深海にて38


※ 男鹿葵の新年あけおめ

 正月は母方の実家に帰省していた。帰ってきたのは三日になってから。それは最初に聞いていたので葵もなんとも思っていなかった。年賀状だって送る性質なんてないのも分かっていたし。けれど意外だったのは、あけおメールがきたことだ。しかも海で初日の出を拝んだという男鹿からの写メつきの珍メール。こんな洒落たメールはきっと年1でしかもらえないことだろう。Toのところを見たら、古市にも送っているようだったので、挨拶メールは手抜きらしいとすぐに分かったが。それを恋人にやるのかよと笑えてしまうのは、やはり葵が男鹿に参っているからだろうか。なんだって許せてしまう。なぜなら、そういうやつなんだもの。マメにメールくれなくったって、それは男鹿だからこそ許される。そういう人を想ったんだと、自分で笑える。
 そんな葵は両親がいないので祖父と、弟とともに終えた。それはいつもの大晦日であり、いつもの新年だ。あけおめをいうのも最初は家族となのだ。それもまたいいではないか。葵なりの、いつもと変わらぬ幸せが通り過ぎてゆく。年末の掃除を終えればあとは餅つき、お雑煮、とけっこうバタバタしているのだ。昔ながらの日本的な休みのことを、葵は愛おしいと思っている。男鹿と一緒にいたい気持ちもあったけれど、それではこころは落ち着かないかもしれない。そんなことを考えるヒマなんてないほどに、日々は目まぐるしく過ぎていったのだったが。
 しかし、お餅は昔ついていたけれど、邦枝の家ではしばらく餅つきをしていない。それは男手が足りないからだ。葵の心の奥底で、じつは思っていることがある。光太がもっと大きくなって、力がついたなら餅つきをしてほしいな、と。それは遠い未来の夢にすぎないし、口に出したこともないのだけれど、いつか本当にできる望む夢としてそんなことをゆるく思っていた。
 そんな男鹿から、元旦を過ぎた、しかも三が日にメールがきた。元からスパスパとメールを返すほうではない。それはいいのだが、内容が『出かけねえ?』だったのが、今年の早くもレジェンド。葵は目を疑った。何度も、メールを見た。高校のうちは月額料金の高いスマホをもたせてくれるような家庭ではないし、そもそもスマホがほしいという葵でもなかったのでガラケーのまんまでパカパカしながら、何度もその短いメールを読み直した。嬉しくてどうしようもないくらいの気持ちだったのだ。そのにやけが顔に出ていたようで、祖父から注意を受けた。
「葵。なにへんな顔してるんじゃ」
「なによう、おじいちゃん。失礼ねっ」
 わざと怒ったふりをしてやりすごした。だが、男鹿と出かけることは近々いわねばなるまい。否、やはり今いうべきだろうか。何度かその考えは葵の脳内を駆け巡っていた。その際も祖父からの視線を感じていた。だから息を大きく吸って、声を出す。
「おじいちゃん。近いうち、男鹿と、出かけるからっ」
 それは、有無をいわさないつよい響きだった。だからおかしな返しなどもしてこなかった。このタイミングで当たりだったのだ。葵は内心とてもホッとしていた。


 男鹿と会う約束をしたのは1月5日。もうすこしで学校が始まってしまう。その前に遊びにいこうということだった。どこに行くのかはその日まで教えねぇとの一点張りで、葵はあまりにドキドキしてしまい、前の日は満足に寝られなかった。少し寝不足気味で目の下にクマができていやしないかと何度も鏡の前でチェックした。髪の毛のだらしないハネもない。大丈夫だと確認して鏡を後にする。男鹿はそんな細かなところに気づくような男じゃないとわかってはいても、どうしたって乙女なのだ。彼の前ではできる限りは可愛らしくありたい。せめて、その短い時間だけでも。
 迎えにきた男鹿の顔を見たくなくて、祖父は表まで見送りをすることはなかった。男鹿のことを認めている祖父ではあるけれど、やはり簡単にそれを認めたくないというのがいいぶんらしかった。葵はまだ自分の子どもなんて持てる年齢でも身分でもないから、その気持ちは推し量ることもできないのだったが。だが、大事にされていることは感じられる。悪い気はしないけれど、複雑な気持ちになるのは確かだ。そんなことを気にするふうもなく、男鹿は冷たい手を伸ばしてきた。こうやって手をつなぐのがごく普通の、当たり前のことになりつつあることが、葵の胸をまたドキドキと高鳴らせた。すき。そう思うことが、いっしょにいるだけで何度もある。それがどんなにしあわせなことか、教えてくれたのは目の前にいる、この男鹿辰巳という無垢な男だ。
