遠くを見ている。そう感じるときがふえていった。
 そのときに、すぐに悟ればよかったのかもしれない。

 もう、お互い、子どもではないのだ、と。

  共有できないときが、ふえていった。



「そう、か」
「はい。お世話に、なりました」
 佐助には、告げずに共に修行したこの場所を去ろうと、師匠にだけ、静かに告げた。
 師匠は特に驚くこともなく、頷いていただけだった。とうに解っていたのだろう。心を捧げた、その方がいるのだと。
 不思議なことに「誰」とも何も聞こうともしない。解っていたのだろうか。

 忍として当然の、荷物は持ち歩ける程度。最低限のものしか持たない。
 己が存在した、という痕跡を残さぬ程、立つ鳥跡濁さず。それを実践すること。
 そう。かすがは存在しなかったかのように、“生”の跡を残さぬよう部屋を磨いて、そして、人知れず師匠にだけ別れを、告げた。

 彼からの、御恩は生涯忘れない。
 あの方との出会いを、それは誰が望むでもなく、だが偶然とはある意味必然である、と誰かが言ったように。
 逢わせてくれた、それを恩として。かすがは深く、深く師に向け頭を垂れた。
「私は、決めました。あの方のお側に居る、と」
「うむ。行くがよい」
 師匠はだらけた感じで座ったまま、かすがを見送った。口元には笑みさえ湛えて。



それは、
分かっていたからかも、
知れない。



 呼んでもいない。声も掛けていない。けれど、
「よう」
 いつものとおり、飄々とした様子で彼は、
「…佐助、」
 それ以上にかすがの口からは、言葉が出ない。
 何故、其処に居る? などという陳腐な問いは口から出かけたけれど。
 クスッ、と鼻だけで笑うのは相も変わらず。それは意外に厭味ではない。最初は厭だと思ったかも知れないけれど。それを思い出すには、時間が経ち過ぎた…。

 暫く、佐助もかすがも、ずっと無口なまま。互いの顔色、目の色を窺うように、睨み合うように見つめあったままだった。
 佐助から見る、かすがのその瞳には迷いの色はなく、むしろ、ここ暫くよりもずっと「決めた!」と口にせんばかりの決意が固められたその瞳は、今までよりもずっと色濃く鮮やかな色彩を放っている。
 かすがから見る、佐助のその瞳には迷いの色こそないものの、ただひたすらに何かを失いたくない、と言うかのような悲哀のそれを隠せずにいた。勿論その答えはかすがにも解っている。だからこそ、声も掛けずに去ろうとしたのだから。
「知ってたぜ」
 佐助はいつもどおり、はん、と強気に鼻で笑った。
 逆にそれが物悲しい。そう思うのは、今の夕焼けの色のせいか。
 かすがの眼に映る彼の姿は保護色と言えばよいか、その物悲しい夕陽の赤に溶け込んでいた。彼は、消えてしまうのではないか、と思う程に。
 ただ、静かな時間であった筈なのに、互いに緊張を感じていた。どちらの心臓も高鳴っていたし、それを解る程に密着していた訳じゃないけれど、表情がそうだったのかも知れない。
「何故」と聞くのは簡単だった。ふた文字で良かったからだ。だが、かすがはそれを聞かなかった。
「おれはまだ、決めてない、」
 忍の生涯は、武士よりも自由なのもで、決して“主”に囚われる必要はない。だからこそ吟味してよい。
 師匠のように日銭を稼ぐのもまた、忍としての道だろうし、忠義を尽くすのもまた道だろう。
 ただ、先に決めたのがかすがだった。それだけのことだ。早くも遅くも、決まっていたのだろう。道は。
「おまえも、みつけろ」そういった眼でかすがは佐助を見ている。佐助も瞬時にそれを感じ取り、問いかけもせずに黙ったまま。
 佐助は、そんなかすがをみて幸せに浸った阿呆だとは思わなかった。いまだに見つけられない自分のほうが、よっぽど阿呆に感じた。
 ただ、胸のなかに、離れるという虚しさだけがあった。
 長年、一緒にいた仲間だったと思っている。それだけに、離れるのは心細い。自分がこんなにも、弱い存在だと感じる。
 だが、止める言葉すら、見つからない。制止などムダだとわかっていたから。
 佐助はかすがのことを見ていた。ある場所に行って戻ってから、というもの、かすがは上の空であったことも。それを感じていながら、つっこまなかった己。
 かすがよりも先に、かすがの行き先を知っていた己を、それほどに彼女を見ていた、という自分。…虚しいことばかり。
 なによりも、彼女から向けられた視線が一番、虚しい。
 そんな本性を、彼女にぶち撒ける気力など、佐助にはない。むしろ、墓場までしまっておこう、そう思うばかりであった。
 だからこそ、言葉を選ばなくてはならない。相手を傷つけぬよう。そして、自分が傷ついていないかのように。
「忍でなくっても、“主”サマを決めるってことは、」
 そう。師匠のように、決めない、ことも選ぶことができる。
 金の高いところに、ふらふらと風のように、彼は主を決めないことで、そう生きてきたはずだ。
 師がそうである以上、二人は武士なんぞの世界に、囚われる必要などなかった。
「身も心も、“主”サマに捧げた、ってことじゃん」
 いつものように軽い感じで淡々と、佐助はかすがに諭す。
 戻れるチャンスはこれで最後だ、と。
「…――命も、かな」
 口にこそしない。
 けれど、佐助の声が聞こえたろうか。かすがの耳に。
『行くな』と。
 強要するわけではないが、強い願いを帯びて、佐助はかすがに答えを問う。

