深海にて42
アクアリウムのたね


 邦枝葵は学校を卒業してからというもの、家業を継いで竹刀を振る日々が続いていた。高校時代から恋人だった男鹿との恋も途切れることなく、順調といった体で、特に代わり映えのない日々だけが彼女の周りにはあった。
 男鹿は高卒と同時に就職し、今はその仕事の研修で三日ほど留守にしている。毎日会うわけではないが、会えないと思うと人間というものはどこまでも現金なもので、寂しいだの会いたいだのと思うものだ。ふしぎと男鹿のことばかり思う自分自身に葵も半ば呆れ、気持ちの途切れた素振りと手合わせの様子に祖父からお叱りを受けたばかりだった。
「たわけ!そんなことで物を教えられると思うか!」と。…ごもっとも。
 反省しつつも脳内から男鹿を消せないでぐずつく葵は頭を冷やしてこいと叩き出されたのだったが、意外にも足取りは軽かった。たまに稽古を休んでショッピングなどにいってもいいではないか、と葵は思うのである。
 ブラブラと石矢魔の狭い商店街を歩き、田舎町あるあるで周りのみんなが彼女を見れば声を掛けてきたり、時折男鹿のことを聞かれたりしつつも、少しだけ遠出して広いショッピングモールに向かった。たまには新しい服ぐらいほしい。葵は師範の資格もある、立派な邦枝流の使い手ではあるものの、それはどうしたってやっぱり女の子なのだった。たまにはおしゃれだってしたい、男鹿が戻ってきたらデートもしたい。その時に着る服が新しくったっていいじゃないか。下着だって……(とそこで何故か、葵は顔を赤らめる。きっといやらしい妄想が浮かんだのだろう。何気に邪な女子なのである)。
 そんなふうにたまのぽっかり開いてしまった休みを浪費する葵は、一人フードコードでジュースを飲んで一息をついていた。その時に彼女が俯くのをいいことに、低くたれこめる、わざとらしい影。いつもそうだった。だが、最近はなくてすっかり忘れていた。目をあげれば懐かしくもじゃまくさいモブが葵を囲んでいるのだろう。そう諦めながら目を上げたところにいたのは、モブ──ではなかった。
「あれ、今日はこんな時間にどうしたんっすか、邦枝さん」
 先輩、と呼ぶのをやめている男鹿の親友である古市だった。サラサラと光る銀髪がいつだって眩しいけれど、ここまで男鹿との相反するタイプも珍しいよな、と葵は内心思う。だからこそ親友でいられるのかもしれないが。
「久しぶり、古市くん。今日はね、時間があったから買い物」
「オレは学校の帰りっす。男鹿、三重でしたっけ」
「うん、あさってには帰ってくるんだけどね」
 古市は遠慮せずに葵と合席した。こういうふうにわざとらしくサッとスマートにやってしまえるところがまた、男鹿とまったく違うなあと思ってしまう。たぶん男鹿ならズカズカと心に入り込んでくるみたいに近寄っては来ないだろう。恋人になって長いというのに、どうしてか無遠慮な態度というものがない男だ。言動には遠慮というものがないのだけど(だからこそ無骨で、野暮ったい)。
「アイツとしょっちゅう会ってるんすか?」
「ううん、たぶん古市くんの方が会ってると思う。週末しょっちゅう泊まりに行ってるらしいじゃない」
「ああ。あれ、違うんすよ。泊まってるわけじゃなくて、オンゲーやってて。ずっとボイスチャットで喋ってんすよ。アイツ遠くなったから、来んのめんどくせーとか言って。今、そのゲームめちゃハマってんすよね」
 葵にはちんぷんかんぷんの話。ゲームが好きなのは昔からのことだが、葵自身はゲームに興味がまったくないのだ。違和感なくできる会話があるというのは友情には欠かせないだろう。そういう関係をある意味ではうらやましくもある。もちろん、そんな関係になりたいと願っているわけでもないが。
「えっ、じゃあ邦枝さん放ったらかしっすか?!そいつぁ許せねぇな〜。オレどやしつけておきますよ、戻ってきたら」
「…いいのよ、べつに。そんなんじゃないから」
「いやいや、やっぱダメだって。女性は大切にしないと」
 キザなことをさらりと言える古市は何故だか彼女がいない。男に免疫がない葵は時々ドキリとしてしまうこともあるのだが、それは男鹿へのらないものねだりなのかもしれない。だが、それが言えない彼のことをなによりも大切だと思うし、いとしいとも感じる。好きだ。男鹿と違うところを男鹿と近い彼から学んで、彼のことを思うのはどこか間の抜けた時間だとも思う。
「そんなことばっかり言って。はやく彼女つくりなさいよ」
「って〜〜〜なぁー。オレだって欲しいっすよ。でも、なんででしょうね、できてもすぐあっちからフラレちゃうんですよねえ」
「なんでだろ?」
「オレが聞きたい」
「もしかして……高校時代の悪評?」
「だとしたら、男鹿の罪じゃねーか!オレ男鹿をぜってー許さないっすよ」
 葵がくすくすと笑うと古市は苦笑いで返した。かなわないなあ、といった感じで。
 会話がひと段落したタイミングで、古市のスマホが振動しだす。すいません、と古風にも頭を下げて古市は電話に出るとヘコヘコとしながら話をして「今からいきます」と切った。
「急ぎの用事?」
 浅く頷きつつ、古市はいたずらっぽく葵にウインクした。どうして男のおまえの方がウインクが似合うんだ、というツッコミはさておき。
「邦枝さん、いっしょにいきません?」
 葵は静かに首を傾げた。どこに?