「ねぇ、そんなに急いでどこにいくの?」
 後ろに背負うベル坊はとても厚着させてある。珍しいと思った。男鹿はやっぱり「いいから」と、その問いには答えずに葵の手を引いてぐんぐんと歩く。まだ午前も早い時間でここは寒い。こんなに早い時間にいこうだなんてどこにいくのか、葵にはさっぱり分からなかった。向かうのはJRの最寄駅だ。移動するらしい。つまりは、遠いところへいこうということらしい。
「くわしいことは電車んなかでだ」
 切符を二人ぶん買って、その1枚を葵に手渡しながら男鹿は葵に振り向くこともなくそれだけいった。葵としてはその態度はすこしさびしい。だがバタバタと乗り込んだ電車はガラガラに空いていた。この時期の早朝に乗るやつなんてそうはいない。それは腰を下ろせる時間でホッとできる。男鹿は向かい合いで座って、ベル坊を自分の隣に置きながらいった。降りる駅のことだ。その駅名を聞いて、かなり移動するのだなと葵は思った。そして男鹿はベル坊にミルクをやりながら話す。
「これから登竜湖にいく」
「えぇっ?!」
 その地名は石矢魔から離れている。近隣とはいうが同じ県内でも車で2時間ほどもかかるだろう。葵は用もないのでそこはいったことがないが、葵たちが使うダムとはべつのダムがある場所だと聞いている。ダム見学とは男鹿にしては珍しいと思いながらも、こうしてすでに電車に揺られているのだ。葵は断ることなどできなかった。ここまで積極的に動いた男鹿はとても珍しいと思うだけだ。男鹿に振り回されるのも、そう悪くはないような気がした。
「でも、急にどうして?」
「正月、……俺ばーちゃんとじーちゃんとこ行ったろ」
 そこから始まった男鹿の話は、あまりに馬鹿げていたけれど、それこそが男鹿らしいともいえる。聞き終えた葵は笑ってしまった。なんて無邪気なんだろう、と。そして、腐すわけじゃないけれど、やっぱり男子というのは子どもなのだ。どこまでいっても、無邪気で無垢で、悪気なんかなんて素直で…。女からすればとても愛おしいところがたくさんある、そんな生き物なのだろう。気付かぬうちに微笑んでいた。
 男鹿の話はこうだ。祖父母と一緒に見たテレビの特集で釣り番組がやっていた。それを見ると魚と仕掛けと釣り方、そして釣る瞬間のことを、手を変え品を変え、魚の種類と場所を変え、繰り返し3時間ほど放送していた。祖父はもとより釣りが好きだというので、男鹿にそれを身ぶり手ぶりをまじえ話す。その内容がまたテレビとの相乗効果もあって、とても面白い。男鹿は堪らずいった。
「俺、釣りしてぇ」
 まるで子どもだ。そうしたら、今はさすがに寒いから、と暖冬の関東をあざ笑うかのように祖父がいうので、地元に帰ったら海も近いからいくと男鹿はいいはり、道具を借りてきたのだという。どうりで大きな荷物を抱えているものだと葵は思ったものだ。釣り竿や簡単な仕掛けの種類などを借りてきたのだという。祖父も、もとは好きだった釣りだが晩年では足腰の弱りのせいもあり、わざわざ釣り堀にいくこともなく、その道具自体は部屋のなかでホコリをかぶっていたという。つまり、借りたとはいっているが、事実上もらったようなものだ。
「で、まぁうちはオヤジが釣りとかしねぇし聞けねぇんで、ネットで調べてきた」
 男鹿なりに勉強を積んだので、その腕前を披露したいわけではまだ初めてなのでないだろうが、してみたかったことを葵といっしょにやりたいという話だ。じつにいじらしいほど。
「今の時期はワカサギがいいんだとよ」
 登竜湖は貸しボートに乗ってワカサギ釣りを楽しめる話題の釣りスポットだ。興味のない葵には聞いたこともなかったが。ダム湖で安定して水があるのだという。寒い時期になるとワカサギは下に沈んで場所を固定させるので、初心者でも釣りやすいのだという。それに、たしかにワカサギの天ぷらは美味しい。楽しみは増すのだった。釣りとベル坊の面倒と、あとは二人の会話と、釣れれば美味しい天ぷら…。男鹿の今回の目的はこんなところだった。久々に会ったのでいちゃいちゃしたいというのもあるが、まずは男鹿の頭のなかでは釣りが第一にある。今も素振りみたいなキャスティングの練習を電車のなかで躍起になってしている。