 時間は互いにゆるやかに。そう、遅すぎる程にゆっくりと時は過ぎた。
 嫌でも、風にそよぐかすがの長い髪の一本一本の眩しさが目に入る。すこしだけ、太陽を恨む。目を細める。
 夕焼けに溶ける佐助の目立つ髪色。風になびいて彼全体が熱を放っているかのような、エネルギーを感じる。
 かすがが邪魔、と言わんばかりに髪をかきあげ、佐助の側から見てもよく見えるうなじが明るい。
 夕陽が影になって、佐助の表情がよく見えない。赤が黒。隠されているみたいだ。彼の眼を見ることができたなら、その願いは理解できたのかも知れないけれど。
 かすがが口を開きかけた。だが、それはただの吐息となって、そこに零れ落ちるみたいに、消えた。
 ほんのすこしの間、迷った表情、眼を泳がせて佐助から眼を逸らす。だからこそ、挨拶もせずに出ようと思ったのに、そう言わんばかりに。
 だが、こころは決まっていた。最後の砦など、最初から無かったのだ。
「次にあうときは、敵かも知れんな」



 敵。
 その言葉は、ハッとする程に、かすがの強い意志を感じさせた。
 命など、とうに預けているのだ。今から向かう、某かの処に。
「……忍の、哀しい性ってヤツ。因果な商売選んだモンだね、おれら」



 かすがは長く美しい髪をなびかせながら、佐助に軽く会釈したのみで、彼を振り返ることもなく旅立っていった。
 もう、戻ることはないだろう。
 かすがの背中を見ていると、胸が寂しいという。情けない。手をこぶしの形に握り締める。
 かすがが、滲んでいく。
 かすがが靄になって消えたのか。それとも佐助が涙していたのかは、分からない。ただ、彼は振り返ることもなく、しばらくの間ずっと、そこに立ち尽くしていた。
 滲んで、見えなくなった。

 さようなら。



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バサラさすがシリーズその8でござんす!!

滲む、という言葉にはこれしか思い浮かばなかった、っていうボキャブラリのすくなさ。

だんだんと長くなっていく文章の数々。
アッシは文章をまとめるのが、苦手なのか…


2009/03/08 10:15:55