 このショッピングモールに来たのは、たまたまなんかじゃなかった。もちろん、葵と会ったのは偶然だったのだが、この場所に来た意味は、実は古市にはあったのである。それをとある小物屋さんにいく道すがら、その理由とやらを語るのもまた楽しい。
 男鹿は一ヶ月ほど前から、今回の研修という名目で留守にすることが決まっていた。だからなんだというわけではなかったが、仕事なので日にちを変えることはできない。しかし、今日の一週間ほど前に、ある出来事に襲われた。それは彼らを襲った。彼ら──つまり、それは古市であり、男鹿であり、葵でもあった。まずはその話から入るところが実にニクい。
「邦枝さん、この前の地震、どうでした?だいじょうぶだった、からこうしているのはわかるんですけど」
「ん?うちはね、場所的に岩盤らしくて。皿とコップが何枚か割れたけど、ケガもしなかったし、なんてことなかったわよ」
 それは葵にとってはなんということもない日常に現れたひとつの非日常というやつだった。瀬戸物、硝子の破片を片付けるというだけの。
「オレは学校の帰りだったんで、でもあれくらいじゃあ電車も止まらないしわかんなかったっすね」
「無事だったんだし、よかったじゃない。おたがい」
 もちろんそうだ。石矢魔はそこまで揺れなかった。場所によっては結構棚から物が落ちたりして、片付けが大変だったというニュースもあったが、一日でそんな話もなくなったほどだ。だが、とある男が──もちろん、古市と葵の話題の中心にいる彼──男鹿は、結構な被害をこうむっていたのだという。それに古市は電話を受けた。葵はそれを知らない。
「あの地震から二日くらいしてから、だったかな。男鹿はめずらしく急いだ様子で、オレに電話をよこしたんです」
「なんて?」
「大事なもんが壊れたから直したいんだが、どうすりゃいいんだ、ってな」
 その大事な物を受け取りにいく役目を頼まれたのだという。ちゃんと受け取って無事に自分に渡すように言いつけられたのだとか。男鹿が大事にしている物なんて、ゲームとかマンガ本以外にあったろうか。男鹿の雑然と散らかった、男の子っぽい部屋を思い出してはピンとこない気持ちばかりがそこにあった。葵にわかることはなさそうだった。
「ここの店なんですけど」
 ショッピングモールの中にあるちいさな小物屋。どうやって家賃を払っているんだ?と思いたくなるような客の入りを見たことがないような謎の店。目立たない店だが、よく古市は知っているものだと感心する。
「や、オレも男鹿に言われて調べたんで」
「で?男鹿はなにがだいじだったの?」
「今から受け取りいくんで」
 と答えを濁す。わざとらしいな、と思いつつもしかたなしに葵は古市について行くだけだ。もったいぶるようなことなどなかろうに、と頭の中で何度も独りごちた。しかも、受け取ってきたものは袋に入っていてなんなのかわからなかった。
「ぶじ直って元どおりだって」
「男鹿にとってはよかったわね」
 元来た道を戻って行く。エスカレーターを降りながら、古市が大事そうに持つそれに目をやるが、ヒントもくれそうにない。ほんとうはまた聞きたいけれど、気にしていると思われるのも、葵としてもシャクだった。気にしていないフリをして、古市の後に続く。
「ここの店、ネットで調べて見つけて。こんな店あるんだー、ってびっくりしたんすよ。こまごましたものとか、直したりしてくれるリペア作業を請け負ってるらしくて。落ちて欠けちゃったプラモの復元とかそういうの。裏メニューらしいんですけど。それに、値段もけっこういいんすけどね」
 と、急に葵にその荷物を押し付けるようにつかつかと歩み寄り、荷物を渡しながらゆっくりといった。
「邦枝さん。これからゆっくりできる静かなとこで話す時間、あります?」
 押しつけられた荷物は持とうとした時に、フッと手の中から消えた。べつに持たせようとしたわけじゃないらしい。古市は笑っていた。
「場所によるけど?」
 含みを持たせる言い方が気になって、葵も負けじと返した。特に張り合う意味なんてないのだけれど。
「男鹿の部屋、なんてどうすか?オレの部屋よりはいいでしょ」
 男と女、二人きりなるなんてハレンチだ、なんて昔のひとなら言うだろう。例えば、葵の祖父である一刀斎だとか。ゾッとする話だ。どうすべきなのか、ほんの短い時間で決めなければならなかった。なぜならば、意識しているなどと思われたくもないし、現実、意識しているわけではないからだ。
「男鹿の部屋にいく用事はあるの?」
 余裕ありますよアピール。そんなの古市にしてもしかたがないと分かってもそれでも、してしまう自分が情けない気持ちが生まれてしまう葵なのであった。
「うーん、まだない。けど、オレの部屋、ってことはないでしょ。もちろん邦枝さんの部屋ってことも。だから、なんデスケド」
 考えてしまう。古市のいうことはごもっともだと思うからだ。身の危険を感じるわけなんてないのだけれど(古市はケンカなどべらぼうに弱いのだ)、こんなことで意識していると思われるのは本気で嫌だ。だからこそ自分の部屋を選ぶのもアリだし、古市の部屋でもよかった。しかし、古市の部屋にはさすがに行ったこともないので遠慮したい。ならば、と人の目が『多少』あるところがいいのではないか?とこう思うのである。自分のプライドも守れるし。
「でも、かってに男鹿の部屋に入るのはどうかと思う。私の知ってる店にしましょう」
「いいですよ。近いんですか」
「帰り道の途中にあるところだから、帰りのバスに乗りましょう」
 話はアッサリとまとまった。古市はそんなに意識していないのかもしれない、と思えばこそ、葵はやりきれない気持ちに駆られるのだった。情けなさとか、いろんなもの。