 葵は思う。ほんとうに男鹿とあう趣味というものがない。どちらもアウトドア派ということだけは一致しているが、いきたいところやジャンルが違いすぎるのだ。これは驚くほどだ。だけど、そんなことをすっ飛ばしていっしょにいられることが楽しいのだった。恋人というものは、きっとそういうものなのだろう。葵は流れてゆく景色のなか、こんな日がまた訪れてほしいと強く願った。どうせ学校が始まってしまえば、進路がどうとかケンカだとか、慌ただしい日々が始まるのだろうから。だからせめて、せめて今だけは───
「ほら、あれがガスタンクだぞ。あそこに貯めてんだ」
 男鹿は窓から見えるガス局の大きなタンクを指差していう。ベル坊が「ダブッ」と喜びの意を示している。幼い子どもというのは、人間でも魔王でも、変わらず大きなものが好きなようで、それだけてキャッキャとはしゃいだ。風景が石矢魔にくらべて緑が増えた。田舎へ向かって電車は走っている。流れてゆく景色のなかに自分たちはうまく溶け込めるだろうか。そんなことを葵はぼんやりと思った。見たことのない景色たちがすばやく流れてゆく。

 電車に揺られること2時間ほども経ったろうか。太陽はかなり高い位置にキープしている。天気は良好、今年は暖冬といわれているだけに暖かい。冬の陽射しとはとても思えない。だが、石矢魔よりは寒い。かなり田舎のほうに来たからだ。そんななかでも男鹿はすぐにジャンパーを脱いで腰に巻いた。葵は笑った。
「暑いの?」
「こんくらいでちょーどいい。でもたぶん湖の上はかなり冷えんぞ」
「…だろうね」
 そこから現地に行くバスに乗り換えて、登竜湖というダム湖に向かうのだ。葵は先に頼んでいたという男鹿のバスの乗車券を受け取ると、コートのポケットにしまいこんだ。ベル坊は乳児なので無料で乗れる、と男鹿はいう。そんなことくらい分かっていると笑ってやると、素直に返してきた。
「お前すげえな」
 誰が光太を育てていると思っているのだ。もちろん、こんなだから夫婦と間違えられてしまったりするのだけれど。聞こえなくともいいのに周りのおとながクスクスと笑っているのが聞こえる。それをまるで自分たちが見世物みたいに見られているのではないかと感じてしまうことこそが、ただの被害妄想なのかもしれないけれど、それでも目の前の男鹿は葵の前で楽しそうにすぐくる未来への、否、釣りへの熱血を勝手に語る。それを聞いているだけで、葵の胸のなかにはホワッとした、それがなんだかは分からないけれど、あたたかいものが流れ込んでくるようで、いつの間にやら周りの目なんてものが気にならなくなっていくのが、葵自身にも分かった。どうでもいいことを気にして動けなくなったり、感情的になったりする葵を、そのつもりはなくとも男鹿はいつだって後押ししてくれるから、こうして一緒にいることがとても安らぐのだろう。気づかぬうちに溢れる笑顔に男鹿も気を良くして、先に立って葵を先導する。バスへのエスコートは男鹿らしくないほどにじつにスムーズ。ただ釣りをして遊びたいだけなのだということはわかるけれど、こうして特別みたいに扱ってくれることなど今までなかったのだ。こういうときが訪れるなんて、数ヶ月前に誰が予想しただろう。それだけで葵の胸はウキウキと弾む。それだけ現金な葵自身にもちょっと呆れつつも、彼らは楽しい気持ちたくさんでバスに乗り込んでゆく。


 バスで揺られること20分ほど。ダム湖ということもあり、山々が広がるじつに自然という光景が男鹿らの前に広がっていた。そして石矢魔よりも体感温度は低いが、陽射しはさんさんと温かく、絶好の釣り日和といえる陽気だ。それに気を良くした男鹿は釣り竿を慈しむようにさすりながら、ボート乗り場へと向かっていく。その後ろ姿はいつもに増して葵の目には勇猛に映る。きっとこれが惚れた弱みというやつなのだろうけど。だが男鹿はそんな葵の気持ちをあざ笑うかのように、振り返りざまにこういった。
「腹へった〜」
「プゥギィ〜〜〜」
 たぶんベル坊も同じことをいったのだろう。男鹿に背負われながら彼もまた吼えた。真似するみたいに。日増しに男鹿とベル坊は似ていく。また、ベル坊のその魔王たる雰囲気は、魔界のもの独特なのか葵には知る由もないが、それを思わせるほどにヒルダとも似ていく。だから最初は男鹿の嫁とヒルダが勘違いされていたのだし、葵はそれを信じてもいたのだ。すべてを理解してからは、そんなこと気にならなくなった。人間らしく魔王の子どもらしく育っていくベル坊を見ると、そんなことはどうでもよくなっていくのだった。
