その死の名は



 思い出す。
 母との思い出。流れるように踏みだした、殺し屋への道。
 無論、師などいない。剣の腕を教えたのは確か。しかし、
「甘い、甘いッ。甘いッ!」
 器用な手先で仕組んだイカサマの五光。目の前の男が絶望の眼差しで牙神を見ている。…――否、眼に映している。ただ、それだけの事。

 男は負けたら死ぬしかない。何処ぞの某かに負わされた借金。それは莫大な金額だったのだと言う。
 だから何だ、というのだ。愚かで無知な男の姿。実に滑稽。嗚呼、滑稽。
「ならば死ね。」
 誓った事を棄てるも愚かな人間の姿。絶望の淵にある男はただ視線を彷徨わせて、
「死ねぬならば、俺が斬ってやろうか」
 答え等どちらでも良いのだ。牙神は絶望に眼を見開いた儘の男から眼を離し、常のように煙管に葉を詰めた。
 今この場所に死を覚悟せんとする男がいる。絶望した男がいる。だが、空気は常々変わりはしない。人っこ一人の生き死ににこの場所は、牙神という男は変わる必要がない。どんな状況でも酒の味と煙草の味は変わりはしない。
 ぷかり、と吐き出した紫煙を眼で途中まで追う。頬杖の形の儘、肘を軽く曲げ手首から力を一気に抜く。支えきれなくなった指が煙管を受け皿の方向へと落とす。優しく置くなら割れる事もないであろう受け皿も、重みある煙管に勢いよく落ちて来られたならば、保つか否か解りはしない。答えが出るのは数秒の刻の後。

 牙神が手を離したと同時に、逆の手は彼の腰へと向かっていた。瞬時に抜く。利き手かそうでないかは、この際どちらでも良い。死の翳は賭けに負ける前から見えていた。それだけの事。
 刀は牙神が手に取れば酷く物欲しそうに手の中で震える。ような気がする、
 刃の思う儘か、牙神の殺意の儘か。理由等どちらも変わりはしない。牙神は刀を手にすれば目の前の者を斬り棄てるだけだし、刀は牙神によく手の馴染む得物だった。それだけの事。

 それはたったの一太刀であった。

 牙神が刀を納めるのと同時に、襖と斬り払われた先程まで人間だった部分が外へと吹き飛ぶ。
 男だったものには胸から上が無くなり、その代わりに己の存在を最期の時まで誇示しようとしてか、血飛沫が辺りにばしゃばしゃと飛び散った。瞬く間に部屋の中は血腥く彩られた。賭博場の主も堪ったものではないだろうが、事実、牙神に稼がせて貰っているのだからこのような事があっても出入禁止を喰らう事もない。
 血の海の中で、店に雇われた女が牙神を見つめている。
「幻十郎様…、アンタ様のやり方は非道過ぎるワ。でも、」
 この女は店主の愛人か何かだったか。牙神は興味が無い事は覚えていない。ただ覚えている事はイカサマの腕は一流だ、という事。あと、――今この場で興奮しているという事。眼が虚ろに揺れて、熱に浮かされたように頬を上気させている。そして、
「―――素敵。」

 気が付けば女は魔羅を咥えている。扱き方、吸い方、舌の使い方、何処が気持ち良い所か熟知したやり方だ。態と音が響くように口を使うのは、それで男が悦ぶと思っているからなのだろう。別に悦んでいる訳ではないが、その手練手管の腕のお陰でまるでその淫音に反応しているかのようにすっかり魔羅も勃起している。
 乱暴に女の髪を掴み、その顔を拝んでやる。口は淫らに半開きで端から透明の汁を垂らしている。全くだらしのない女である。折角の整った顔は飾りなのだ、偽りなのだ。牙神は女の身体をそのまま畳へ押し倒すと、女の身体がぬるりとした血溜りに触れる。その部分は赤黒く染まり白い肌にはよく似合う。まだ血に塗れていない乳房を揉みながら、乳首に吸い付くと女は激しく声を上げた。牙神が与えた刺激によって声を上げるのがよく解る。それは、彼の動き方一つで声が、加減が、息遣いが、全て変わるからだ。
「淫乱のアバズレめが」
 蔑む言葉一つにとっても、女に対しては媚薬の香であるかの様子。とろんと眼を虚ろにさせて聞き言って情欲に溢れた吐息を洩らすのみ。触れてもいない女の蜜壷は溢れんばかりに淫らに口を開いて、透明の汁で濡れそぼっていた。それを焦らすつもりで牙神は女の唇を激しく奪う。


 くん、 と牙神が懐かしいにおいを嗅いだ。
 女は既に牙神の咥内に舌を絡めさせていて、互いの唾液同時も混ざり合ってどちらのものか、すぐに解らなくなった。そうすると、より牙神はいつの時にか嗅いだにおいを思い出す。女の舌を吸って、吸われる。交ざり合わぬ個体はそのいつの日かのにおいに、酷く興味をそそられるもの。まだ足りぬと互いに触れ合いながらもつれ合って、貪るように口の感触に全身を委ねる。
 薄く開いた眼に映るは、死の香り充満する惨劇、血溜りの部屋。血に濡れ乱れる女。
 嗚呼、と牙神は思う。途端、頭痛と吐気を催す。女の身体を横凪ぎに殴り飛ばした。
「なッ……、何だって言うんだィ?! アンタ様だって乗り気だったじゃないのサ」
「…もう、萎えた。」
 牙神は思い出していた。
 考えていた。何処で嗅いだにおいだったのか。それは――母の好きだったクスリの香り。だからこの女も母のような虚ろな目をしていたのか。
 大刀を振り回し理性を欠いた眼をした思い出の中の母と、目の前の女はまったく同じ生き物である。ならば、
「フン、忌々しい女だ」
 言うや否や、己が刀を一閃。断末魔の叫び。もう一度刀を振る。更に女の耳をつんざくような悲鳴。二振りで腕が二本。大刀を持つ事も出来まい。そうしてやっと牙神は女の首を刎ねた。



 久々にこんな胸糞の悪い女に遇った。
 片づけは店主の仕事である。返り血を隠す闇はもう拡がっている。牙神は賭博場を後にした。
 ――もう、訪れる事もないだろう。


 見上げると、月が雲に隠れて闇は一層、濃くなった。



題:その死の名は/クロエ
娼婦は好きではない。だったら侍を抱く方がいい。
娼婦は骨がない。抱かれるために生きているから。
それは穢れていて、子供をも殺すことに違いない。
だから、刻んでやる。 死 という 最期の時を。
(娼婦、時に厭過ぎて吐気すら、覚えるのだ。)


2011/02/23 23:25:36