朝起きて、いちばんに鏡に向かう。顔を洗って歯を磨いて制服を着て髪を櫛で整える。いつも通りの朝。そしていつも通りの日常になるのだろう。(……うん、間違いない)ぼんやり思っていると遠くでお母さんの声がわたしの名前を呼んだ。反動的に、わたしはまるで時間に追われるように慌てて階段を駆け降りる。
辿り着いたテーブルには既に焼けたばかりのおいしそうな小麦色のトーストと大好きなつぶつぶ苺ジャムが詰まったガラス瓶がちょうどわたしの席の前に並んでいた。寝起き特有の間の抜けたわたしのおはようを聞くや否やお父さんはとっくにお皿の上をパン粉だけにして席を立った。どうやら今日もわたしはいちばんの寝ぼすけらしい。
マーガリンも苺ジャムもたっぷり塗ったトーストを、一口一口味わうように咀嚼しているうちに、時計の長い針が学校のチャイム的な意味でたいへん危険な数字を指しているのに気付く。これは…なかなかやばい。いってきますを少し荒くたい声で叫んだわたしは鞄を引っ掴んで玄関を飛び出た。









どすん!おでこが柔らかくもなく取り分け硬くもない何かにぶつかったせいで身体が数センチよろめいた。角を曲がるとぶつかり合いっこで運命の出会い。展開が展開すぎてまるで漫画やドラマで王道のあれを思い出させる。でもそれは絶対ない。だってよりによってぶつかった相手が丸井なんだもん。ちょこっとでも期待したわたしが馬鹿である。

「何だ…お前か」
「ちょっと、朝っぱらからすごい失礼なんだけど…」

対して痛くもない癖におでこを労るようにさするわたしに、丸井は全く謝罪する気がないような声音で「わりーわりー」と軽い調子で謝った。何それ、全然感情なんか篭ってないし。まぁ…前見てなかったわたしも悪いんだけれども。ふう、と傷心気味にため息をひとつ落としていると突然丸井は「あっ、」とわたしのため息と変わりばんこに声を漏らした。えっ、どうかしたの?びっくりして尋ねると丸井はじっとしてろと言ったのち真剣な表情になった。(ちちちちち近い…!)近くで見れば見るほど、わたしが思っていた以上に丸井は端正な顔をしている。気が付いたその分だけ、わたしの顔のパーツすべてが丸井と比べて遥かに劣っているような気持ちになってしまう。わたしは女で丸井は男。それなのにわたしより数十倍かわいい丸井。なんか…いやだ。そんな馬鹿なこと考えている間に、徐々に丸井の輪郭が明確になり距離も随分と近くなっているような気がした。頃には、もう遅かった。唇に生暖かいなめくじみたいな何かが這う感触がしてわたしは思わず変に上擦った声が出てしまう。……い、や。やだやだやだ、なになんなのこれきもちわるい。


「なっ、ななな何すんの…!」

ほぼ半泣きのわたしを見ても丸井はそれくらいで泣くなよ、みたいに目で笑うものだから本気で泣きたくなった。ひどい。…てゆうか、泣くでしょ普通は。ましてやファーストキスだったのに。何でこんなことになっちゃったのか。さいあくだ。
「べつに口に付いたジャム取ってやっただけだろぃ」軽薄な台詞に答えるように、ふざけんなと繰り出したわたしのパンチは軽々と受け止められてしまった。力仕事はきらいだとか男らしからぬ軟弱な口癖をこぼしまくっている丸井でも、普段から重り付きリストバンドを付けたりだとか過酷な練習を日々熟しているこいつにとってはわたしの拳なんて虫けら程度なんだろうか。なんて考えただけで微弱ながらにショックを受けてしまう。(それにしても、)拳を繰り出してから丸井の反応がない。やけにじっと見つめてくるなぁ、とか思っていた矢先に、久々みたいに口を開いた丸井はわたしにとんでもない一言を放った。

「なあ、もう一回やってもいい?」

がつん。今度はがっつり顎に命中した。丸井は痛そうに呻き声を上げている。ざまあみろ。グッジョブわたし。
なんて言ってる場合じゃなかった。今は日頃の鬱憤を晴らすことよりもたった今こぼれた丸井の変態発言のことの方が数倍以上、重要である。
再びわたしが手のひらを丸めて身構えていると、丸井はいらついた口調でわたしに噛み付いた。

「べつにちゅうと同じようなもんだしいいだろ!それくらいでキレんなって」
「いっ、いい訳ないでしょーが変態!だいいちわたしも丸井も付き合ってないじゃん!」
「じゃあ付き合えばいいじゃん」

何?今なんか言った?なんて、ほんとうにふざけてる場合じゃないのだ。だって、丸井の目、まじだ。
肉食獣と目が合った兎のような気持ちになったわたしは、思わず口をつぐんでしまう。下手な女の子よりかかわいいと周囲に評判な丸井の目が、ぎらぎらと男の子みたいに光っている。……いや、そういえば丸井も男の子なんだっけ。いつの間にか耳元まで移動していた丸井の上唇は、ひっそりとわたしの耳朶にぶつかった。こそばゆい感覚に肩を竦めたわたしに、尚も吐息と一緒に丸井のいつもより低い声がわたしの理性に追い撃ちを掛ける。…いやだ。わたしは変態の仲間入りなんか、果たしたくない、のに。


「じゃあさ、付き合ったらお前は何回でも俺にちゅうさせてくれる訳?」

わたしが言いたいのはそんなことじゃないのに、否定の言葉は届かないまま丸井の口の中へと虚しく消えてしまった。ばいばい。


春を唱えましょう


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