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 そこは、いつもと変わらない空間。
 二葉はただ、与えられた場所で祈るふりを続けていた。ここは白で埋め尽くされた、閉鎖された場所。もちろん食事や排泄は可能だけれど、時間でそれらは決まっているし、『女神』になる前は当たり前に自由にできていたことが、すべてできない。たとえば、おやつを食べるだとか、そんな当たり前のことが。それすらできないということが苦痛で苦痛で堪まらない。白いところに閉じ込められる苦痛。さらには身体の調子がよいときなど、あの『オシルシ』がでてからというもの、ひとときもなかった。
 与えられた痛みは、最初はチリチリと鈍く下腹部をずくずくするような感じで、時折焼けたあとのケロイドをチョイチョイとやられたかのような、疼く痛みと抉られる、の直前のひりついた痛みとが共存していた。服を脱いでそれを見たときには思わず悲鳴をあげてしまった。なぜなら、自分のアソコの辺りに刻印みたいな焼印みたいなものが浮かんでいたからだ。その文字のようなものナゾるように内部と外部をぐずぐずにするような痛さは現れている。指でそこを抑えると、そのときだけはいくらか和らいだ、気がした。だから人の目がないときは痛いところをギュウギュウと押した。気休めでしかないと分かっても、そうしなければつらかったからだ。これはきっと、ケガに近いなにかだ。それを分かっても、誰にもいえないこと。それだけが虚しく通り過ぎていく。
 日々、神官の偉いひとたちなのだろうか、オジサンとしか呼べないような人が主に二人、交代で二葉のもとにくる。それは食事を運んでくるだけの餌係。二葉はカブトムシじゃないやい! と叫びだしたくなるのを、痛みで紛らわせた。嫌だと思う気持ちを痛みで紛らわせる、そんなおかしなことがまかり通る封印というものが恨めしい。トイレとシャワーについては僧侶の女のひとが三人くらい代わりばんこにくる。神官のジジイに比べれば話しやすいかと思ったけれど、彼女たちはいつだって二葉を『女神さま』と呼び腫れ物にさわるみたいに、まるで二葉という存在が人間ではない「神崎二葉」ですらないように扱う。それがつらい。痛みよりも、そういった精神的なことのほうが原因で、二葉のこころは蝕まれていった。飛んだり跳ねたり遊んだり、そんな当たり前のこともできなくなり、口数も急激に減っていった。ただただこころのなかに闇だけを携えて。それをどす黒く育てていくのを神官らが手助けしているようなもの。
 そんな二葉が心救われる瞬間、それは過去の楽しかったことなどを思い出すことだけだった。懐かしい日々は思い出のなかだけ。それだけは神官らも二葉の心のなかを覗くこともできないし、咎めることだってできない。思い出したり、「もしかしたらあった未来」を想像するのも楽しい。例えば、神崎と一緒に組を立て直したり……というような、あたかも、あってもよさそうなものを妄想するのが二葉にとっての唯一の楽しみ。だが、周りに目をやると白い壁しかない。いつしか二葉は思っていた。
『白い壁なんて嫌い!!』
 どんなに思っても、二葉の思いを解せるものなんて他にいるのだろうか。二葉とともにあった、それもかなりに近しいものに限られるだろう。そんなものたちですら、白い壁のなかで流した涙について、理解できるものなど当人以外誰もいないだろうが。心のおくで叫んだ言葉は誰のこころにも響くことはなく、ただ、白い壁のなかで思ったこと。時に、その白い壁を殴って。
『思ったことは口にしなければ、誰にも───たとえ、自分が信頼している人だとか、もしくは、愛したひとでさえも──伝わることはない。これは未来永劫変わることなく』



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 戦争が始まっていた。神崎のいる連合軍と、神崎の両親たちを殺した帝国軍との。それはチリチリと毛糸の端を焦がすかのように、徐々にじょじょに始まっていたことで、気づくと大きな大戦になりそうな兆しが見え隠れしていた。