 ボート乗り場には数人並んで待つ人の姿があり、この時期にワカサギ釣りをしにくる人が多いことがよくわかる。そもそも買えばいいものをわざわざ釣りにくるのだから、人は自然の行為に飢えているのかもしれない。そんなどうでもいいことを思いながら男鹿の視線の先を見ると、そこには食堂と書いてある場所があるが、ボート乗り場よりももっともっと混んでいて、おいしいのか分からないものをみんな食べたがるのだなぁということと、他に食べるところがないところが葵は気にかかった。あそこで食べるしかないではないか。
「男鹿。べるちゃん」
 葵は背負っていたリュックを足元に下ろしながら二人の名前を呼ぶ。すぐに振り向く二人に邪気はない。食事の心配なら最初からしていた。もちろん用意もバッチリだ。葵はリュックを漁ると、すぐにアルミホイルと新聞紙に包まれたにぎりめしを取り出した。
「こんなこともあろうかと、思ったからね」
 もちろん予測もバッチリだ。きっと男鹿には予想できないことだったのだろうけれど。三人は、それぞれローテーション式に食べる順番を作り、空いたものがベル坊にミルクをやる。手馴れたものだった。まだ高校生だというのに、手際よく乳飲み子にミルクを飲ませているサマは、やっぱりどこにいても浮くというもの。だが、いつもと違う場所や環境で行うすべてのことに、実をいえば男鹿も葵も、ほんとうは余裕など感じる暇がないのだった。周りの視線も感じない。自分たちだけの、やわらかで忙しい、けれどとても楽しい世界でしかない。
 葵がもぐもぐとやっているところに、ボートに乗るという順番が回ってきた。しかし、そこで面倒なやりとりがあった。男鹿の背負う赤ん坊のことだ。手漕ぎボートに乗せるのは危ないからダメであると、ボート屋の受付員の男は頑として譲らない。こんなことになるのならばちゃんと調べればいいのにと思う葵は、なんとかペットボトルのお茶を飲み込んで手に残っていた握り飯を喉奥に流し込むと、息を整えてから男鹿の前にずいと出て受付員の男と男鹿たちの間に入っていく。
「ごめんなさん、分からなかったものだから。でも、ここではボートに乗らないと釣りができないんですか?」
「ああ、そうだよ。小さい子ども、見たところ乳幼児みたいだからそういってるんじゃないか。もしまかり間違ってその子が落ちでもしたら──」
 そのとき男鹿がベル坊に目配せしたのを葵は見逃さなかった。いつだって、彼らのことを見ているその目は、そして背中の赤子の手は、噂の乳飲み子の手は受付員の彼の肩をがっしと掴んでいた。そのときの男鹿の顔ときたら、まるで悪魔のような凶悪な笑みを浮かべていて、ここでなにやら悪しきことが起こる前に、どうしても我を通さなければ事件になってしまうのではないか、と葵は瞬時に危ぶんだ。しかし、葵の動く前にベル坊の指が彼の肩に食い込むほど強く、掴んだ。その力に彼はひたすらに驚愕するしかなかった。こんな力を持つ子どもと、そして親。その親の冷たいほどの笑顔。彼は黙ったまま表情を曇らせ、そこから離れたさそうに子どもと親から、否、葵を含む三人から目を逸らした。その表情はあまりにカタい。ぐぐ、と軋むみたいにベル坊の指がその人の肩に食い込む。無論、ベル坊にそのような暴力的な力などない。これが男鹿とベル坊との強いリンクによるものであること、それはベル坊の無尽蔵なほど溢れる魔力によるものであることを、葵はよく知っていた。男鹿はそんなこと理解して悪魔の笑みを浮かべる。
「大丈夫。うちのベル坊に限って、落ちてくたばったり、絶対しねぇ。し、落とすわけねぇーだろが俺が」
 すっかり顔面蒼白になった彼は静かに頷くと、男鹿と葵の分の券を受け取り、それと相反するかのようにライフジャケットを渡した。しかし、子供用のそれはベル坊にはかなり大きいサイズだということが一目でわかる。つまり、そういうことなのだ、と葵は瞬時に理解した。無愛想に彼が「どうぞ」といった。そのまま三人はボート乗り場に向かった。冷たく冷えきったこの空気のなかでボートに乗り込むなどと思ってもなかった葵は堪らず男鹿へ文句をいった。
「男鹿! なんであんたはこんなむちゃくちゃ…」
「───乗せたかったんだよ。コイツも、邦枝も」
