失望なんて恐れ多いから


 幻十郎、と名を呼んでからどのくらいの時間が経ったろう。
 気付けば覇王丸は幻十郎に組み敷かれ、女のように犯されていた。途中で気が付いて、途中から厭だ、と何度も訴えた。その唇を塞がれて頭の中は少しの間空っぽになったが、再び覇王丸はやめろと何度も訴えた。その声は幻十郎にはまるで、聞こえていないかのようであった。
 ばかやろう、馬鹿野郎。何度も覇王丸は言った。でも、それは言葉にはならずただの、幻十郎の欲情の元になるであろう喘ぎにしかならなかった。それは逆に、正気ではない者の方が理解できる思いだったのかもしれない。
 途中からは、快感で何も考えられなくなった。たまに幻十郎の真剣な顔と、愉快そうな顔が垣間見えた。目の前には幻十郎がいる。それ以外に理解できる事はなかった。



「っは、…げ、幻十郎。おめえ、」
 覇王丸から発された、本当に、本当に正気の一言。だが、それにどう返すか。それはここ何日も考えていた。覇王丸が正気であるという兆候を見せられる度に、深く考えさせられていた。

 考えていた。
 もし、正気に戻った時に覇王丸がどのくらい自分の状況を理解しているか。
 覇王丸の利き手の指の数。足の本数。どちらも足りなくなっている事に、彼は絶望しはしないか。
 何故ならば、彼は修羅の道を歩む。それを理由に許婚を京に投げ置いた儘、素浪人として江戸をふらついていた。そしてその道を後悔してはいない。その道の果てに彼は幻十郎へ挑んだ。そして……結果が足りないものがある身体、である。
 その身体の儘、覇王丸は幻十郎の名を呼ぶ。どうして声にするものは自分以外の名前なのだろうか。もし、もし「俺は無事なのか」とでも問うたのであったら、幻十郎もその場で、間違いなく彼の首を刎ねる事も出来ただろうに。別の回答には面喰ってしまい、幻十郎も動きを止めてしまったのだ。そして、事もあろうに次の言葉は、



「幻十郎、ありがとな。」


 そのような言葉を掛けられる等、幻十郎も思ってもみなかったのでぴたりと動きを止めてしまった。その身体は警戒に身を包み、今までにない程に強い警戒が彼の身を包んでおり、辺りにはその警戒の為にピリピリとした空気が漂うばかりで、
「…何だよ、助けてくれたんだろ? だから言ってる。ありがとうな。って」
 もう一度、言われた感謝の言葉。しかも、殺そうとしていた相手からの言葉。
 思う。どのくらい自分の状況を理解しているのか。それを今、この場所で教えてやるべきか。
 だが初めてだった。情事の後であっても、「幻十郎」と名を呼ぶのは。もしかしたら本当に彼は、覇王丸として再びこの世に生きようとしているのではないかと。そう思える程に覇王丸の声は、幻十郎の思い起こせる彼のものと違った所は無く、しかも、  彼の「幻十郎」と恐れもなく、名を呼ぶのだ。

 胸の奥に走る、『知りたい』という思い。それに逆らえずに幻十郎は覇王丸の腕を引っ掴む。まだ覇王丸の体力は回復していないらしく、だらんと力の入らぬ腕は弱々しい。弱々しいながらも彼の腕は激しく己の存在を示しているのだが。
「これ、でも……貴様は礼等言えるのか? 覇王丸…」
 幻十郎は掴んだ腕の肘から下をゆぅっくりと舌で舐めて、手首で舌を出した儘一度、態と止まり覇王丸の顔色を見て、それでも特に急激な変化が無いので舐め上げていく。その舌はゆっくりながらも掌の皺をこじ開けようとするかのような動きで静かに通過する。指を舐められるという思いは普通、あまりする事はないだろう。指の付け根の曲線をナゾるように舐める。覇王丸はそんな幻十郎の様子を「本当に、しつこい男だ」と思った。だが、それとは反するような気持ちも生まれる。舐められた箇所からは麻薬かのように、甘く痺れるような感触が身体に拡がったのだ。
「…っくぅ。幻十郎ッ、お前、まさか………阿片、にゃ溺れちゃいねえよ、…な……?」
 等と口にしたのはもしかしたら、失敗だったのだろうか。勿論、甘美な感覚に身を震わせてる、なんて相手には解らないようにしたつもりだった。だが、自分でも解る程に覇王丸の声は震えていた。
 聞いた事のある情報を元に強気に出てみた。自分の耳に届く程、相手に不利に聞こえていない。―――そう誰だかに教えられた覚えが、覇王丸にはあった。それがガセでも構わない。自分を殺す相手が同門であった幻十郎ならば、師も浮かばれるであろう、と覇王丸は僅かに己の生涯を諦めつつあった。―――だが、同門の幻十郎がいかに覇王丸に敵意を向けて来たとしても、それは斬る理由にはならない。そう思っていた。否、今でもそう思っている。
 そんな事を考えながら、幻十郎の言わんとしていた事を、今更ながらに理解する!
 幻十郎の舐めているそこは、何かおかしい。短い場所であるにも関わらず、覇王丸にとっては酷く半端な場所に思えた。どうしてそう思うのだろう? それは、あるはずのものがないから、である。
 それを幻十郎に解り易く尋ねてしまうのは、流石に躊躇われた。幻十郎は解って、態と舐めているだけに、余計。
 甘美な感覚は続いていた。最初は不思議だ、という思いからそれを実感する事ができなかった。しかし、理由を理解してしまえば認めるのは簡単な事であった。懐かしい快感が体じゅうに、指を通してじんわりと広がる。洩れそうになる声を必死に押し殺して、幻十郎の長い髪を見つめた。そうする事でしか気を何処かにやる事ができなかったからだ。
「う、ぅうッ……、幻じゅ、ろ…ッ。く、ァ、」
 だが、それもどうやら限界が訪れたようだ。覇王丸は押し殺した、快楽による喘ぎを洩らし始める。否、我慢しきれない程に身体は甘く、熱く、決定的な快感を求めている。
 何も考えられずにただ、与えられている快楽に身を任せた儘、覇王丸はその場に押し倒されていた。目の前には幻十郎。実に愉しそうな表情をして見下ろしている。それすら、不快とは思えずに見上げた眼を逸らさない。

 見るべきでは、なかったのかもしれない。少しだけ、見るのが早かったかもしれない。
 覇王丸の眼前にある手。指は―――…小指と親指、の中間の三本、それらの指の関節の少し上からが空虚だった。
 透明な指。 であるならば覇王丸は迷う事等なかっただろう。しかし、彼が眼前に映した指は確かに“無い”のだ。解るのだ。覇王丸は、否、覇王丸であるからこそ、それを実感できるのだ。
 ―――何故ならば、それは覇王丸の手であるからこそ、である。即ち、失われた指は覇王丸自身のものだからこそ、彼はよく理解できるのだ――と。同時に、覇王丸には絶望感が生まれる。それも幻十郎は解っているはずだ。それでも幻十郎の舌は覇王丸の胸を撫でていて。
 諦めと、気持ち悦さ。
 全く違う感覚が脳内をぐるぐると駆け巡っているせいか、正常な思考など持てそうもない。誰かに何かを言われた訳でもないのに、思考はぐるぐるぐるぐると回る。ただ一点だけを軸にして、ぐるぐるぐるぐると。
「また、イクのか? あまり出すな。保たん」
 魔羅の根本をぐいと掴んで、責めのぼる快感を押し留めんとする幻十郎。達する直前ではないにしろ、これから焦らされるであろう事は想像に難くない。殺しと睦事と賭事に関しては、右に並ぶ者等おらぬ筈である。
 焦らしの手口は実に解りやすいものだった。肝心な箇所には決して触れずに、そこをぐるりと避けた箇所を舌で舐め回す。視線も舐め回す、と言って良い程にねっとりと身体中を絡み付いて離そうとはしない。舌は太腿を伝って、足を下る。足を、ゆっくりと、
「……あ?」
 それは唐突。快感等もしかしたら吹っ飛んでいたのかもしれない。
 覇王丸は名を呼んだ。「幻十郎」と。しかし彼は返事の代わりに、有り得ない箇所に舌を這わせていた。足があれば、足が生えていれば、決してあり得ないであろう、その箇所に。足の内部と言えるそこに舌を這わせて、
 そこを味わっては、素知らぬ顔でもう一方の足を舐める。そちらには、何の違和感も異常もない。それに安心を覚える。
 安心が通り過ぎる。次に訪れるのは、不安だ。自分が感じた違和感に対する不安。この状況に対する不安。未来に対する不安。全ての不安に対して、酷く弱気になっている自分がある。それを覇王丸は痛感せずにはいられない。それ程の、不安。



 失われたものを信じたくなくて、名を呼んだ。
 それでも幻十郎は答えない。元より他人の期待に等応える男ではない。ならば悲観する事もない。
 何もかもを理解できない今、縋るものは目の前の男しかない。
 現実を突き付けようとしない、否、現実を語る口を持たぬ不器用な男に、今は縋る事も悪くはなかろう。
 縋り付けば幻十郎は望みの儘、深く突き上げた。現実というものを、これからという不安を濃い闇色に塗り潰すように。
 激しく、やがては闇色すら悦びという色に染め上げるように。


題:失望なんて恐れ多いから/彗星03号は落下したらしい
失ったものを、痛感させられる。
だが、それ以上に今までそれを知らせないでいた。相手の想いに触れる。
でも、
どうして癒えきれない、そして、諦めきれないこのタイミングで!


(恨まれたい。それは願い?)

2011/02/23 23:35:31