 守ることが戦いになる。それが『女神』というものがこの世にだいじなものだということが分かる。そんな理由など神崎にとってはどうでもいい。それは姪であるし、二葉であるから守りたい。それだけで十分。だから神崎はただひたすらに走る。守るため、それだけのために、剣を、釘バットを、はたまたメリケンサックなどを装備した拳を、敵となる誰それかへ向け、ブンブンと空を切って立ち向かう。二葉を守るため。それに理解を示した城山とともに再度立ち上がる。姿見えなくったって姫川もいっしょだ。
 城山はそうして何人ものひとを、敵兵を殺し血を浴びる神崎の姿を見て、これはなにかが違う、そう感じた。なにか、それは言葉にすることができなかった。否、言葉にできなかったのだ。
 異常だ────なんて、一瞬でも感じてしまった己を城山は恥じた。以前とはいえ、神崎を慕って魂まで捧げようと思ったひとのことを、そんなふうに思うなんて。そう思うと、神崎と離れてしまったこの数年というものが痛ましく感じられる。神崎組でともに同じ盃を交わした仲だ。だが、そう思っているからといって、嫌だとかそういうことではない。ただ単に、神崎が敵兵と戦いながら浮かべた表情について、それは見たものを震え上がらせるようなものだったから。それを城山が見てしまったから。それだけのこと。
 元より恐怖を覚えるような戦いをするような、容赦ない男だったと思う。だが、久しく見た神崎の「恐怖」と呼べるような狂気は、城山の見知ったそれとは、温度というかなんというか、その昔に見たものとはまったく違っていた。容赦なさについても、それは色が違うものというべきか。
 どう形容すべきかは分からない。ざくっと剣の切っ先を刺した相手に、まず反応を調べるため蹴りを入れる。反応がなければそのまま放置。それがこれまでの連合軍の確かめ方であった。死んだフリをするものが多くいると、それは未来に禍根を残すものであるから。というのが調べ方についてのいわれである。だが、そんなセオリーを無視した神崎の動向には言葉を失うしかなかった。それは、ざくりと刺した剣の先をグリリと左右に動かし抉る行為から始まる。そこで生きていれば堪らず呻く。そこで踏み、そして蹴る。なんという心ない攻撃か。さらには、ついでといわんばかりにぐいぃんと体を大きく動かして、剣を自分が動いた方向へとさらに動かした。今まで耐えきった誰かもですら悲鳴をあげる所業。むろんその行為には血も涙も、なしには語れるはずもない。すくなくとも、城山はそんな心ない行為をいとも簡単にしてしまう神崎の姿を、これまで見たことがなかった。彼は──城山の知っている神崎一という男は──、情というものをよく知っている男だと、そう思ってやまない。間違いや勘違いなどではない、そう思うのだ。けれど、異常だ、なんて思うことはどこかおかしいのかもしれない。それを認めたくはなくて、城山は戦いに、それこそ神崎と同じように、身を投じた。それこそ、同じように、神崎とともに血を浴びて。



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 戦いの火蓋は切って落とされた。これが特別な戦闘というわけではない。だが、帝国軍が本気を出して封印がしまいこまれた塔へ向けて突進している、と聞けば黙ってなどいられるはずもない。神崎は城山のことを呼ぶこともせずに立ち上がった。誰の助けもいらない、そう思った。ただ、敵をぜんぶ、ころしたい。
 神崎のこころはその何気無い表情の裏で、妙に昂ぶっていた。ざくりと切る感触、血液を浴び濡れたときの高揚。戦場のにおい。埃まみれの誰それが歪んだ顔をしてかかってくる様。すべてを切り裂き、叩き砕いた。痛みはそのとき別離している。脳内アドレナリンがどくどくと溢れているようで、攻撃を食らっても痛みは感じない。その間じゅう、湧き立つような想いだけが神崎の胸のおくに生まれ出でていた。それが言葉になるとすれば、ころしたい、となるのだが。いつだって神崎はそこに盾のように二葉という存在を置いて、矛のように突進していった。