 サラっと照らいもなしにそんなことを堂々と、しかもさも当たり前みたいに真剣な顔でいいきってしまう。その様子に葵は言葉を失う。男鹿の子どもっぽさは今に始まったことではない。無茶振りだって同じことだ。それになにより、男鹿の真剣な表情と、乗せたかった、という真っすぐな想いに心打たれてしまったのだ。葵自身バカらしいと感じるけれど、高鳴る胸と彼女の想いについて誰がどうこういうことなど、できはしないだろう。
 乗り込んだ手漕ぎボートは簡素な作りだった。ダム湖なので風が波を作るだけの静かな湖面だ。この小さな船の上では男鹿がルールでしかない。葵は、ただしずかに寄り添う伴侶のようにベル坊の面倒を見るものだった。男鹿は生まれて初めて手漕ぎボートの船頭になるのだが、ザバザバやるうちにすぐにコツを掴んだ。元よりパワーは有り余っているような男なのだ。他の手漕ぎボートを漕ぐものたちに比べると、ひとかきでグーンと進んでいく。男鹿と葵は隣り合うようにボートに座っているので、男鹿の漕いだほうへとゆっくり進むボートの動きというものはじつに愉快だった。時折、水しぶきが彼らの身体をわずかに濡らしたが、それすら心地よいと感じるほどに、親たちから離れた彼らはとても自由で、とても幸せだった。葵に抱かれながらベル坊も無邪気にはしゃぐ。ボートは湖面に浮かんでいるため、ゆらゆらと揺れるたびにふわりと浮ついた感じになる。それが愉快であり、すこしだけ恐怖でもある。男鹿は周りの様子を見ながらボートを漕いでいく。すぐに手漕ぎボートの進ませ方についてはコツを掴めたようだ。脳みそを使うことは苦手ではあるけれど、体を使うことに関してはすぐに覚えてしまう。男鹿らしい特性だと葵は思っている。男鹿は周りの親子やカップルらの様子を見ながら、その釣れ具合を見つつ移動していった。そのしずかなボートの漕ぎ方について、繊細なこともできるものだと葵が意外に感じたのは、男鹿には内緒だ。釣れなさそうな親子連れのボートを追い越して、湖面の波紋を見ながらゆったりと手を湖面からだす。手をプルプルと振りながら水気を切ろうとする。
「つめてぇ」
「そりゃそーでしょ、真冬だよ? 今」
 男鹿は釣りのポイントを探して躍起になっているだけだと思っていただけに、そのあまりに普通すぎるほどの感想に、思わず葵は笑ってしまった。
「で? このへんで?」
「おーよ」
 そう男鹿はいうとロープを持ち物から取り出し、湖面から突き出ている木とボートをロープで止めてしまう。その手際は葵の目にはベテランのように映ったけれど、実をいうとかなりたどたどしいものであったことなど、今この際にはどうでもよいことだろう。男鹿は、ベル坊と一緒に背負ってきた伝家の宝刀、もとい、祖父からの釣り竿を取り出しボート乗り場の近くで買ったエサをつけ始める。これを見ただけで葵はドン引きしてしまった。紅サシという赤っぽいピンクのちいさいミミズみたいなエサである。葵は常々、不良相手に竹刀でメッタうちにしたり、一刀斎から教わった武術などで他を寄せ付けないほどの武術の心得はある。また、家のなかでも家の周りの花壇をいじったり、祖父が採ってきた山菜などを調理したりすることもある。基本的に昆虫の類はキャーキャー騒ぐほど恐怖しているわけではないが、やはり虫というのは得体の知れない生き物であって、特に毛虫みたいに毛を刺してきて腫れたりだとか、蜂のように毒を持っていて病院にいかなければならないようなことになるのはさすがの葵でも嫌だし、怖いとも感じている。あとは生き物にもよるが、ヌルヌルした生き物については触った瞬間なにが起こったか分からず、悲鳴を上げてしまうこともある。例えば、庭の枝切りをしていてなんの気なしにナメクジに触ってしまったときなど。それなりに女子っぽく虫に対して嫌悪や恐怖は感じるのだ。だから鼻歌を歌いながらエサを針につけていく男鹿の手元を見て、すこしだけ気分が悪くなってしまう。