 バスに揺られて着いた先は、いつものバス停。代わり映えのない日々だけれど隣にいる人が違うだけで見える景色が違う。そんなふうに思えるのはほんとうにふしぎなことだと思った。学校帰りの古市と並んで歩く葵の姿は、どう見たって仲良しのカップルみたいだろう。
「あそこの喫茶店。たまにお茶するんだ」
 葵がちょくちょくいく行きつけの店だった。男鹿とも行ったことがある。古市とは初めてだ(当然だが)。奥側の席はしずかで話しやすい。言葉が少ない男鹿とここにくるのは、いつもはないような楽しみだったが、男鹿が社会人になってからというもの、そんな時間もなくなってしまった。しばらくこの店には来ていなかった。来れてよかったと遅まきながら思う。
「ふうん…、喫茶店『rising』……つよそうな名前のわりにこじんまりしてんのな。こんな店あるの知らなかったなあ」
「ゆっくりできるお店なの」
 同じ石矢魔なのに知らないという。意外に思いつつも、隠れ家的な人気のある店なのだろうと半ば納得もする葵なのであった。
 しずかにジャズが流れていたり、日によってはクラシックが流れていて、たまに窓際の座っているお客さんがうたた寝をしている姿を見ることもあった。しかし外からはあまり喫茶店のようには見えないという、お忍びには最高の場所だ。軽食はあるものの、なんとなく休みに来たり、飲み物を飲むためにあるひとやすみの場所という感じ。ここで男鹿となにを話したっけ…。葵は席に腰を下ろしながら、過去の記憶を一生懸命呼び起こそうとしていた。これといった成果もなく、無意味な作業と思うまで、たぶん数十秒。無言のままの葵を見る古市の目がやさしくて、懐かしい場所に来たことで、思いがけずトリップしてしてしまっていたことを恥ずかしく思う。
「あ、ごめんごめん、古市くん!なにたのもうか」
「オレ、よくコーヒーのいろんなやつよくわかんないんで、カフェオレ」
「私も同じのにしようかな」
 オーダーしてから葵はすぐに古市に向き直った。
「なにか言いたいことでもあるの」
 直球のひと言。古市は深く腰をかけ直して椅子に身体を預け、後ろに体重をかけると、ぎしぎし、と古い椅子とフローリングは軋んだ音を出した。
「ま、飲みながらでいいっしょ」
 古市は余裕の態度。カフェオレが届くまで世間話をしようという腹づもりらしい。笑いながら古市は聞く。
「邦枝さんと男鹿、ここでは結構デートしたんですか?」
 葵は思い出していた。高校生の時、学校の帰りに絡まれることが多かった(そして、それを今日も起きたと思ったら違っていた。古市だったのだが)。二人で戦う時はいつだって背中合わせで、こんな関係も悪くないと思ったものだが、同時に横並びでもいたいし、向かい合いでもいたいとつよく願ったものだった。背中越しに男鹿を感じながら、どうしても彼の顔を見つめたかった。ないものねだりなのだと分かってはいた。けれど、顔が見えないのは寂しいものなのだ。だから決まって絡まれた夕方に男鹿と寄った。この店の思い出はそれだけだった。この店に来ると、男鹿と向き合える。彼の顔がよく見えるのだった。男鹿は甘さ控えめのジュースを頼むことが多かった。夕方の光が彼を照らし、濃い影が彼の長い前髪のかたちに揺らめいていた。それがなぜだかしあわせだった。
