死んだ月
待っていた。待ち望んでいた。その姿、声、立ち振る舞い、全て。目映いばかりに懐かしい。
ざんばら頭の男は冷静さを欠いた様子で走り寄って来た。
「いい度胸だ。御前試合からそれほど間を置かず、のこのこやって来るとは。この世に未練は無くなったか?」
牙神は挑発気味に態と聞いてやる。それが目の前の男・覇王丸を逆上させるのであれば、そうしてやりたいと思う。それだけの事だ。
覇王丸は牙神の目を見ていた。否、見つめていた。牙神の思惑を計ろうとしているのであろう、懸命に眼を見つめている。その証しに、必死に見つめてはいるものの、先程まで体から溢れんばかりに飛散していた殺気は大人しくなり、代わりにその気は牙神に向けられていた。
目の前の男は牙神を殺すつもりなのだろうか。それとも…… それは牙神の目に映らない思い。ならば――
「幻十郎。お前、師匠に手を出したのか…?」
男は必死な目をした儘。信じている、そう覇王丸の目は訴えている。
しんじる。
は は は 何と、何と愚かな事だろうか。そう、牙神は思う。
しんじる。
己以外の何を、信じると言うのだろう。目の前の男の答えを今、聞きたくて仕方なかった。
「あの老いぼれ、まだ生きていたか。俺が手を下さずともくたばると踏んでいたが……、死んだのなら好都合よ!」
「幻ッ…、十郎………!」
覇王丸が吐息混じりの、珍しくも感情に満ちた声色を零す。それは、滅多に聞く事のない甘美な音。それを聞いた途端に、牙神の背筋にぞくぞくとしたものが音速で走り抜ける。思わず牙神は熱い吐息を洩らした。それは余りに瞬時の事だったので、きっと感情的になっている覇王丸には見えていないだろうが。
「破門しておきながら、未だに師匠ヅラとは反吐が出るわ!」
思いの丈をぶちまけるように、牙神は吐き捨てる。和狆など、元より剣技のあった己としては師でも無い。何よりその爺は彼を破門としたのだ。修業中に覇王丸を斬り捨てようとした姿を見て。
その時、目の前の男は牙神に負けたのだ。それはもう、完膚なまでに。
牙神は思う。弱気を助ける者が、何故に英雄となるのか。
無論、牙神は金で殺シを行ゥ者故に、英雄となるつもりなど毛頭ない。それでも、弱きを良しとする風潮には酷く吐き気がするのだ。
弱き者は死ね。弱きが英雄ならば、俺が殺ス。
そう思い続けてきた。それでもこの爺は助けると言うのか。ならば…と牙神は立ち上がる。虚像の英雄を愛でるこの場所に、未練など無い。ただ、己を踏み躙ったこの男をいずれ――近い未来――殺スという、実に低い、ひくい目標は出来たのだが。
友情、平和、愛。
ただの愚かな『こころ』という不確かなものの中で育つもの。ソレを大事に育てて、育てて、育て。そうして裏切られ・絶望を見・淵に沈み・死にゆく・そんな者らを幾度も見ていた。いつ何時見ても、それは余りに滑稽で、滑稽すぎて、
「そこまで堕ちるなんざァ思わなかったぜ、幻十郎! もう、終わりにすっか」
堕ちる
落ちる
おちる
オチル
……
…
覇王丸の言っている意味が、半分以上解らない。
牙神は何も『堕ち』てなどいない。それは最初から変わらないのだから。
もし、変わったのだとしたら、それは
『貴様のせいだ、覇王丸!』
だが、堕ちてなど、いない。
確かに快楽や娯楽という人間の欲望に塗れてはいる。
目の前の覇王丸が、普段は余り見せない殺気を激しく出している。ざんばら髪の邪魔する狭い額は、風に揺られながらも不快の色を深くした眉間の皺を隠し切れず、牙神に向けて敵意を向けていた。
覇王丸の前髪はふわふわ、ふわふわと。目の前にある激情を嘲笑するかのように酷くゆっくり、ゆっくりと。
その、髪を揺らす。
そればかりで、
流れる時間も、酷くゆうるり、ゆうるりと…
*
題:死んだ月/ひよこ屋
堕落なんて、していない。でも、月は暗い。愛とか恋とか友とか情とか、そんなものは移ろいゆくもので、信じるなどばかばかしい。そう思う、牙神は変わっていない。今ある快楽とか、愉しみに身を、精神を任せるほうがよっぽど楽で。そう、どう考えても変わっていない牙神。
とりあえず、なつなぎのどうでもいい話(笑)言っちゃった…
2011/02/23 23:23:52