 仕掛けは10本のちいさい針のひとつひとつにそのうにゅうにゅとした虫をつけていく。虫に針が刺さっている。釣りという残虐な行為に対して、釣りをする人はなにも感じないのだろうか。葵はそんなことを思ってしまった。だが反面、ベル坊は目を輝かせている。ほんとうの親子のようである。悪魔や魔王にすれば、無作為に奪われる命は心地よいのかもしれない。それを思いながら男鹿の様子を見ると、さびしいような悲しいような、遠いもののような気持ちになる。そんな葵のことばにならない想いなど男鹿は知る由もなく、手早く仕掛けを作ると「いくぜ」と誰にともなく軽く声をかけすぐに釣竿の糸を湖に投げ込んだ。ぽちゃん、と小さな波紋と音を立てながら餌たちは、すこしだけにごった魔法の鏡みたいな湖面へと、それだけが本物のものみたいに空間を掻き分けるみたいに、糸だけが湖のなかへと吸い込まれるように沈んでゆく。それはどこか神秘的な光景だった。自分というものと、自然との不可思議な乖離を感じてしまうかのような。
「今の時期って下のほうにいるって決まってるみてーでさ、ズラズラズラっとワカサギがくっついてくるらしーんだわ」
 男鹿は待つあいだ、インターネットという教科書で読んだ浅い知識を、なにも知らない葵へと得意げに披露した。知らないということはお互いに幸せなことなのだ。また、それはときに不幸にもなり得るのだけれど。男鹿は湖面をまじめな顔をして見つめ続ける。みんながボートで浮かぶ湖の上には、木々がカサつくだけでもゆらゆらとちいさく波紋を浮かべさせる。それだけで奥底は覗き込むことができなくなる。ボートのような重さと大きさの伴ったものが動けばそれは尚更だ。急に鏡が割れてしまったかのような、そんな感覚へと陥っていく。そしていつしか、瞬間見えただけの奥底を夢の出来事であったと感じてしまうほどに。つまり、湖面の揺れだけでは底の様子を計り知ることはできない。釣りの世界は感覚、特に指先の、竿を握るそのひとの身というものの研ぎ澄まされた感覚だけが頼りなのである。男鹿の眉間にはシワが寄っていて実に難しそうな顔をしている。その『感覚』という抽象的なものを神経の力で強めて、なんとか獲物を捕らえようともがいている男鹿の姿は、いつものアバレオーガとはまったく違うものであったので、それだけのことで葵はなぜかドギマギしてしまった。
 指先の感覚。指先から、わずかに震えるだけのような、ほんのちいさな感覚。それを掴むことができなければ、ワカサギという小さなちいさな獲物は逃げてしまうのだ。それが人間と魚との、奥が深い戦いのひとつの形である。男鹿は全身の神経を、自身の指先へと研ぎ澄ます努力をする。生まれて初めての釣り体験。つまり、今までにない感覚に、手すりに捕まりながらやるようなものだ。だから、すぐに成功するとは限らない。だが、今日は成功してもらわないと困るのだ。それは、目の前にベル坊がいて、葵がいるためである。そんなことなど言葉になんてできないけれど。男鹿は黙って指先に神経を集中させる。それは、まるで瞑想のようなものだと思った。掴めないものを掴むかのような、そんな淡い感覚のなかに放り込まれたような。研ぎ澄まされた感覚のなか、男鹿はわずかな、ほんのかすかな生命の揺らめきを指先でとらえる。クン、と震えにも近いそれは、葵とむだ話をしているだけできっと感じることを失ってしまうだろう。その動きに呼応する。あとは垂らした針を魚の口へとうまく引っ掛ける必要がある。見えないことを動きで体現する。それが釣りというもので、人と魚との知恵くらべなのだと男鹿の祖父は語っていた。じーさんにできることを俺ができねぇはずはねぇ。そんな邪な想いなどどこかへ吹き飛んでいた。男鹿は自分もわずかに手首のグリップで竿の先を動かし、うまくアワセができていることを祈る。そしてそのかすかな動きが失われていないであろうことを願いながら、だが興奮を深呼吸により鎮めつつ、わざとゆったりした動きで釣竿を上へと、自分のほうへと上げてゆく。その瞬間は期待と不安が胸いっぱいにゆく。
 声は失われていた。湖面に水音を叩かせてキラリと輝くその光は、まるで後光が射したようにも見える。ちいさな魚の形に光が輝く。初めての釣りの結果は、10本針で2匹のワカサギ。
「どーだっ!!」
 得意げに男鹿は葵とベル坊に向けていい放つ。大声は上げないようにしながら。理由は、魚は騒がしいのはあまり得意ではないためである。しかし、ダム湖だからあまり実をいえば関係はないのだが、男鹿にしてみれば自分の調べた勉強どおりにワカサギの生態に則ってやってみたかった。それだけのことである。