「回数にしては何回でもなかったと思うけど、冬は結構きたかな。寒かったから、ってのもあるけど。私たちが歩いてると絡まれることが多くて。なんかゆっくりしたくて寄ってたの」
「まあなー、オレだって男鹿といるとそうだもん。オレは弱いけどさ」
「いいじゃない、男鹿がいるんだし」
「いやいやいやいや。巻き込まれたの、一回や二回じゃないっすよ。オレは邦枝さんがいてくれて、男鹿を変えてくれてよかったって思ってますよ。オレも自由になれたし」
 付き合いが長いといろんなことがあるんだろう。古市の被ってきた被害というやつは、まあまあ想像がつく。絶対に男鹿では気づかないほどの普通のことばかりだろう。それでも一緒にいるのは、きっと楽しいからなのだろう。葵とは違う男鹿のミカタ。
「でも、ほんっとにありがとうございました。男鹿は、いい意味で変われたと思う。邦枝さんのおかげです。だからこうして、出張とかにも行けれてるんで」
「なんで古市くんが言うかなぁ…」
 嬉しいと思った。素直に。男鹿のことを褒められることがこんなに嬉しいだなんて。じわじわと広がっていく幸福感。
 そんなことを言っているうちに頼んだカフェオレが届いた。二人で飲みながら示し合わせたように笑った。まるで恋人同士のように見えるに違いない。
「で。これ、なんすけど」
 古市は不意打ちみたいに、直したという預かったばかりの包みをドンと置いた。大きいものじゃないけれど、軽そうである。男鹿は一体なにを大事にしていたというのか。
「男鹿のやつ、マジで電話よこしたとき慌ててて。なんか怒ってるみたいだった」
「へえ、どんな感じ?」
「部屋に置いてたやつにヒビが入った。中見えねえって。それだけじゃなんだかわかんないっすよね」
 割れ物を大事にしていたのか。そもそも男鹿の部屋にあるのは壊れ物(ゲーム機)はあったと思うが、その類だろうか? 思い出すように思考を巡らせてみた。だが、思い起こせるものはなにもない。意外と男鹿のことを知らないものだな、と少しだけ寂しい気持ちも生まれる。自分以外の誰かなのだから、知らないことがあるのは当然だというのに。
「なんだって聞いても答えなくて。じゃあっつって、オレ部屋に行ったんす。で、納得した」
 ゴソゴソとその包みを開けると、ほとんどが包装材のくしゃくしゃに丸められた紙だった。その真ん中から出てきたのは、中くらいの大きさのアクアリウム。中では作られた魚やサンゴたちがコポコポと移動している。そういうふうに見えるように造られた、夢の国みたいなコンセプトのアクアリウムだった。色あざかやで、人の目を引くそれを見て、目をぱちくりとさせたのは葵だけではなくて、当時それを見た古市もそうだったのだという。
「ああ、言えなかったんだなあ、って。これのこと、なんていうのかって。男鹿は名前が分からなかった。それだけのことだったんです」
「これ………。この、アクアリウム」
「そうそう、この?アクアリウム?…って、知ってる、で、しょうね」

