5-2
あれからどうやって帰ったのかわからない。
凛の記憶はぽっかりと抜け落ちていた。
ロコに化け物だと言われたことまでは覚えていたが、どうやって彼の家から出て行ったのか、いつの間に街を出たのかも忘れてしまっていた。
気がついたときにはレヴァンタイユ城の自分の部屋にいたのだった。
人間はショックなことがあると忘れようとするというが、凛はそれをまざまざと体験したのである。
「女王様! 女王ともあろうお方がそんな汚い物をお召しになるなんて。早くお脱ぎになってください」
金の刺繍が施された豪奢なベッドに腰掛けて、未だ思考が働かず呆然としている凛に向かい、侍女のティティーは悲痛な面持ちで声を高く張り上げた。
彼女に言われるまで、昨夜のヴァンパイアとの戦いで服がすっかり汚れてしまっていたことも気づかずにいた。
服だけでなく、髪の毛も全身も血と土埃にまみれている。
沈黙している凛にも構わず、ティティーはせかせかと動きまわり、部屋を出たり入ったりしながら次々といろいろな物を持ってきた。
それを凜の部屋の隅にある、金のバスタブの近くに並べていく。
凜がこの世界にきて驚いたのは、まずお風呂場がないことである。
城から抜け出す以前から、風呂は部屋の隅に設置されている黄金のバスタブなのであった。
物思いに耽っている間に、侍女達が次々と部屋を出入りしてお湯を運んでくる。
ティティーは女王に仕える侍女の中でも最も立場が上らしく、あれはここへ置けだのと指示していた。
一通りの準備が整うと侍女達は退出していく。
もちろん凜に恭しく一礼をしていくのを忘れなかった。
凛はまだロコに言われた言葉が頭から離れない。
憎悪の表情で凛を射抜き、化け物と罵倒されたことを思い出す度に、二人で過ごした楽しい日々も、脳裏に走馬灯のごとく蘇(よみがえ)ってくる。
しかしなぜか涙は出ない。
いろいろな思いがまだ混在していて涙を出すまでには至っていないのかもしれない。
「結局逃げてきたんじゃない」
ふと口をついて出た言葉が今のすべてだった。
あの街は危険だというのに、ロコを置いて逃げ出してきた。
いや、ロコから逃げ出してきたのだ。
自分には女王になる資格なんてありはしない。
「女王様、湯浴みをなさいましょう。今日こそはお手伝いさせていただけますか?」
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