03Q 6
 その後白美はリコと別れ、脱衣所で上下ある水着に着替えた。
 キュッとした水着独特の締め付け感を味わいながら、脱衣所を出る。

 途中、シャワーやら何やらを済ませ特有の肌寒さに身を震わせながら、白美はプールサイドに到着した。
 すると、そこにはいい体格をした茶髪のオッサンが待ち受けていた。

「――相田さん」

「おう」

 白美は、こげ茶色のTシャツに包まれた彼の背にゆっくりと近付き、小さく頭を下げる。

「わざわざ自分を見て頂けるなんて、この度はお世話かけます」

「……礼儀正しいとは聞いていたが、本当みたいだな。顔、上げて良いぞ」

「はい」

 白美は顔を上げると、相田リコの父にしてスポーツトレーナーである相田景虎の双眸が、自身の身体に鋭く突き刺さっていることに気が付いた。
 年齢の差、キャリアの差、経験の差――どれをとっても白美の方が確実に弱い。

(――それでも、プロの眼は……)

 白美は奥歯を微かに、ギリと鳴らした。

「……」

 景虎の沈黙は、なお続く。
 虫の居所が悪くなってしまった白美は、どうも耐えきれずに尋ねた。

「……あの、どうか、しましたか」

 しかし、そうすれば景虎は緩やかに首を振る。

「いや。さて、早速始めるとするか。――まずは準備体操からな。そっから、また俺の指示に従ってもらうぞ」

「は、はい」

 何も気にしていないかの様に言われて、白美は微かに顔をしかめた。






 景虎は、娘からその名と彼の人間性を聞いた時から、その男に注意を払っていた。

――「橙野 白美」。
 記憶が正しければ、彼は帝光中キセキの世代の天才5人と同次元にして別の空間に君臨していた、通称『トリックスター』と呼ばれる男だったはずだ。その名を知る者が少ないのは誰の仕業か知れないが、少なくとも景虎は風の噂に近い所からその情報を仕入れていた。
 
 その謎に包まれた彼が、突如姿を消した――どうやら怪我によって、というのは記憶に新しい。去年、全中が終わってからのことだ。
 そして景虎は、通常表に殆ど知れることのない「トリックスター」の振る舞いを、これもまた人伝に知り得ていた。
 
 だが、それは愛娘の言う橙野という男の性格や振る舞いとはまるで別人のもののようで。
 裏に、何かあるのではないか。
 景虎が白美のプール貸切使用をあっさり認めたのは、愛娘からの願いというのも勿論あったし、バスケの路を志す者の為というのもあったが、それだけではない。
 そこには景虎の、あわよくば白美の裏に隠されたものを知ろうする意図があった。
 人の心内を暴くのは良しとされることではないかもしれない。
 しかし、娘や、所属するバスケ部を巻き込む何かが彼の内側にあるかもしれない――そう思うと、どうしても探りたくなる。

(とは思ったんだが――、雰囲気はまるで好青年だ。水着をしっかり着込んでるしな……身体的に見てもわからんな)

「おい」

「えっ」

 景虎は、準備体操を終えようとしている白美に、横から声をかけた。
 白美は、動作を緩やかに止めて首をかしげる。
 彼は無表情ではあったが、その内側では何を言われるのか気になり、心拍が上昇するのを感じていた。

「なんでしょうか」

 数拍して、景虎が腰に手を当て言った。

「上の水着――、脱げ」

「っ……」

 微かに、だが確かに貌を歪めた白美を、景虎は容赦なく追い詰める。

「この道じゃ、娘より俺の方がずっとプロだ。それに、――フィジカル隠されちゃ指導し様がないんでな」

「……はい」

 白美は、景虎の指示に頷くざるを得なかった。
 ゆっくりと、その場で上の水着を脱ぎにかかる。
 娘の時のように、光の加減でどうこうなるものでもなさそうだった。

 間もなく、ガッチリと締まった白美の肉体が、景虎の眼に映った。
 磨き抜かれた肉体美と言って過言ではない、均整のとれたそれ。

 景虎は思わず黙り込み、彼の鍛え抜かれた身体を半ば瞠目して、まじまじと見つめてしまう。

(これは……)

(バレたなァ)

 一方白美はまるで景虎から逃げるように顔を逸らし、俯いた。

 一体をシーンとした緊張感が満たす。
 微妙な間をおいて、驚きから思案の時のそれに表情を変化させた景虎が、沈黙を破った。

「怪我だからってバスケしてないとか言う割には、化け物みたいな身体してやがるなぁ……」

 ポツリ、何かを傍観しながら感想を漏らすかの様に、低い声で呟く。
――嗚呼、悟られたな。それを聞いて白美は、息を深く吐きだした。
 しかし、それはあくまでも態度に出さず、身動き一つしないままその場に立ち尽くす。
 景虎は、そんな白美の姿をまた少しの間無言で見つめ、はぁ、と大きなため息をついた。