 初釣りとしては、まずまずの滑り出しだった。男鹿はそれを手早く外して、ふたたび釣りへと興じた。気短に、15分ほど釣れなければボートを漕いで移動する。周りの様子に目を配るような男鹿はいつもとは違う男鹿だ。だが、ニヤリと口角をあげる悪魔のような笑みは、まさに男鹿そのものだった。それから、しばらくの間男鹿を見つめる葵の目は、穏やかに細められていた。ゆったりと流れる、少し寒いけれど、やわらかでかけがえのない時間だった。ベル坊も葵に抱かれながら、和んだような顔を浮かべ、時折男鹿の悪魔の笑みを見ては同じようにギラリと微笑みを浮かべたりしていたのだった。赤子らしくもなく。

 男鹿の初釣りは、30匹ほど釣ることができた。2時間ほどしか釣りはできなかったけれど、最後らへんには6匹ほど連なって釣れる、というのが本日の最高記録になった。そのときはベル坊が抱っこされながら男鹿と葵の喜んだ様子に喜びはしゃいだお陰で、ボートがかなり激しくぐらついた。落ちたら怖くて泣いてしまうのは目に見えているので、ベル坊をあやしながらジャバジャバと二人で片手ずつボートを漕いで岸へと向かったのでことなきを得たのだった。いつだって男鹿と一緒にいるときは気を緩めていられない。餌は余っているがそれを大事そうに持ち帰る男鹿を子どもみたいだと葵は笑った。意味もわからずベル坊も笑った。男鹿だけが黙った。
 帰りもまた長い道のりだった。ベル坊は疲れて男鹿に抱かれながら眠ってしまった。その間は二人だけだった。夫婦みたいに、二人だけになった。バスと電車に揺られながら、電車のなかでは二人は向き合って座った。男鹿も珍しいほどご機嫌だ。
「意外と、おもしろかったろ?」
「うん。初めて見たけど、…そうね」
 そう答えないわけがない、ともはやそれは決まっているかのような、そんな表情の男鹿に、よくわからなかった、だなんて本音を吐けるはずもない。また、つまらなかったわけではない。楽しかった。確かに、楽しかったのだ。でも、分からなかった。それがほんとうのところだ。そう、男鹿といることは分からないの連続で、ハラハラすることも多いけれど、それも含めて楽しいのだ。そう感じる葵は悔しかった。言葉なんて伝える何物にもならない。語彙だってすくない。楽しかった、なんて感想じゃ伝わらない。この想いは。きっと理解するには言葉じゃないなにかで伝えるしかないのだろう。言葉じゃないなにか。それはふれあいだったり、微笑みだったり、そのときの状況やなにやらによって違うのだろう。
 動く電車のなかで外を見ると、チラチラと降る雪が幻みたいに見えた。寒さなんてほとんど感じなかったのに、それでも地球に雪は降る。不思議なことだった。葵は短く「雪」といった。男鹿も同じように身を乗り出し外を見やる。
「釣りしてるとき、寒くなかったのにな。へんなの」
 同じ場所で同じ感覚で、生きることのすばらしさと感動に、葵は嬉しくて堪らなくなりながら頷いた。きっと男鹿には伝わらない、そんな喜びなのだろうけれど。言葉にならない想いはただ笑うことで消化されていく。葵の笑顔が男鹿には眩しい。だが、笑う理由は伝わらない。それでいいと思う。理由なんて必要ない。今は最高ということで、間違いないのだから。なぜだか、とても、うれしかった。


「ただいま、邦枝のじーさん」
「ここは貴様の家じゃないわい」
 一刀斎の小言など気にする男鹿ではない。すっかり暗くなる直前の、空の下のほうに薄ぼんやりと見える夕陽だけが、不自然に紅い。そこだけ燃えているような空は暗いので、高いのか低いのか判別ができない。そんななか白い息を吐きながら男鹿、ベル坊、葵の三人は顔を揃えて邦枝家に来ていた。今日の戦利品を彼に託して。
「みんなで食べよっ!」
 こんなときの紅一点。葵はわざとらしいほど明るい声を出して今日はアヤしいことなどなかったのだと、ちゃんと証拠品を伴って見せたかったのもある。もちろんワカサギの唐揚げがおいしいのも知ってのことだ。
「やったことないから、やりかた教えて。おじいちゃん」
「やりかた……うむむ、く、わかった」
 かわいい孫に押し切られてしまっては、一刀斎であっても怒りの方向に気持ちを向けることはできない。さすがにこういうときの女子は強い。男鹿はただワカサギを進呈するだけだ。
 祖父と孫娘はワカサギの下処理、調理をするまでしばらくの間、男鹿はベル坊にミルクをやったり、光太と遊ばせたりしながらときを過ごした。ちなみに、男鹿は遠出するから遅くなるということは家族に伝え済みである。台所から居間にまで聞こえる葵と一刀斎のやりとりが微笑ましい。だが殺伐としているのだろう、とも予想できる。そういう祖父と孫との付き合いだ。