 葵は思い出していた。懐かしいけれど、そんなに遠くの記憶なんかじゃない。
 高校生最後の思い出作りをしよう、と寧々と一緒に卒業旅行をしたのだった。というと、自分でアルバイトをしてお金を貯めて行ったみたいな話になるので否定しておくが、寧々の家はお金持ちで余裕で二人分を出してくれると言ってくれたのだが、葵はそんなことを世話になるわけにはいかないと固く断り続けていた。だが、それを良しとしない他のレッドテイルメンバーたちが黙ってアルバイトやらをして、旅費を勝手に作ってくれて、勝手にチケットとホテルの予約まで済ませてくれていた。そこまでされたら断ることもできなくて(キャンセル料もかかってしまう、という金銭的に無駄になるというのも危惧したということもあったのだが)、寧々と二人で卒業旅行に沖縄まで行った。
 もちろん、楽しんできた。もう、ほとんど笑いっぱなしだったと言っていい。元々、葵と寧々は仲が良くて今でも付き合いがあるのだが、この時はほんとうにお互い腹を割って話をしたものだと思い出させる。裸の付き合いもしたし、女同士いろんな話をあけすけにし、今までの絆以上のなにかを築いたと感じた旅だった。
 その度の水族館の帰り、葵はふとみやげ品の前で足を止めた。かわいいアクアリウムだと思った。ふとした時に脳裏に浮かぶのはいつだって男のことだった。やっぱり恋というものは落ちるものなのだと思う。寧々には申し訳ないけれど、一緒にいても男鹿のことは愛おしいんだよ。
「姐さん、それ買うんですか」
「うん、男鹿に」
「あいつじゃーぬいぐるみとかやるわけにもいかないですもんね」
 男鹿にはハデなアクアリウムは似合うと思った。迷いも一切なかった。これならきっと男鹿は迷惑だとは思わないだろう。そして、現にそうだった、と分かったのだから、それは衝撃としか言いようのない喜び。

