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「いや……!」

 よろめいた凜の足が背後にあった小石を蹴る。
 それが民家の壁に衝突してコツンと小さく鳴った。

 瞬間、ヴァンパイアは首だけをこちらにぐるりと回し、素早く視線を向ける。

「ひっ!」

 鋭く光る赤い目が凜を捕らえた。

「もう一人いたのか」

 飢えた獣のような瞳に、漆黒の髪。
 化け物はにやりと微笑すると、すでに事切れていた女性の死体を放り投げた。

「誰か、誰か助けて!」

 凜はその場から逃げようと、一目散に走り出す。
 必死に走りながら後ろを振り向いたが、そこにヴァンパイアの姿はなかった。
 逃げられたのだろうか、ほっと息をついて正面に向き直る。

「ヒイッ!」

 心臓が跳ねる。
 そこにヴァンパイアはいた。
 すさまじい速さで凜の元へやって来たのだ。

「喜べ、お前は今日俺の血肉となれる」

 血に濡れた顔、そして血まみれの手に長剣を握っている。
 凶暴な牙をむき出しにして笑うと、剣を真上に振りかざした。

「いや! 誰か……!」

 凜は身を固くする。
 殺される、そう思った瞬間金属がぶつかる鋭い音がした。
 どこからか一本の剣が飛来して、ヴァンパイアの剣を叩き落としたのである。
 ご丁寧に、ヴァンパイアの頬に大きな切り傷を残して。

「誰だ!」

 ヴァンパイアの頬からは、人間と変わらぬ真っ赤な血が流れ出す。
 自らの頬の血を手で撫で取ると、怒り狂ったヴァンパイアは、せわしなくあたりを見回して一軒の家の屋根にたたずむ人影を見つけた。

「貴様あ! 俺を傷つけてただですむと思うなよ」

 ヴァンパイアは長剣を拾いあげると、屋根へと大きく跳躍した。
 人間とは段違いの運動能力である。
 そのまま屋根から屋根へと飛び移っていく。
 しかしもうすでに人影は見当たらなくなってた。

「どこに隠れた!? 出て来い!」

 ヴァンパイアは激昂してあたりを見回している。

 その時、凜は突然後ろから誰かに抱きすくめられた。
 そのまま家々の隙間に押し付けられる。
 悲鳴をあげようとしても、口を手でふさがれていてできなかった。

「手を離すけど、騒がないでねお姉ちゃん」

 狼狽する凜の耳に、おだやかな声が聞こえてきた。
 後ろに視線を移すと、十歳ほどになるだろうか茶髪の少年が立っている。
 安堵してうなずくと、ゆっくりと手が離れていった。

「あなたは……?」

「静かに! 今のうちに早くこっちに来て」

 険しい表情で背後を指差した。
 そして少年は、困惑している凛の手を強引に引っ張って小路地を進みはじめる。

 繋いだ少年の手はひどく汗ばんで力がこもっている。
 凛は彼も恐怖しているのだと感じた。

 先日ナイトと一緒に通った大通りとは大違いの、寂れた裏通りを進んでいった先の家。
 少年は、その粗末で狭い家へと凛を招き入れた。

 家へ入ると同時に二人は床に倒れ込み、息が荒いのを懸命に落ち着かせる。
 家の中に入るまできょろきょろとあたりを見回して警戒していた少年も、やっと安心できたらしく表情を緩めていた。

「お姉ちゃん危なかったね。もう少しで殺されてたところだよ」

 身体を起きあがらせながら、口を尖らせ非難の表情で凛の顔を見つめてきた。

「見てたの?」

「うん」

 凛も呼吸を整えて起き上がる。

「助けてくれた人がいたの、あの人は」

 言葉を最後まで聞かないうちに、わかったというように少年は言った。

「きっとエマリエル卿だよ。あの人はすごく強いんだ、だから大丈夫さ」

「エマリエル卿?」

「うん。悪いヴァンパイアからこの街を守ってくれてるんだ」

「へーそうなんだ」

 自慢げに少年が笑うので、凜は少し安堵する。

「今は遠い街に行ってるって聞いたんだけど、きっと戻ってきてくれたんだ」

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