まどろみの果て


 覇王丸は、知っていた。
 だからこそ、覇王丸は鼻で笑っていた。ふん、と。それは音にするにも、文字にするにも難しい程の微かな音。
 だが、そんな音でも幻十郎は耳聡く、聞きつけてずかずかと覇王丸に歩み寄って来た。笑った、否、笑われた事が面白くないからであろう。それは、子供のように酷く、誰が見ても解る程に怒り浸透な様子で。相手が怒っている理由も、覇王丸の中では明らかだった。だが、
「何だよ?」
 態と聞いてやる。その、『自分を理解していない(どうして怒っているのか、知らない)。』事に怒りすら覚えながらも、理性を持って答える幻十郎。酷く不満そうに表情を歪めた儘。
「…おかえり。」
 答えの返ってこない言葉を待つのは馬鹿馬鹿しい。ならば、先に別の答えを返す。それが覇王丸の在り方。幻十郎の言葉を帰ってくるのを待つよりも、自分が言いたい事を、先に言った。幻十郎はその言葉によって、無理に言葉を返す必要がないのだと知り、構えを解いて覇王丸へと近寄る。
 手持ちの軽そうな荷物を投げる。ぼさっ、と見た目に反して重い音がする。
「飯だ。」幻十郎は、そう短く言った。


 重そうな荷物の中身。それは魚の切り身だった。
 他に出した飯のおかずは、温野菜のようなもの。どちらもすぐに平らげてしまった。たいして身体を動かしてもいないのに、どうして身体はこんなに食物を欲しているのだろう。それこそ、前よりは食べる量は減ったにしても。
 充分に酒も飲んだ。後は、寝るだけだ。「ご馳走さん!」
 充分の動く事敵わない身体は、日に日に細くなっていった。特に足。けんけん歩きをした事もあったが、すぐにへばった。体力に自信はあったのだが、いつの間にかその体力も落ちていたようだ。
「幻十郎」不意に声を掛ける。幻十郎は短く返すのみ。前から話を振るのは必ず覇王丸だった。
「おまえさ、」


 数日前の事だったのか、それとも昨日の事だったか忘れた。
 頭がおかしくなる程に、幻十郎に激しく犯された。認めたくない事を無理矢理に認めさせられて、外で犯された。精神も、身体も。
 あの日、綺麗に澄んだ夜の川に映った覇王丸の姿は、五体満足ではなかった。それを認めたくなくて、ずっと、幻十郎の与えてくれる快楽に縋ってここひと月、生きてきたのだ。
 それを理解したくなかった。きっとそれが一番の弱さだったのではないか。覇王丸は、そう思う。
 幻十郎は勿論、拠り所を作ってくれた人。それがないときっと覇王丸が生きていけなくなってしまうから。溺れても、いずれ戻る『覇王丸』という存在を待って。本来ならば「待つ」等とこの短腹な男からは考えもつかぬ事だろうに。それを思えばこそ、


「…………っ、」
 覇王丸は、言い掛けた言葉を飲み込む。
 それは、幻十郎にとっては聞きたい言葉ではないだろうから。そして、それは覇王丸にとっては、声にして伝えたい事であった。
 だが、射竦めるかのような、冷たい視線に言葉を失った儘、覇王丸は幻十郎の顔を見つめた格好で見上げている。
 言い掛けた言葉を飲み込んだように、飲み込んだ言葉を読み込もうとする男が、眼の前にいる。
 そう、思った時に鳴った、ごくり、という唾を飲み込んだような音はきっと、幻十郎を見ていた覇王丸が立てた音なのだろう。そして、その音と共に流れてくる思いは、『お前が言いたかった事は、何だ?』という疑問に他なるまい。


「怒るなよ?
 …――実は、優しい、よな。」



 馬鹿に正直に、思った事を口にした。してから、はっとした。こんな言い分、幻十郎は面白くなく思うはずである。
 そして、相手の答えが返って来る前に思う事が沢山ある。



 幻十郎はどうして、傷つけようとしたかのような振る舞いをしたのだろう? それは、酷く覇王丸にとっても酷く不思議でならない事であった。
 先に洩らした言葉にぴくりと眉間の皺を深くする幻十郎の姿が、目の前に映る。だが、その表情は憎悪を感じさせるものではない。否、相手を殺そうとしている、といった類のものではない。そういった表情を見ながらも覇王丸はもう一度告げる。
「―――ありがとな、幻十郎。」
 それは、いつぞやに告げた言葉。
 目を離さずに見ていた恩恵だろうか。幻十郎の驚いた表情と、瞳孔と一緒に開いていく瞳が酷く新鮮だった。