『女神』という封印を守る盾と矛はいつだって交わらない。そしてそれは、同じ運命を辿ってきた姫川も同じだ。いつだって二葉をだいじに思うものたちはその運命や行動が伴わない。まるで、これでは二葉は捨て駒のようではないか。それを正気のときに何度だって神崎は感じたものだけれど、ヤツらを切って捨てるとき、そんな思いなど消え去っていることに、とうに気づいていた。ころすことはあまりに爽快で、すべてを忘れさせてくれた。だからはまり込んでいく。のめり込んでいく。『女神』を大義名分にして、なおも。


「久しぶりだな」
 軽い響きの声が耳に懐かしく伝う。神崎はその声に思わず目を細めた。今回の神崎ら連合軍の目的は実に分かりやすく、そして、何年も前から望んでいたことだった。神崎は迷うことなく先陣を切るといい放った。なぜなら、今回の任務は『女神』を保護し、所定の場所へ移動させること、というものだったからだ。
「姫川」
 二葉のかつての婚約者だった、そして、神崎自身の幼なじみである姫川の澄ました顔が懐かしい。もちろん両腕を広げて抱きついたりするほど気安い関係でもない。口角を上げてやるだけで十分だ。
「噂は聞いてたから心配してなかったぜ」
 一言も二言も多い男。その皮肉に満ちた言葉に神崎は堪らず苦笑した。会わないときが長くても、こいつはいつでも変わらないのだと安心すらする。過去には姪の二葉の婚約者だったけれどそれはもう解消されて、今こいつと俺は何の関係があるんだろう、なんてくだらない思いを吹き飛ばせるくらいには。とん、と軽くわざと身体をぶつけて神崎はすこしだけ背の高い姫川を見上げながら睨みつけるような強い視線をぶつける。言葉よりも行動で示すタイプなのは神崎らしさだ。その神崎の視線を受け止めて、笑みすら返さず冷たい表情のまま姫川はその身を離す。元々こういうやつなのだから、神崎はそれを特に気にすることはない。ただ懐かしいばかりで。
「明日にでも発つつもりか」
「バカにすんじゃねぇよ。明日だぁ? 今から、に決まってんじゃねぇか」
 二葉を助けにいく。
 元婚約者だからこんなふうに悠長にしていられるのだろうか、と神崎は不思議に思った。元だろうがなんだろうが、仲良くやっていた二人の姿を覚えている。愛を語れるほど、神崎も姫川も歳をとってはいなかったが、それでも解るものはある。元より親が決めた結婚だとしても、それでも全く知らない誰かよりは親しいおじのダチのほうが二葉自身も昔から知っているのだし、いいのではないかと。だからこそ一緒にいられたのではないかと。そんなモヤモヤした考えから目を背けたかった。神崎は強引に姫川の腕を引っ掴んだ。その斜に構えた目をまっすぐに見ながら。
「おまえも、いくんだよ。俺とな」
 姫川は、拒否しなかった。
 頷く代わりに背を向けて去ったと思えばちゃんと武装をして現れた。いくんだよ。神崎といっしょに。姫川はなんにもいわずに語った。積もる話などは目的を達してからで十分だ。どちらも同じ思いだったのが嬉しくて、神崎は笑った。だが、姫川はニコリともしなかった。夜闇のなか、二人は単車に跨って出立した。目指すは二葉がいる塔だ。古くて狭そうな塔へ。

 単車の爆音。神崎は後ろに姫川を乗せて高らかに笑った。いつか随分前の記憶。こうして好き勝手に暴れまわっていたときがあったっけ。そう、両親が竜に殺されるまではこうして、幸せに当たり前の日々を送っていた。あれよあれよという間にすべてがひっくり返ってしまった。血色に彩られて殺伐とした空気のなかで、すべて。
 排気ガスの香りが懐かしくて脳みそだけがタイムトリップしてしまう。気が狂ったように神崎は大声で笑った。そういえば、親が死んでからあの日以降、泣いていなかった。こころから笑ったこともなかったけれど。今だってそういう笑いではない。だが、笑い声を出さずにはいられなかった。楽しくて笑えるのか、もうわからない。ただノドを枯らすみたいに声を上げる。爆音に掻き消されながらも、その声は姫川だけには届く。


 近づくにつれ、連合軍のほうが早いかとおもっていた行動は、実は遅かったようでポツポツと灯りが見える。それはわざとらしく息を殺したような火の灯り。それが見え始めてから単車を止めた。きっと遅いだろう、と姫川は冷静に神崎に告げた。ならば、どうすべきか。神崎にとっては考えるまでもなかった。
「そりゃ、とーーぜん…」