「顔、上げろ」

 白美に更に歩み寄る。

(こうも簡単に……。暴かれた――か)
 白美は、腹の底で激しく湧き上がりのぼらんとする感情が、漏れ出るのを遂に許した。

「――はい」

 短く低い声で返事をして、白美は貌を上げる。
 途端、オレンジの眼がギラギラとした光を漏らしながら、景虎の眼を射抜いた。
 
(おいおい、こりゃ参ったぞ)

 薄く結ばれた唇も、通った鼻も、頬の筋肉の吊り上り方も、白美がプールサイドに出てきた時から殆ど変化はなく、今なお少し景虎に暗い印象を与えようとしている。
 しかし、その眼だけは明らかに、今までの彼とは別人のそれのように見受けられた。
 
 そして視線の一つだけにも関わらず、景虎は白美から放たれた殺気とも形容できる何かに、確かに「恐怖」を感じていた。
 だからこそ、景虎は確信する。
 
(こいつは紛れもなく――)

「お、おい」

「……」

 予期せず声が震えそうになるのをなんとかごまかしながら、景虎は襲い来る白美の眼を負けじと見返した。
 なるだけ穏やかな声音を出そうと努め、一言を放つ。

「――どうやら俺が考えていたトレーニングの方針とメニューは、お前にはあわないみたいだ。数段ハードなもんに変えるぞ。キツいだろうがついてこれるよな」

「……、俺はやりますよ」

 そう言った彼の声音は、表情は、今までとはそれこそ別人だった。
 白美はもう彼の前で、口角が吊り上るのを抑えようとはしなかった。

 溜まりに溜まった衝動が、全身の血を一気に沸騰させる。
 一度放たれてしまったものは、もう留まる事を知らない。

(っ……コイツは……)

 景虎は、彼から放たれる存在感、威圧感に圧倒され、半ば引き攣った笑みを湛えながらも早速彼の指導に入る。

 その後、景虎の指導の下長時間にわたって行われた白美のトレーニングは、リハビリなどではない、明らかに現役のバスケ選手に対するそれだった。
 その間景虎は白美に何も尋ねなかったし、必要意外は言葉もかけなかった。
 ただ、彼は黙って、白美の練習に丁寧に付き合った。

(何も言わねぇ優しさも、グサグサくんだよなぁ)



 練習が終わる頃、全身から発汗したまま白美は景虎に深く頭を下げた。

「今日は、ありがとうございました」

「いつもこんな風にとはいかないが、時間が空いてるときはお前に付き合ってやってもいい。ほら、連絡先だ」

 そう言って、自身も汗をかきながら景虎は、どこからともなく白美に名刺を差し出すと、すぐさま踵を返した。
 白美は無表情で渡されるままそれを受け取り、手中にじっと眼を落す。

 やがて、景虎の姿は扉の向こうに見えなくなった。


「……フッ」

 広い空間に、一人になったとき。
 白美は景虎の連絡先が書かれた名刺を見ながら、ニヒルに口角を上げた。


――今はまだ、隠している。
 予定では、それほど長くない期間の話だ。けれど、もう既に衝動は抑えきれなくて。
 それにしても言われた通りだった。
 何より紛れもなく自分は、バスケを渇望していた。
 わかっていた。でも、こうして突き付けられてみるとありありと、喉の渇きを実感する。

 それにしても、上手く行ってよかった。
 身近に1人、監督を含むチームメイトではない――第三者にして俺を支えてくれる者が欲しかった――素直に明かせなかったのは、このどうしようもない性の為だろうと思う。

 飢えの余り、狂わない様に。倒れない様に。いざというときの為に。
相田景虎もまた、丁度その役に適任だった。

 だが、例えいくら支えてもらっても、身体づくりをしても。己の心をごまかしても。

(バスケがしたいこの衝動は、今はまだ、満たされない)


 そして同時に、砂漠の果てに何時の日か口をつける水の味を想うと――身震いするほどの激情が、込み上げた。





 家に帰宅した白美が、ベッドに寝転がって髪をかき混ぜ、ボールを抱き締めている、調度その頃。

 火神は青空の下で1人バスケに熱中していた。
 ドリブルし、シュート、ドリブル、シュート。

 ひたすら繰り返す火神の顔には、満面の笑みが咲いている。
 先日の黒子と白美の言葉が、ボールを持っているだけで、いや、持っていなくても思い出されて仕方がなかった。

(やっべー、うずうずして仕方ねぇ! 公式戦じゃなくてもいいから、早くやりてぇ!!!)

(An eager desire)

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