 その目で思い出す。幻十郎が激しく犯した理由を。
 それは、口にされずとも覇王丸の中では理解していた。頭がいい悪い等関係ない。勉学に励んだ者が偉くなるのかもしれない。それでも、他人の気持ちを理解するのにそれは関係ない。勉強という戯言では『人間』という難解動物を理解した、等と軽く言えないのだろう。
 勉学を深く学んだ訳でもない覇王丸が理解できる程に、単純かつ強い思い。
「…でも、お前って、ヤキモチ妬きだよな」
 きっと、こんな言葉を吐けるのは同門である、覇王丸以外に誰もいないだろうが。
 誰よりも獣に近くて、そうでいるのに誰よりも人間に近い、それがこの牙神幻十郎という男ではないだろうか。
 男の顔が覇王丸の眼前に迫ってくる。何を恐れる事があろうか。覇王丸はこの獣のような男に救われて、生き永らえているのだ。覇王丸の口元は笑みの形に歪んでいる。怒ったような表情を崩さない幻十郎はもはや目の前にある。明らかに不機嫌な様子である。
「何だよ?」
 物言わぬ不機嫌な男に不躾に聞いてやる。こんな事ができるのも覇王丸という男だから、であろう。それまで以上の不機嫌そうな顔をする訳でもなく、睨んだ儘に幻十郎は問いかける。
「何が、…言いたい?」
 これ以上のからかいの言葉は、相手の機嫌を損なうものだと思ったし、相手の今までの行為を無碍にする事かもしれない、と思った。
「―――…今までの礼に、抱かれてやってもいい。
 って思った。そんだけ。おめぇの気が向かなきゃ、結構」
 おどけて言う言葉。相手の反応は決まっている。気付けば後頭部に小さい痛みが走っている。覇王丸は、幻十郎に押し倒されている。

 その最中、ヤキモチ妬き、という意味を思い出す。
 幻十郎は、『柳生』という名を聞いてカッとなったのは明白だった。己のライバルだと思っていた男が言った名が自分以外であった事に酷く傷付いたのだろう。そして衝撃を受けたのだ。そこで自分の名を言わぬ覇王丸に。同時に名を言われた男に酷く嫉妬したのだ。それは、幻十郎自身も認める事はないのだろうが、それでも覇王丸は解ってしまった。
 覇王丸には幻十郎以外にも沢山の仲間や、ライバルがいるというのに、幻十郎には覇王丸以外のライバルがいないのだという事を。

「っと、待ってくれや。あのな……一発だけにしてくれ、一発だけに。じゃねえと身体が保たねえや」
「…フン、礼なら決め事を持ち込むな。どうせ一発では足らん身体の癖に」
 手慣れたものだ。小袖に腕を割り込ませ、すぐに覇王丸の身体をまさぐる。


 分かっている。どちらも。いずれ町に戻らねばならぬ時が来る事を。
 町に戻れば片足のない姿を皆に晒さねばならない。友人らも今までのように好き勝手振舞うのを止めてしまうだろう。そしてその時、幻十郎が隣にいれば、寄る者は更に数を落とすだろう。そうなる事で、これまで感じなかった孤独を、人ごみの中で味わうようになるのかもしれない。
 そんな事を考えたくもないから、覇王丸は身体を差し出したのかもしれない。狭い籠の中にいるのが幸せだと幻十郎も思っているのかもしれない。
 まだ、まだまだ、時間は必要なようだ。前を向くために、歩き出すために必要な時間。
 それが良いも悪いもなく、否応なく必要な事であるならば、訪れる筈。ならばそれまでの短い現実逃避に身を任せるのも、そう悪くはない。

 覇王丸らがまどろむ頃、空は白い。



題:まどろみの果て/クロエ

理解。って、
積年の付き合いがないときっと、誰にも訪れないもの。


幻十郎は浪漫ちすとで、
覇王丸は現実主義だって信じてる。
否、かってに思い込んでる!

2011/02/23 23:41:36