「これ、私があげたやつ…」
「そう。何年か前から、男鹿の部屋に飾られてたのは知ってたけど、ただそれだけだった。そんなに大事に思ってたのって、そういうことだったんすよね」
 葵がくれたから。葵のおみやげだったから。
 そんなふうに思ってくれていたことを、表すのが下手なひと。泣けるほどに嬉しくて、声を詰まらせた。
「アイツは、ばりばりに割れたコイツを怒ったような顔で抱えて、棚から落ちたんだって言った。直せ古市、とよ。むりだっつーの、オレ、魔法使いじゃねえって」
 もう一度くしゃくしゃと緩衝材を丸めて袋に入れつつ、大事そうに真ん中に水槽を入れ込んでしまう。直ったこれは直接、戻ってきた男鹿に手渡しするのだという。一緒に地震用ジェルも渡して、固定しておくように勧めるつもりだ。
「古市くん、ありがとね。男鹿の気持ち知れて、ほんとに嬉しかった。こんなに心があったかくなったの、久しぶりかもしれない」
 男鹿はこの場にいないのに、それでも今までにないくらいあたたかな気持ちだった。男鹿に会いたいと思うけれど、それでも今じゃなくてもいいと思った。無事で帰ってきさえしてくれれば男鹿には会える。このアクアリウムだって男鹿に渡すこともできる。今じゃなくていい、出張から戻ってきて疲れを癒してからで構わない。
「男鹿がいないのに、しあわせだなあ、って思えるの。ほんとうよ」
 だが、頭の中はいつも男鹿のことを追いかけてばかりで、こんなふうに男鹿がいない時にしあわせを感じることはなかった。
 男鹿に思われるしあわせを男鹿がいない時に感じられるしあわせ。こんな中に深く身を浸していたい。しあわせの深海に潜ってしまいたい。
「古市くんが教えてくれたおかげ。ほんとうにありがとう」
「ほんっとアイツ、そーいうの言わないけど、邦枝さん、マジで愛されてるんっすね」
 なんの照らいもなく、笑えた。いつもだったら肯定するのも恥ずかしい言葉だというのに。今日は素直に嬉しさを表現できる。
「海の底、男鹿に似合ってる、って思ったの」
「うん、オレもそう思いました。部屋にあってもなじんでて、誰からもらった?とか聞くこともなく何年もあって、壊れて初めて邦枝さんの贈りものだって知ったんです」
 愛された贈りものの話。
 彼のいないしあわせ。それでも、帰ってくるの、待ち遠しいんだよ。はやく会いたい、って思うんだよ。今はこんなにもしあわせで、寂しくはないけれど。でも、ねえ、はやく帰ってきてね。そしたら、言うから。
『おかえり』って。
 葵は思った。こうして人は種を撒いているのだと。そしてたまたま、葵が撒いた種はアクアリウムの種だったのだと。そんなもの、あるはずないのに。無機物の種だなんて。笑えてしまうくらいにくだらない思いつき。
 しあわせでしあわせで、どうしようもない、そんな男鹿のいない日。途中まで古市と一緒に帰ったのだった。



2020.09.09

一昨日なんですけどね、帰り道の電車の中で急にドバーーーっと書き始めた話でした。なんか降ってきたみたいです(笑)

えっちぃのとかのSSSばっかり書いていたので、こういう、エッチな要素がない文章を書きたくてしかたないっていうのもあったんです。
実をいうと先に書いてるやつより早く書き終わってしまって、ナンバリングを変えた感じなんですが、まあ順通りにナンバリング振ってるわけじゃないんですけどね。

男ってあんまりいわないけど、こういうところからなんか愛情が漏れでるっていうか。そういうのを書きたかったっていうのもあります。
男鹿からの愛情とか、そういうのってエロを通じてして書けてないような気がしたので、すこしでも伝わればいいなあ、と。男鹿はでてこないけどね。


2020.10.06
ちょっとだけ加筆。
書こうと思っていたサブタイトルのところ、書き忘れてたみたいで入れ込みました。ひどいなっっ。
(でもまだ読んでくださってる方、一人か二人くらいの方だけみたいなので、更新しちゃおう!となったのでした。)


もうすこし青春キャンペーンでいきたいですね。。

2020/09/09 20:33:08