 事実、下処理は祖父の怒鳴り声から始まった。包丁を持つ手を止めさせるのでひと声。基本、ちいさな魚であるワカサギの下処理については、特に内臓を取りだす必要はない。内臓ごと食べられるので、よほど大きくなっていなければ問題ない。それを知らない葵はまず一撃のうちに怒鳴られたのだった。ウロコを取るには、塩でこすって水で洗い、汚れと一緒にウロコを取ってしまうという簡単なやりかただ。これも料理が唐揚げということであれば、細かなウロコは気にしなくても構わない。ウロコと汚れを落としてから軽く塩を振って少し寝かせる。この間に小麦粉と下味用に塩コショウを用意しておく。ワカサギは10分ほど寝かせ、水分が出てきたらそれを拭き取ったところで下処理は終了だ。それから塩コショウをふり、唐揚げのために小麦粉をまぶす。十分に油を温めて揚げすぎないように揚げる。体はちいさいので揚げるのにはあまり時間がかからない。また、温度が下がらないようにワカサギを鍋のなかに入れすぎないこと、など細かい一刀斎のアドバイスのもと、男鹿の前に並んだワカサギの唐揚げを主とした邦枝家の晩御飯は実に自然の味と、家庭らしいやさしさとやわらかな和みが溢れていた。葵はすこしだけ疲れたような顔をしていたが、それに気づける男鹿でない。
「いっただきま〜す!」
 声が弾まないはずがない。男鹿が釣った魚を、葵が調理する。そんなことを高校生の時分にできるだなんて誰が予想したろう。邦枝ら、葵、一刀斎、光太の全員と男鹿とベル坊の計五人で食べる夕食は、一刀斎のせいで厳格な空気になると思いきや、そのおいしそうな香りには彼も負けて、ゆるやかな流れへと変わった。まるで全員で家族のような、ちょっぴり男子の率が高いところにトゲもあるなか、夕食はなごやかなムードで始まった。幸せの時間の始まりである。ふっくらと炊けているご飯のモチッとした甘さと、サクッと揚がっているワカサギに塩を振って口に運ぶ。ちょうどよく揚がっている歯応えと、塩のしょっぱさが口のなかに広がる。ご飯の甘さと相まって、ナチュラルな香ばしさにじゅわりと溶け込む旨味と、言葉にならない料理だけでなくて、今日のこととか今この瞬間だとか、すべてもろもろを踏まえて「よかった」という想い。男鹿の口から出たのは、ただひとつの、単純な言葉でしかなかった。
「邦枝、マジうんめぇ〜〜〜!」
「アーダァーーー!」
 今年もいいことがある。きっと最高の年になる。そう男鹿は強く感じたのだった。


16.05.17

やっっと出来上がりました…!
完成度は前にも増して低いんですけどひくいんですけど…っ!!(スマン)
なぜか清原の初公判のニュースと同じ日にできたのは、意味がありませんよ特にw

これ実は年始に釣り番組見てて「あー書きてぇーなぁー」って思ったんです。だから、男鹿こそ私だったのでしょうw
釣りデート。絶対女子喜びません。
分かってて、バリバリ細かく描写、まではするつもりもなかったですが、ある程度詳しくは書きたいなと思っていたら、まぁ着くまでも長いし、着いてからのも長くなってしまいました…。
気持ちとかの描写というより、あまり意味のない情景描写っていう感じにまとまらないし、どうなんだろうなぁと思いつつも、こんなデートがあってもいいよね!と慰めながら?書いてました。料理についてもそうです。
釣りをして持ち帰ればあとは食べるか、飼うかしかないわけでね。魚は下処理が必要になるのだし、そっちについてはちょっとだけが触れてみました。
気持ちなどの方ももっと書きたいなぁと思ったんだけど、くどくなりそうなのもあったし、今回のデートにはサラッとした言葉でまとめるのがちょうどいいのかなっていう感じで丁度かと思ったのでごくフツー〜のデートにしてしまいました。
一応次あたりにでも、えっちなのちょぃと書こうかなと思ってますので、それも含めて気持ちについてはそっちで書けばいいやってなりましたw



登竜湖のモデルは、千葉県の高滝湖です。参考URLは以下
http://s.ameblo.jp/saito-junichi/entry-11091241007.html
http://wakasagi1.com/benisasi
2016/05/17 19:26:16