深く、深く ![]() 深く深く、沈んでゆく夢を見た。 目覚めは常に気だるいものだと、ユキナは思っている。 まだ夢の中に居るような微妙な浮遊感に、身体に残る少しばかりの熱。ぼやけた視界がおおまかな輪郭を得る頃には夢の内容など遥か彼方の事で、頬に触れる冷たい空気が現実である事を実感する。感覚の鈍い指先が実感を持って動き始め、その先に見える薄闇に包まれた景色を認識出来る様になる迄のどうしようもなく無力な時間が、彼女は嫌いではない。 然程広くも無い癖に物が少ない所為で妙な寂しさを感じさせるその部屋は、彼女のよく知る男の部屋だ。見かけによらず綺麗好きな様で、初めて訪れた日に見たピカピカのグラスが妙に印象に残っている――その後に彼女が手を滑らせて割ってしまった時の、微妙な表情と共に。 「……よっと」 小さな掛け声と共に身を起こせば、ふわふわと身体が揺れる。ベッドの上だろうと予想をつけて視線を下げれば、難易度の低いクイズは無意味に正解で、ご丁寧にくしゃくしゃに丸まったブランケットまで用意されていた。 それを丸めたのは、余り良いとは感じた事の無い自分の寝相。それをかけてくれたのはきっと、視界の端で眠るこの部屋の主だろう。 よくある事なのだ、と思う。 彼の部屋で夕食を取る事も、その後私がいつの間にか寝てしまう事も、朝目覚めれば彼のベッドの上である事も、そして一番に眺める景色が朝食を作る後姿である事も、決して珍しい事ではない。彼が眠りこける私にベッドを譲り、片膝を立てて壁に凭れるというどう見ても安眠出来そうに無い姿勢で、この世の全ての苦悶を背負った様な顔をして眼を閉じている事も、きっと良くある事なのだ。 「変な顔」 ベッドの脇に転がって熟睡している傍観者が聞けば手を打って笑いそうな、言われている張本人が聞けばその"変な顔"とやらを真っ赤にして怒りそうな一言は、笑いも怒りもしない発言者だけにしか聞こえない。発言者はそれ以上何も言わず、細い腕を伸ばして丸まったブランケットを引き寄せて広げると、出来るだけ静かにベッドを降りた。 歩くという程も無い距離を詰め、側へと腰掛ける。余程熟睡しているのか、目蓋の一つも動く気配は無い。もしかしたら寝たフリでもしているのかもしれないが、そんな器用な事が出来る様には思えない。ブランケットを広げて半分を自分に掛け、もう半分を隣の膝目掛けて放ると、壁に背をつけて頭を彼の肩へと預けた。 深く深く、沈んでゆく夢を見た。 普段とは真逆の重力に身を委ねる。 青が暗くグラデーションする視界。 頬に感じるのは温い水に似た感触。 まるで涙だ、と呟いた言葉は泡だった。 「……んだよ」 流石に肩にかかる重さには気がついたのか、まだ半分眠っているようなぼやけた声が頭上から降ってくる。微かに身じろぎをした振動が頭に伝わってきて少しだけ鬱陶しかったが、流石に文句を言えるほど図々しくはない。仕方なく少しだけ頭を浮かせて、ずれた位置を元に戻した。 「別に」 深く深く、沈んでゆく夢の中で、 誰かの腕に捕まった。 浅黒く傷だらけで逞しい、 何故か懐かしい匂いがする。 ふと気配を感じて顔を上げると、有ったのは普段より3割程毒気の抜けた表情に感情の宿っていない赤い瞳。徐々に近く大きくなる赤に、礼儀として目蓋を降ろす。感じたのは、夢の中で感じた懐かしい匂いと仄かな熱。微かな苦しさに隙間から吐息を漏らすと、彼の前髪が揺れた気配がした。 「……やっぱり、変な顔」 心の中で呟いてみても罵声や拳はおろか、反論の一言さえ返っては来なかったけれど。 深く、深く 沈んでゆく夢の先には何があったのだろう。 ![]() 前 / 次 ![]() |