 ガツッ、と鋭くアタマを押さえ込まれる。姫川は神崎の浅い考えなど寸分違いもなく読み切っていた。だからこそ、ともに来たのかもしれなかった。顔を近づけていう。冷たく。
「当然、“正面突破”だ、なんていうんじゃねぇぞ、バカが」
 いおうと思っていた言葉を押し殺されるようなハメになるとは。ぐ、と神崎もそのまま声を出せずにいる。顔が近い。と、姫川は急に顔を離して周りをぐるりと見やる。敵の数はきっと見た目よりもずっともっと多いだろう。恐れているわけではなく、ただ、無駄死にするのはもったいないと姫川がいいたいのだと悟ると、神崎はわざと笑う。そもそも無駄死にという言葉がおかしいのだ。無駄でもないし、それは死ななければ適用にならないという限定的すぎる言葉だ。そしてこうして今、神崎はのうのうと生きている。それを思い神崎は鼻を鳴らして嗤う。
「裏口からは入れねーんだよ、このハゲ」
「テメーは話題の政治家か糞が」
 姫川のフランスパンみたいなリーゼントの先っぽをくしゃりとやり返し、すぐに正門へと向かう。屋敷の建物が聳え立つ、その脇に塔があるのかと思いきや、話とは違って塔なんてものはない。どうやらこのだだっ広い建物のなかを探さなければならないようだ。塔ってなんだ、と思いながらであっても。



*****



 見た目よりも遠い屋敷は、正門をくぐってからもかなりの距離がある。そしてそこには帝国軍の兵士たちがまるで来るのを分かっていました、といわんばかりに配置済み。もしかしたら、奇襲失敗?と頭のなかを不安がよぎりながらも神崎は正面突破で彼らに向けて走りだす。持っていたのはメリケンサック、研いだ刀、木刀、木でできたバットなどだ。いつまで戦えるか分からない装備ではあるが、敵が持っている剣を奪い取ってもいいと思っている。途中、狭い小部屋に神崎と姫川の二人で引っ込んだ。そこは空調も十分で、小休止するにはいいところだったので、少しだけダベった。
「…っ、バッカやろ。なんで正面から入りやがった」
 舌打ちをしながらいう姫川の姿は遠目に見ながらも、とても愉快で神崎にとっては初めての、姫川に対する上から目線という精神で見ることができた。なぜなら、姫川はビビっている。それが肌で感じられるからだ。笑えて堪らない。カネにモノを言わせていたやつの、カネが意味をなさない環境について。
「びびってんのか」
 神崎の声色で、その気持ちを姫川は読み取る。むろん、姫川はイラつく気持ちを覚える。
「数は力なんかじゃねぇ。俺が殺してやる。ぜんぶな」
 殺気立った目をする神崎を見て姫川は冷たく一言だけ。
「お前、変わったな」
 それに答えるつもりもないし、答えがもらえるとも思っていない。小休止してから持ち物を整える。返り血はそのままで。
「なんか用あんじゃねえのか」
 分かっていた。否、姫川は神崎がなにかをいおうとしていたことを察してくれていた。休止なんて挟まずに、そのまま奇襲をかければよいものを、わざわざ呼ばれた理由については想像もつかなかったが。それでも何かあるのだろうと分かってくれていた。神崎は懐に軽い得物を隠しこみながら立ち上がりゆるく首を横に振った。
「聞こうと思ったけど、…やっぱ、いーわ。二葉を取り戻してからで」
「そっちのが先だァな」
 二人はどちらからともなく頷きあって、すぐに扉を開けて足音も隠さずに走り出した。奇襲をかけるならば、やはり早いほうが効果的なのだ。
 暗いなかを滑走するのはいつもとは違った感覚を味わえる。音だけで誰かを認識する世界。いつもと違うような気がして、気持ちがワクワクする。だがやることはいつも通り。ざくっ、と小気味好く相手の身体を削る音がこだまする。それに怯まない帝国兵の相手は、いつしか笑えるようになっていた。そういえば姫川の姿は見えない。一緒に来たはずなのにな、と神崎はひとりごちた。それを誰かにいうでもなく。誰の目も気にすることなく、使えるまで刀を振るう。日本の刀というものはじつによくできていて、刃のほうを使えば肉をいとも簡単に斬り裂く。だが血糊ですぐに錆び付く。錆びてしまうと切れ味は格段に落ちる。だから毎日の手入れは欠かせない代物になるのだ。すぐ手入れができないのであれば、それは本数が必要になる。