しろって。ただでさえ精神詰まりそうなのに、お前にも会えないとか、これから俺は何を楽しみに生きていけばいいんだよ」
「そ、そんな大袈裟な」
「大袈裟じゃねえよ。俺けっこう、奈々との関係に癒されてんだから」

 はた、と瞬きを繰り返す。
 癒されてる、なんて言葉が返ってくるとは思わなかったから、拍子抜けしてしまう。
 一瞬だけ浮上した気分は、けれどすぐに落ち込んだ。

「や、でも。仕事と私と、両立するの大変じゃない?」
「別に。全然余裕だわ」
「………」

 明らかに嘘だってわかるのに、そうハッキリ言い切られてしまうと、どうしていいかわからなくなる。

 どうするべきなんだろう。一緒にいたい気持ちを優先していいのか、彼の為に距離を置くべきなのか。どっちも私の本音で、譲れない願い。
 何も別れようって話じゃないし、絶対に後者の方がいいってわかってるのに、卯月さんは私の提案を否定する。その気持ちが嬉しくて、だけど申し訳なさもあって、素直に頷くことが出来ない。どの選択肢が正しいのか、マニュアルがあるなら教えてほしいくらいだ。

 答えのでない疑問が、頭の中をぐるぐる巡る。
 黙り込んだ私の頭を、卯月さんの手がくしゃくしゃと撫でた。

「頭空っぽのくせに、余計なこと考えんなよ」
「……余計、じゃないよ」
「俺が大丈夫だっつってんだから、奈々は何も気にしなくていい。いつもみたいにアホやってればいいんだ」
「アホって」

 む、としながら恨みがましい視線を向ける。
 卯月さんは相変わらず、余裕綽々の態度のままだ。

「あ、あほじゃないもん」
「アホだろ。頭の悪さが顔に滲み出てんだよハムスターみたいな顔しやがって」
「きいいいぃぃ(´;ω;`)」
「ハムスターだな(笑)」

 悔しげに唸る私に、卯月さんは可笑しそうに笑う。こんな美人を捕まえておいて、ハムスターとか納得できない。

「せめてアルパカにしてほしかった」
「そこじゃねえだろうが」

 大体アルパカ可愛くねえし、そう呟きながら卯月さんの手が離れた。カップを手に取り、中身をこくりと飲み干す。

「ごちそーさん。うまかった」
「おかわり、する?」
「いや、いい。……奈々」
「なに?」
「いつも助かってる。ありがとう」

 虚をつかれ、動きが止まる。
 何に対してのお礼なのか、わからなかった。
 驚いて顔を上げれば、互いの視線が交わる。眼鏡越しに見える瞳は、優しげに細められていた。
 慈しみに満ちた眼差しに胸が高鳴って、何も言えなくなる。

「まあ、仕事ダリーって思う時もあるよ。これから3月までクソ忙しいし、予算達成しねーとヤバいから職場は殺気立ってるし、休みもねぇし。正直、気が滅入る。でも弱音なんか吐けない。吐けるわけないだろ、俺以上に頑張ってる奴が側にいるのに」
「……え、わたし?」

 私、何か頑張ってること、あったっけ?

「そーだよ。毎日大学行って、バイトも欠かさず行って、晩飯も毎日作ってるだろ。勉強もサークルも両立して、俺との時間も作ってくれてるだろ」
「でも、それは……」

 やって当然のことだから、やってるだけだ。誉められる要素なんてどこにもない。
 大学の単位は必要だから取らなきゃいけないし、バイトは生活費の為。サークルは楽しいから続けているだけだし、夕飯だって、上達して卯月さんに褒められたいっていう不純な動機だ。それに最近は、料理も趣味になりつつある。

 必要だからやってるだけ。
 好きなことだから続けてるだけ。
 卯月さんのお仕事とは、全然違う。

「あのな、好きなことを全部両立するのも、かなりの労力が必要なんだぞ。頑張ってんのはお互い様なのに、それでも奈々は隣で笑ってくれてるだろ。その笑顔に、俺がどんだけ元気付けられてるか、知らないだろ」

 告げられる言葉の数々に、目を見開く。
 卯月さんが初めて明かしてくれた、内に秘めた想いに胸が熱くなる。

「お前すげえよ。尊敬する」
「……卯月、さん」
「奈々が頑張ってんの知ってるから、俺も頑張れる。俺がお前に合わせてるんじゃない、奈々が俺に合わせてくれてるんだ。間違えんなよ」

 照れ隠しなのか、それとも私を励まそうとしているのか。卯月さんの手が乱暴に、頭をぐしゃぐしゃに撫でてくる。お陰で髪が乱れまくったけれど、そんなこと気にもならない。感動が胸に押し寄せて、零れ落ちそうになる涙を耐えることに必死だったから。



 私がずっと思っていたこと。忙しいのに、私のために時間を割いてくれてありがとう、なんて、そんなの私の台詞なのに。卯月さんも同じことを思ってくれていたなんて、こんなのズルい。嬉しすぎる。
 卯月さんがくれる言葉ひとつひとつに、私がどれ程舞い上がってるかなんて、彼はきっと知らないんだろうな。

「う、卯月さんってば、私のこと好きすぎる」
「そーだよ。愛してるよ」
「あいっ!?」

 これまた初めて言われた言葉だった。
 ビックリして涙も引っ込んだ。

「あ? 何だよ」
「こ、これはもう結婚するしかない」
「まだ早くね?」
「幸せにします!」
「俺幸せにしたい派だから」
「はうっ」

 不覚にも萌えた。

「もう寝ろ。俺も後少しで終わるから」
「うん……卯月さん」
「ん?」
「卯月さんがベッドに戻ってくるまで私が起きてたら、ご褒美くれる?」
「それご褒美って言うのか。まあ起きてたらな、抱いてやる」
「やった」
「やったじゃねえ。さっさと寝ろ」
「はーい」

 おやすみなさい、と一言伝えてから、その場を立つ。卯月さんはまたパソコンと向かい合った。

 寝室に戻って、無人のベッドに潜り込む。
 ひとりぼっちでも、心はぽかぽか温かい。
 顔のニヤけも全然止まらなくて、これは、今日はもう眠れないかもしれない。
 眠れなかったら、後で卯月さんに責任(という名のご褒美)をとってもらおうと心に決めて、瞳を瞑る。
 次に目を開けた時、隣に卯月さんがいてくれたらいいな、なんて思いを寄せながら。








***



「って、やっぱり寝落ちしてんじゃねーかコイツ。期待した俺が馬鹿だった」
「zzz」



(了)

表紙

トップページ

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -