闇か光か


 人差し指、中指、薬指。
 人差し指、中指、薬指。

 何度か繰り返し数えてみた。それでも変わらなかった。
 変わらない、――からこそ覇王丸は、己の命とも言える刀から手を離さざるを得なかったのだ。
 否。引導を渡したのは、牙神幻十郎。この男の一太刀である。



 ずるり、ずるり。 と何者かが這いずる音がした。その音は雨に掻き消されてはいたものの、理由ありきでいつもよりも随分と静かな寺には耳に届く者もいた。その一人が、
「…何だァ?」
 花楓院骸羅ががらり、等としんとした空気には似つかわぬ音と共に、勢いよく襖を開いた。
 そこにいたのは濡れ鼠。雨はざぁざぁと降り止まぬ様子で。
 雨の中、立つ男は二人。しかも骸羅にはどちらにも見覚えがあった。

 覇王丸。それに肩を貸しているのは、意外にも牙神幻十郎。



 眼を丸くするでもなく骸羅は二人を招き入れたが、覇王丸の有様に悲しげに眉を寄せた。
「………ジジイ! 貴様の葬式、は…」
 牙神が寺に上がってから発した最初の言葉は、驚きの言葉であった。しかも短い。

 それもそのはずである。
 元より牙神と覇王丸が逢う事となった理由というのは、そもそも花楓院和狆の葬式がある。という知らせだった。
 無論、師匠とも思っていない相手を見送る気などない牙神は、それをダシにやってくるであろう覇王丸を殺すために都をうろついていた。それだけの事であった。
 本当は葬式ではなく、和狆の祝いであったが、それを素直に綴っては薄情な弟子どもは彼の元に集まりそうもない。と考えた末に孫である骸羅は葬式の旨、筆を執ったのであった。

 己の祖父を利用した孫。その孫の呼び出しに応じた弟子。呼び出しを利用した弟子。
 それぞれに罪があり、それぞれに勘違いがあった。だから、起きた悲劇。
 動かない覇王丸を見て、和狆も骸羅も口を揃えて養生していけ、と何度も説いたが牙神はそれを聞き入れようとは決して、しなかった。ただ頑なに「薬をよこせ。前の時ぐらいに効き目のある奴を」とそれだけを繰り返した。
 前の時ぐらい。
 その言葉を聞いた時に、和狆は複雑な思いを抱かずにはいられない。



 牙神はその昔、覇王丸を半殺しにした事があった。
 それは、和狆の元で修業している時の事であった。
 修業中の勝敗で牙神は覇王丸を、負けたからと言って殺そうとまでした。「修行だ」と止める和狆の声も、音量的な意味合いでは聞こえていても、言われた理由といった意味合いについては、全く心に届いていない。

 それを感じ続けていた。しかし、己の刃が傷付けた覇王丸を背負ってまで来たというのは、もしかしたら、和狆が言いたかった事を牙神が、不器用ながらに理解しつつあるのではないか。と師として感じていた―――勿論、この牙神幻十郎という男、それを理解できるとも、また話した所で理解しようと思うとも、全く思ってはいないのだが―――。理解できれば、牙神という男はきっと成長を遂げるであろう、と。


「……それが、今じゃと、云うのか……」
 庭に生える神木の方を眺めて、低く、ぽつり、呟いた。
 気付くのに遅かったかもしれない。成長を促すであろう男は意識がない。傷の程は牙神愛用の羽織を被せてあるから解らないが、桃色の羽織が紅に染まっている辺り、出血も生易しいものではないのだろう事は、容易に確認できた。よく見れば、不自然な羽織の膨らみ。足の部分が見えない。あるはずのものがないのではないか?
「ジジイ! 早くしろ」
 牙神は何を言おうともそれしか言わず、覇王丸の傷を見せようともしない。それは余りに頑なで、流石の和狆も折れるしかなかった。よく効く薬と手当ての道具を背負えるように布に詰め込んで、牙神に預けてやる。
「…一つ。おぬしは、変わったのかの?」
「……殺すなと言ったのは貴様だ。礼は言わんぞジジイ」

 男は長い髪を靡かせて、覇王丸と薬を背負って再び姿を消した。



 牙神は言葉もなく告げられた、和狆の思いに唇を噛んだ。
『殺すな…。殺したら――…おぬしが、 後悔 するぞ』


 未だ、雨は降り止まない。



題:闇か光か/ひよこ屋
雨の音は止まない。雨の音は苦手な人は多い。しかし悪いばかりでもない。嫌な思いを掻き消す音でもあるからだ。
それはどちらでもいい。いい方に向かうのか、悪い方に向かうのか。それはどこぞにいる神とやらも知りはしない。
元より神など牙神の中にも、覇王丸の中にもいやしない。単純に傷が癒えればそれでいいのだ。

(爺が何を言うか、なんて関係ない。
 ただ、 治せないというのなら、其処にいる意味なんてない。)

2011/02/23 23:32:05