当然のことだったが、そんな簡単に持ち込めることでもない。神崎はナマクラになった刀を鞘に収め苦笑した。帝国兵を殺すためには、否、殺し続けるためには、やはり青銅剣が必要なのだと、腕力に頼ることが必要なのだと悟った。斬れるだけ斬って、それ以外は手持ちの得物で落としてから後戻りをした。それは神崎にとっては、とても珍しいことだった。目が合ったやつは、逃げようとしない限り殺す。それが斬り殺されるのか、殴り殺されるのか、血が流れすぎて死ぬのか、頭が潰れて死ぬのか、それは人それぞれだ。だが不思議なことに今まで出会った兵士たちとは違うところがあった。すぐにナマクラになる刃物の危うい脆さについて、神崎はこれほど悔しいと感じることはなかった。サクサク殺せれば、すぐにこんな惨状は終わるのに。終わらせたい、わけではなくて、はやく二葉に会いたい。
 それにしても、予想より敵は早い動きで現れており、すでに包囲されていた。この建物は連合軍のもののはずなのに、すでに帝国に占拠されているかのような有様なのだ。なんとしても二葉を見つけるのは自分たちが先でなければならない。神崎は唇を噛みながら、奥の部屋へと向かう。『女神』だからじゃない。遺された家族の一人だから神崎は助け出したいのだ。だが、姫川はどう思っているのだろう? 彼の気持ちを、神崎は分かる術がなかった。そんなことをうだうだと考えている暇などない。神崎は敵を見つければ武器を振るわなければ、己が死ぬ立場にあった。その最中で思う。
(どうして、早めに来たのにこんなに軍兵がいる?)
 まったく解せない。神崎は見つけた敵兵を殺しながら悶々としていた。すでに囲まれたような状態にある。それは異様なことだ。嘘の情報を流された可能性もある。そう思えば、二葉の身はすでにここにはないのかもしれない。だが、諦めておめおめと引きさがれるはずもなかった。ざばりとひと息に斬りつけた相手兵の腕がぼとりと落ち、それを血潮を浴びながら刀にはつけまいと身を捩った。まだその兵士は闘気を失わずに自分が落とした得物を拾おうと屈んだ。その隙に頭を蹴り、刀の柄で思いきり殴りつけ踏んだ。その瞬間、目が合ったそいつの目は、この暗いなかでも分かるほどに紅く爛々と燃えていた。人間の目の色じゃない。それを神崎は胸に刻んだ。なにかがおかしいことに感づきながら、神崎は廊下を、部屋を、ドアを蹴り上げながら、それでも分からなければ階段を駆けのぼり階を変え、その姿を探した。二葉は神崎の到着を待ちに待っていることだけは、間違いのない事実だから。理由なんてそれだけで十分だ。走って階段を登った先に見覚えのある後ろ姿があった。神崎はその名を呼ぶ。
「姫川!」
 性格も反対だが、選んだルートも反対だったようで、その姿を見ることはなかった姫川の銀の髪が灯された明かりによってキラキラと輝いて見える。どんなときだって姫川の髪は輝く。それがまずいフランスパンの形だとしても、サラサラとなびく長髪だとしても変わらずに。立ち尽くす姫川の背中が絶望を物語っていた。が、それを認めるのがいやだ、そう神崎は思った。だからわざと乱暴に姫川の身体を引っ掴んで胸ぐらを手にしたまま引き寄せた。姫川は声をかけられた、ということもありだれがそんなことをしているのか分かっているので、逃げようともせずそのまま身体を揺さぶられる。
「ふた、二葉はっ?!!」
「連れ去られたあとのようだ…」
 だから呆然と立ち尽くしていたのだ。姫川の声もどこか落ち込んでいる。くそ、と悪態づきながら神崎は姫川から手を離した。間に合わなかった。早く来たというのに。それが悔しくてたまらない。殺意が神崎の胸の奥でメラメラと燃える。
「取り返す。ぜったい」
「…ああ」
 余計な言葉など要らない。神崎は血にまみれたまま、疲れを知らない獣のように歩き出す。『女神』である二葉を救うことを誓う。むろん神崎の立場であれば『女神』でなくとも絶対に助け出すと違うのだけれど、彼女の立場は守るものとして正当に値する。それを姫川がどう感じているのかは、分からないけれど。まだそれを訪ねるには時期尚早な気がして、神崎は姫川のほうを見ることをやめた。まずは助け出すことがなにより先決だ。なんとしても二葉の命を守ることが。